スペシャルティコーヒーとは何なんだろう改めて、と調べている中で当たったのだったか、サイト内検索で見つけたのかは忘れたけど、この記事が僕の中ではいちばんすっと腑に落ちた。そして最後におおいに感動した。
“コモディティコーヒー”と“スペシャルティコーヒー” | 琥珀色のウタカタ
(今回だいぶ引用が多いのでこちらを素直に読んだ方がよほど実があると思います)
そういうわけでこの記事によると、コモディティコーヒーあるいはコマーシャルコーヒーは、要は標高や豆の大きさ(スクリーンと言うらしい)等でざくっと格付けされ、需要と供給によって決まった市場価格で取引されるコーヒー。誰が作ったとかどんな手間暇かけて作ったとかは考慮されずに、キロいくらっていう感じで十把一絡げに取引される、と。
僕この記事にはけっこう節々で感動したのだけど、その一つがこのコモディティコーヒーに対するこのコメントで。
「この仕組み自体は、まったく批判されるべきものではありません。キロあたりの価格でコーヒーを買い取る仕組みが存在しなければ、コーヒー農家が存続することはほとんど不可能です。なぜならコーヒーは農産物であり、高品質なものから低品質なものまで生産されうるからです。」
なんか、何かに対してコンシャスであればあるほど、簡単に「(劣ったもの)?そんなのダメだ!(優れたもの)こそ至上!」みたいに言いたくなるんじゃないのかなって思うのだけど、このエクスキューズをつける態度を持てるってすごいことなんじゃないのかと感じ入ってしまった。
で、一方のスペシャルティコーヒーは「素晴らしい風味をもつ高品質なものを選別してくれれば、市場価格よりも高い価格でコーヒーを買い取るよ、というところから、スペシャルティコーヒーは始まっています」とのことで、風味等による評価基準の設定や様々な団体の精力的な活動によって生産者もやる気になる、いいものが生まれる、よりまっとうな対価が発生する、またやる気になる、みたいなナイスな循環、みたいなところだろうか。
「最後に大事なことは、コモディティコーヒーとスペシャルティコーヒーは対立する概念ではない、ということです。この2者の違いは、流通経路(価格決定のプロセス)と品質です。コーヒーによって生計を立てている生産者が、手間をかけて高品質なコーヒーを作れば、もしかしたらもっと収入が得られるかもしれない、自分のコーヒーを高く評価してくれる人がいるかもしれない、そんな仕組みがある、ということに過ぎません。」
そして最後のまとめに僕は大いに感動して。
「思うに私たちは、コーヒーに限らず様々なものの値段にもう少し思いを至らせるべきなのかもしれない、と思います。たまたま私はコーヒーを通じてそういうことを考えるきっかけを得ましたが、世の中にはどういった理屈で価格が決まっているのか、実はよくわかっていないものが沢山あるような気がします。個人的には少なくとも、自分が好きなものについては、できるだけ品質に誠実な価格設定になっているものを選びたいと思います。そういう考え方が、もしかしたら遠回りかもしれないですけど、自分の好きなものを支える一番簡単な方法なんだと思います。
美味しいコーヒーがなくなってしまうのは、やっぱり嫌ですからね。」
もうなんかほんと全部これだなと思いました。
この美味しいコーヒーがなくなったら嫌だから、それを選ぶ、そしてちゃんと払う。
何かに対してお金を払うのってこの動機によるものだけでいいんじゃないかって、それは極端かもしれないけど、これは本当に強く思うんだよね。何がいいって、これをドライブさせる原理っていうのが、「気の毒だから支援する、施す」みたいな憐れみの類の感情ではなくて、「なくなったら嫌だ!」というほとんど駄々っ子みたいな自分の欲求っていうのがいい。それが一番健全だと僕は思っている。
なんかこう、コーヒー等の農産物にしても、音楽家や作家等の活動にしても、誰かの何かのスキルにしても、場所や店やサービスにしても、なんでもそうなんだけど、続いてほしいから、好きだから、価値があると思うから払う、という、その原理で世界が回ったらそれはけっこうなところ美しいことなんじゃないのか、って思うんです。そればっかりじゃいかない、難しいっていうのはよくわかっている。だけど少なくとも僕自身はそんなお金の使い方の比重を少しでも高めていけたらなと思っている。
そんなことをいつも思っていたので期せずして感動したという話。
そういうわけで無事、スペシャルティコーヒーの定義が決まった。
「作られ続けてほしい、だから買うコーヒー」
何も説明できていないようでいて全部が包括されている気がするので、僕の中ではこれでいいかな、と思った次第。