『若い藝術家の肖像』を読む(21) アーティストとは何か ジョナス・メカス『フローズン・フィルム・フレームズ』より

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美しいものに触れたい。あるいは完全に破壊的なものでもいいけれど。そういう夜は何度だって訪れる。
「私が関心を持っているのは、人間の感情や顔です。人間の表情、とくに人がどうやって喜びを表すのか、幸せという表情をつくるのか、ということに私はこだわりつづけています。沈んだ表情や悲しみの感情については、他の人間にまかせるべきだと思いますし、あまり関心がありません。私は、人々が生を謳歌している様子をカメラに収めていきたいんです」
美しいもの。その一つとして浮かんだのがジョナス・メカスの『フローズン・フィルム・フレームズ』だったのだろう。僕はこれを美しい書物だと思う。だからそれを開いた。
「私はいつも能動的に映画を創造(create)しているのわけではなく、単に映画をつくっている filmmaker なんです。私はクリエイターではないし、「創造」という概念も嫌いです。さらに言えば、映画を「つくる」のですらない。私は filmer なんです。確かに撮影したフィルムを編集して映画と呼ばれるものにするときは、filmmaker なんですが、いつも私が最初にやっているのは、ただ filming しているだけです。もちろんそこから映画が生まれることもありますが、生まれない場合もある。最初から映画のアイディアやプロットがあるわけではありません。私は映画をつくろうとしているのではなく、人生を通じてただただ filming しているだけなのです」
僕自身は何者でもないけれども、どんな〜erも持たないけれども、持てたらいいなとは思うけれども、ともあれ、この発言に全面的な賛意を表す。いつもそう思う。創造や表現という言葉が苦手だ。「ただただ〜ingしているだけ」というのが僕には一番しっくりくる。
アーティスト、という語が2箇所で出てきた。『若い藝術家の肖像』A Portrait of the Artist as a Young Man アーティスト。アーティストとはなんなんだろうか。少なくとも僕にとっては得意な単語ではない。
メカスはなんと書いているのか。
「わたしも身をまもろうとして、日記映画を撮った。自衛のため、周囲の惨憺たるありさまにおしつぶされないように、わたしの感覚のすべて、存在のすべてに向けられる攻撃をふせぐために。そう、自己防衛の手だてにわたしは映画を撮っている。(…)だから身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ。今、求められているのはそれなのだから。わたしは過ちを正している。社会の過ちを正すのがアーティスト。政治屋や「社会事業家」がめちゃくちゃにした後始末をしようとするのがアーティスト」
「身のまわりのささいなことがらに目を向け、それを愛でようとわたしはくりかえすのだ」ここまではすごく、いいね、とシンプルに思う。愛でたい。そう思う。でもそのあと言っていることはいまいちわからない。アーティストの社会的な役割?それを無条件に肯んじるという感覚に今は僕はなれない。
「覗き趣味はアーティストにとっては欠かせない要素だ。アーティストは人生を、現実を、世界の姿を見つめる。アーティストは観察し、吸収する。質問の中か、それとも自分の意見を述べたときだったか、スミスは覗き趣味は悪いことであるかのような言い方をした。そんなことはない。覗き趣味はアーティストが仕事をするうえでは欠かせない手段なのだ」
なんとなく腑に落ちるけれども、それはあくまで一つの要素なのだろう。わりとなんでもいいやと感じる。
アーティストとは何か。『若い藝術家の肖像』のアーティストは、どんな振る舞いを見せるのだろうか。この小説で言われる「アーティスト」とは、どんな存在なのだろうか。
ところで、一つ間違いをやらかした。原題を確認しようと検索したらWikipediaが検索結果のトップに出てきて、作品が発表された年が発覚してしまった。1916年。アイルランド独立の5年前。激動であろうそのあたりの時代、アーティストである若者は何を感じどう生きたのか。
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