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武田百合子『富士日記(下)』(中央公論新社)

2017年9月1日
付けが変わると雨はやんだ。寝る前は『富士日記』の下巻に突入した。

食堂の硝子拭き。夕焼でも虹でも花畑の花でもごはんを食べながらみられる西側の二枚の硝子戸は、ことさら念入りに磨く。主人はテラスで風に吹かれている。
「帝銀事件の平沢画伯が描いた絵で、日本髪結っためくらの女の人が鏡に向かっている絵見たことある? 『心眼』って題がついてるの。ずい分昔に一回しかみたことないけど忘れられないよ。あれ? この話、あたし前にもしたっけね。どういうわけか、硝子磨いたり鏡磨いたりするとき必ず思い出す。誰もいなければ一人で思い出しているだけだけど、そばに、とうちゃんがいるとついしゃべっちゃう」「もう何度もきいたぜ。しかし、まあ、しゃべりたきゃ、しゃべったってかまわんがね」。
「それで、また、この話をながくながくしゃべってしまった。 武田百合子『富士日記(下)』(中央公論新社)p.12

この夫婦はなんともいえないリズムで仲がよくて面白いし、武田百合子によって描かれる夫・武田泰淳の姿はぶっきらぼうで愛嬌があってかわいい。その描写に愛情を感じる。このいくらか後に泰淳が腹を下し、そのあと大岡昇平が腹を下すことがあり、持っていって一緒に食べた鱒寿司のせいなんじゃないか、と百合子は内心思うが言わないことにする場面があり、帰ったあとに泰淳が「大岡の下痢、本当は鱒ずしのせいかもしれないぞ。鱒ずしだと思っていると困るから、俺のはビールとクーラーだぞと何度も言ったんだ」と言う。
なんというか暮らしの様子を見ていると、原稿を持っていくのを忘れて一人で赤坂まで帰って往復するとか、夜中まで家にきた客の相手をした翌朝6時とかに家を出て運転するとか、夜にいきなり明朝帰るぞと泰淳が思い立って慌てて帰り支度をするとか、やっていることは大作家の過酷なアシスタント業でありマネージャー業という感じで、多分とてもハードだし、ただ静かで従順なだけの人だったら大変だったろうなと思うそういう仕事だけれども、忍従みたいな薄暗いものは感じられない。嫌なことには嫌だと言う感じがあるから、不満を溜めていくという様子もない。というのは日記から勝手に思うことで、実際にはどういうものなのかはわからないが。

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