「わたしのための物語になりうる」といい

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ツイッターにて「本日もばりばり営業中ですよ、じゃんじゃん来てね!」という趣旨の投稿をする際に、小説の感想というかある小説を読み始めた際の「わっ」という感情が綴られているツイートに出くわした。
そこに「これはわたしのための物語になりうるやつだ」というようなことがあり、僕はわりとのそのフレーズだけで「泣くぞ?」という気になったし、その感覚ものすごい羨ましいというか激しく羨ましすぎと思った。
今そういうものにとても触れたくて、そんなものを読みたいと思っていて、昔読んだものとか、新しく買ったものとか、手当たりってほどでもないけれどもあれこれ次第に読もうと思って開いてみるもすぐさま「違う」となって3行とかでやめるみたいな、そういうことが繰り返されていてどれとも上手に関係を築けない。3行で見切らずにもうしばらく伴走してみれば、フィットするところも見えてくるかもしれないけれど、そういう忍耐みたいなものはどこかに置いてきているらしくほとんど投げ捨てるようにして「なし」みたいな判断がくだされている。気分としてそういいものじゃない。
今はそもそも本ではないのかもしれない。
『はじまりのうた』がそれだったのかもしれない。あるいは事あるごとに聞くSIMI LABの「Worth Life」やOMSBの「Against Gangsta」がそれなのかもしれない。今の僕のためのxxx足りうるのは。
もしかしたらまだ見ぬどこか、店だったり場所だったりするのかもしれない。いくつかの、「あ、これは僕のための場所になりうるやつだ」と、そう感じた店というのが存在して、今またそういう場所と出会ってみたいのかもしれない。あるいはまたそこに行ってみればいいのかもしれない。
僕は僕でそれを希求するし、何度も繰り返し同じようなことを書いていることだけれども、一方でフヅクエが誰かのそれになったらいいなとも、なってほしいとも思う。これはほかでもないわたしのための場所になりうると、ほかでもないわたしに向けられた場所になりうると、そう感じてくれる人がいたらと思うし、そしてそう感じる瞬間ってものすごいプレシャスというかプレシャスすぎてちょっととんでもないよねというか大事故という感じだよねと思うし、そしてそういった気分を知らされたとき僕は涙が出るほどシンプルにうれしいなと、先日も思ったのだった。
だからここはきっとあなたのための場所で、あなたのための物語をここで紡いでくれたらと、大まじめにそう思うよね。ここで向けられている「あなた」が立派な数いると、店的にもすごい幸福だよねと、そう思うよね、だからその可能性を広げていきたいし深めていきたいよねと、そう思うよね、という感じだよね。
(『あなたのための物語』という小説があるんだね。長谷川敏司って面白いっていうかすごいって聞いたことある気がする。あなたのためって言われてるし今の僕はこれ読むべきってことかな)