武田泰淳『目まいのする散歩』(中央公論新社)

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####武田泰淳『目まいのする散歩』(中央公論新社)
1月29日(水)
すーっとまっすぐ、まっすぐ歩いた。1キロあったが簡単だった、中学校があって、特別支援学校があって、行き過ぎた、と思って戻って曲がると開いた窓からピアノの音、教師の声、生徒の声、それから合唱の声が聞こえて、学校の音だ、と思ってなにか贅沢なものを聞くような気分で通り過ぎてそれは朝鮮学校だった、ずいぶん学校が固まってある場所だった、そのすぐのところがTRUCKだった、入って、椅子を見た、目当てだった椅子は僕が目当てにしていたのは深いグリーンのコーデュロイで張られたバージョンだったがそれはなくて革バージョンのやつで、しっかりアームがあると座るときにけっこう引かないといけなくて邪魔かなとそれだけ懸念していたが、思ったよりも引かないでも座れるふうで、座り心地はやっぱりよかった、僕が目当てにしていたそれはアームダイニングチェアというやつで同じところにあったアームチェアというのも、こちらは少しだけこぶりで、これもまたよかった、これも張り地をコーデュロイにできるようだった、読み心地を、と思って座りながら本を開くということを試すつもりで持ってきていた武田泰淳を開いて、天井の高い、広々とした、自然光で爽やかに明るい空間で、アームに肘を掛けたり、テーブル側に体重を寄せたりして、読んでみた、するとその箇所が妙によくて、うわ、いいな、と思ってページを折った。
あまり、あたり一面ひろびろとしていて静かなので、却って「ああ、世はすべてこともなし」という感じは起きない。むしろ、静かにざわめいているような気がする。幼稚園か保育所の子供たちをつれてきた女先生の口にあてがった号令の笛がピッピッと聞える。いくら笛が鳴っても、わがままな子供は勝手な方角に向ってつき進み、そして転がる。女先生の仕事は、時間が経つまで無事にすんでいればいいわけで、笛の音は、しばらくとまっては、また聞えはじめる。眼や耳のはたらきの届くかぎり、あたり一面に、調和のとれているくせに何か神経を焦らだたせるざわめきが、みちひろがっていた。その焦らだつ神経は、私が生れたときから維持されていて、地球上のざわめきと連絡のある、貴重な手がかりらしかった。いままで見たこともない、すばらしく大きい蝶や蛾のようなものが、うす色の羽を地球の上にひろげて、ゆっくりと羽ばたいていて、その羽ばたきは、何かしら一種の親愛の情をもって、私の上にかぶさっていた。 武田泰淳『目まいのする散歩』(中央公論新社)p.21,22
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