本を読むのが好きだし、本を読んでいる人も好きだ。(なんか恥ずかしい自己愛の表明みたいになってるな…)
もちろんただの趣味ではあるのだけど、そこには未知との遭遇への希求であったり、生きる世界を拡張しようとする意志があったりするように思える。自分に負荷をかけて、自分の足で進む以外には進む手段のない行為を選択するというところもなんとも言えずいい。
ところでストラグルという言葉が好きだ。ストラグルという言葉はすごく、戦っている、もがいている、あがいている感じがしてとてもいい。(英語わからないのでニュアンス違っていたら恥ずかしいところだけど)
本を読むというのはわりとこのストラグルの感じが僕の中にはあって、しかもすごく「わざわざ」という感じがある。これだけ時間を消費する選択肢が多様になっている中で、楽で楽しいことなんて他にいくらでもあるのに、時に退屈に陥りながら、時に眠くなりながら、1ページ1ページを這うように(もちろん時には踊るように)進んでいくという行為はほとんど倒錯的と言ってもいいんじゃないかというわざわざ感がある。
今の自分で満足するわけでなく、諦めるでもなく、ちょっとでも新しいことに触れられないか、ちょっとでも知らない世界のあり様を覗けないか、ちょっとでも遠くに飛ぶことができないかとあがいている、奮闘している感じがある。
読書という行為にはそういうところがあると思うし、読書にかぎらずストラグルしている人、人生をよりよく生きようとしている人、そのために一人になる時間が必要な人、遠くまで飛ぼうとしている人、そんな人が、そんな態度が僕は好きで、だからそういう人を応援したい、そういう人にとって心置きなくストラグルできる場所、でありながら心から安らげる場所、時間というのを僕は提供したい。あるいはお客さんと一緒に作っていきたい。
で、フヅクエでは「持続的な会話」と並んで「学生さんのテスト勉強」もご遠慮いただいている。なぜか。
なぜか、とか言うとスパッと回答が出てきそうな気配あるけど答えは実は明文化できていなくて、完全に感覚的なものなのだけど、僕の中で学生さんのテスト勉強にはストラグル要素が感じられない、別にそれ応援したくない、というところだ。だってそれ自分が進みたくてやってるんじゃなくてやれって言われたからやってるんでしょ、というか。身も蓋もないけど。なんかそんな感じでいるのだけど、これで伝わるものだろうか。
ザ・ブルーハーブのライブDVDで知ったやつなのだけど、この詩がすごく好きだ。
みんなが町で暮らしたり/一日あそんでいるときに/おまえはひとりであの石原の草を刈る/そのさびしさでおまえは音をつくるのだ/多くの侮辱や窮乏の/それらを噛んで歌うのだ/もしも楽器がなかったら/いいかおまえはおれの弟子なのだ/ちからのかぎり/そらいっぱいの/光でできたパイプオルガンを弾くがいい(宮沢賢治「告別」より)