読書日記(157)

2019.10.13
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##10月3日(木)  キングサイズのマットレスで眠って途中で目が覚めたときに自分の体が大きく斜めになっていることがわかってこれまでは取れなかった姿勢を、勝手に取っている、これはこれまでこの姿勢が禁じられていたということだろうか、取れるならばこうなってしまうことを体に許したかったのだろうか。起きてすっきりと目覚めて、といきたいところだったが朝は眠かった。しかし慢性的になぜか続いてしまっている右肩の痛みはすっかり取れて、といきたいところだったが肩は痛かったし朝は疲れていた。でも少し、軽かったような気がする。どうか。
八百屋さんに向かっていると老年の男性ふたりが立ち話をしていて、そこに自転車に乗った老年の男性がチリンチリンと鈴を鳴らしながら近づいてきて止まってだから井戸端会議が3人になった、その様子を見ていると男の子がそのまま大人になって年老いてというふうに見えて、というか男の子の姿が見えるようだった、少し明るい気持ちがあった。
ポテトサラダとチーズケーキの作成をマキノさんに任せて僕はにんじんしりしりをつくってそれで開店になって、今日は6時までなので日中はやることが済んだらまたドトールで原稿をどこまでやれるか、それが勝負でその勝負をやることにして2時を過ぎてドトールに行った、またジョン・フェイヒーを聞いていた。いくらか進んだ感じがあって、途中でトイレに立った。ドトールのトイレはビルの共同のトイレで施錠されていて数字を入れると解錠される、店内にいくつか張り紙があってその数字が書かれている。トイレに向かう廊下を歩いていると数歩前にスーツ姿のおじさんがあった。その人に解錠を任せて廊下の壁に軽く寄り掛かっていると、二度、何か失敗したらしく、「あれ」と言って、それが二人の合図であるかのようにスムースに解錠の役割を交代した、それで僕がいつもの4桁の数字と最後の「E」を入れるとおじさんは「あ、イーか」と言って、しかし鍵のディスプレイに表示されたのは「NO」だったから僕は「あれ、ノーだ」と言って、「番号変わったんですかね」と言うと「変わってないでしょう」、すると中から人が出てきた、それで入れた、入りながらおじさんが「嫌な感じだねえ、たかがトイレでねえ」と言うから「人がいてよかったです」と笑いながら言った。たかがトイレで嫌な感じというのがどういう不平なのかはわからなかったしこの不平のこぼし方をする人とは話が合わないのではないかとも思ったが、合うも合わないも膝を突き合わせて話すわけではないし僕たちは並んでおしっこをしているだけだ。それぞれの膝は便器と突き合わせられていてもし僕とおじさんが膝を突き合わせていたら互いにおしっこを掛け合うことになってそれは目も当てられない惨事だ。だから膝を突き合わせて話すわけでもおしっこを掛け合うわけでもないから話が合おうが合うまいがいいがこの短いコミュニケーションというのは僕はよかったしおじさんもきっとよかった。
店に戻ると今日も惨憺で、お客さんの数を合計すると2という数字がはじき出されて、そうか、と思った、マキノさんは5時で上がって僕は6時までが店で、『読書実録』を読むことにした。これは本当にきれいなピンク、と思って、ソファのお客さんも来られたときにあのきれいなピンクの表紙の本を机に出していて「僕はこれはいいピンクですよねえ」と言ったから、だから今ももしかしたらちょうど読んでいるところかもしれなかった、5時を過ぎてもうおひとり来られて、今日はすいません6時までなんですよと言うも構わないということで、オーダーされたハーブティーを淹れているとその方が酒瓶のあいだから顔を覗かせてなにか短編集か詩集でおすすめのものってありませんか、と尋ねてきて、どういうものがいいのだろう、と聞くと、なんと答えられたのだったか、やわらかい気分になれるもの、だったか、フラットな心地になれるもの、だったか、忘れたが、「今日は怒っていて」と言ったので「怒っているんですね」と笑って、僕はいつもそうだが、考えた結果わりと同じ結果になってしまうのだが、保坂和志の『この人の閾』とこれは短編集ではなかったが細かく章が区切られているしよかろうとサローヤンの『パパ・ユーア クレイジー』を持っていった、『この人の閾』は珍しいチョイスでいつもはそうではなく『季節の記憶』だが今日は短編ということだから『この人の閾』で、これは静かな凪のような時間をなにか、感じられるのではないかと、思ってそれで、だからもしかしたら今この店内にいる人は全員保坂和志を読んでいることになるかもしれない、と思って、思いながら、『読書実録』を読んだ、「夢と芸術と現実」はレリスの夢のところはやはりしんどくて、少し呼吸が苦しくなるようなきつさがあってそれを、じっくり読んでいた。
だからそれはやはりいわゆる物語のように出来事の順番を時間の流れとともに追う面白さではない、それは一気にくる。よく知っている曲のイントロの数音、場合によってはたった一音でその曲全体を思い出すように、そしてまたある曲が流れてきたらその曲が呼び水となって二十代の恋愛のいくつもの場面が押し寄せてくるように、記憶というのは本来非時間的な特性を持っている。
私はここで人の記憶と書かなかったのは、人よりも動物の方が記憶の非時間的呼び出し能力が高いと私は結論している、この断定にいま私はためらいはない。 保坂和志『読書実録』(河出書房新社)p.144
面白くて、まだ時間があったのでまた「夢と芸術と現実」を頭から読み出して、しばらく読んでいたら閉店になったため閉店にした。そのまま店に居残り、またメルツバウを聞きながらラジオをやって、眠気が圧倒的なものとしてあった、しかし眠るのはリスキー過ぎた、それで起きていた、がんばって原稿をやろう、とがんばり、9時くらいで疲れが限界に達して一切の集中がなくなったので終えた。飯を、食った、味噌汁とおかずと大量の米を、食った。昨日の夜、あたたかい汁気のあるものを食べたいなと思ったがそれは味噌汁のことだった、だから食おうと思っていた、食った、食って、うまかった、腹がいっぱいになった、原稿を読み直して、平野さんに送って、10時を過ぎた。やっと今日の仕事は終わりでだから営業とか閉店とか関係がないことらしかった。終わらない。終わらないな、と思って、来週も予定を入れていないけれどもどこかで予定を入れたほうがきっとよくて楽しみがなくては潤いがあまりにない。
と思ってしょぼしょぼとした気分で帰って、今日は久しぶりに湯船につかった。扉の外で体育座りをしている遊ちゃんとおしゃべりをしながらゆっくり風呂に入った。疲れよ、これでどうだ、という気持ちだった。まだ飲酒はしていなかったが飲酒を始めてソファで、『読書実録』の次のところに行った、バートルビーの回で、これがすごかった、すごい、すごい、と思いながら一歩一歩読んで、変な緊張を覚えながら一歩一歩読んでいた、読み終えて、また頭から読みだした、そうせずにすめばありがたいのですが……なんでこんなに保坂和志の文章を読んでいるときというのは頭がずっとアクティブな状態にあるというかずっと冴え冴えとしているというかだから楽しいのだろうか、ずっと頭が生きている感じがある、向かいのマットレスで遊ちゃんは寝っ転がっている、もう眠ったかもしれない、この配置になって部屋に遠近が生じた、それは心地いい見え方だった、酒を注ぎ足して飲んで、読んだ。
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##この週に読んだり買ったりした本
劉慈欣『三体』(立原透耶監修、大森望・光吉さくら・ワンチャイ訳、早川書房)https://amzn.to/2UJc36R
保坂和志『読書実録』(河出書房新社) https://amzn.to/2nFdWFy