本の読める店

今日の一冊

Entry 0716

滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋)

2018年7月16日(月)
途中途中で目を覚ましながら、8時になって起こされた、起きると、昨日の酒が完全に残っていて、体調がこれは悪いのではないか、というような調子があった、読経のときとかにしんどくなったら嫌だな、と最初思った。布団を畳んで車に乗っけて家に戻って、戻ると、もうわりと起きていて、朝ごはんの用意がされつつあった、朝から、ずいぶんいろいろなものが食卓に上っていた、ご飯、味噌汁、茄子の漬物、海苔の佃煮、ピーマンの肉詰め、ハンバーグ、ポテトサラダ、とんかつみたいなものの卵とじみたいなもの、あといくつか、すごいなこれは、と思いながら、ご飯を食べていた。この家にいると、ほとんどしゃべったこともないいとこの子供たちであるとかがいる中でも、不思議とそのまま落ち着けるような感覚があって、不思議なものだった、なにか、勝手にしていられる感覚がこの家にはあった。それは、この家がずっと、たくさんの人たちを迎えてきた時間の厚みみたいなものがそのまま返ってくるというようなことなのかもしれなかった。そこにいる人たちの関係性によってもたらされる落ち着きではなくて、この家という結び目というか、子どもや孫たちにとってのなにか結節点みたいな、そういうものがもたらす落ち着きなのかもしれなかった。それを全員が了解していることが、この気楽さをさらに高めているのかもしれなかった。
食後、店のほうに出て本を読んでいた。静かだった。しばらく読んでいると、部屋の壁がぱきっと音をたてた。

一音だけで別に続くでもないその音が、祖父のなにかであったかどうかなんて説明できないが、たとえばあの星が、ともう集会所の庭まで来ていた知花は空を見上げ適当な星をひとつ定めた。あの星がおじいちゃんの生前のなにかで今光ってるみたいなことを誰も証明できっこないけど、そうかもしれないと考えることをとめられなくない?
うん。 滝口悠生『死んでいない者』(文藝春秋) p.59

うん。7歳のちびっこがやってきて、テレビを見たいというからつけた、チャンネルをいくつか替えるとどれも朝のワイドショーで、普段は学校だからこのあたりの番組って見ることないんでしょ? と聞くとそうだということだったが、羽鳥アナウンサーというのだったか、たぶん羽鳥アナウンサー、が出ている番組で、「これ」と言った、しかし、大して見ようともしなかった、外に行こう、というので庭に出た、後ろをついて歩いた、庭の木や苔を点検するところから始めて、奥の畑のほうに行った、畑の端っこの竹林の入り口のところまで行って、草木を見ていると、トンボが飛んでいた、しっかりと黒い、透過性のない黒の羽のトンボがあって、黒いトンボだ、というと、捕まえるために近寄っていった、何か、藁みたいなものでできている小山をのぼって、進んでいった、そこから手を伸ばそうとして、でもその先は竹林の急斜面につながるというかそこへ何かでずぼっと落下するようなことがありそうなのでそっちは落ちるんじゃないか、というと素直に引き返してきた、黒いトンボが目の前に止まっていた、見ると、細い体は明るい緑色で、きれいだった。それから方向を変えて探検を続けた、小さいカエルがいて、器用に捕まえていた、それから木の幹に茶色いつやつやした卵を見つけて、拾った枝でつんつんとやると鈍くやぶれた、ヤモリの卵だろうか、と言った、ヤモリの卵ってあんな感じなの、と聞くと、トカゲの卵はあんな感じだ、ということだった。少し離れたところに立っていると、おじさんもさ、こっちで探そうよ、と言ってきて、おじさんって俺のこと? と聞くと、そうだ、ということで、おじさんと人に言われたのはなんというか初めてのことのような気がして、それから過ごす一日のあいだ、おじさん、という言葉を思い出すことが何度かあった。驚いたのかもしれなかった。いや、ただの、否認の感情か。
それからもしばらく、トカゲを捕まえてぶら下げてみたり、空いているほうの手でカエルを捕まえて食べさせようとしたが食べなかったりして、そろそろ中に戻らないか、俺は暑いよ、暑くないの、と聞くと、暑くない、涼しいくらい、と言って、どうして、大人になると暑いんだろうね、暑くてたまらないよ。その疑問への答えはなかったが、カマキリの巣を破壊しながら、カマキリは50匹くらい孵化するから、壊しちゃったほうがいいんだ、家がカマキリだらけになっちゃう、ということを教えてくれた、また、カマキリは親と一緒に行動しないから、カエルとかに食われてしまうんだ、人間は、親がいるから安心だ、そんなことを教えてくれた。そのあとも、拾った鉄の棒みたいなものを振り回しながら、インゴット、という、これをトントンとやって刀にするんだ、というようなことを教えてくれた、俺の知らないことをたくさん知っているなあ、と思ったし、都会の子どももこんなふうに虫であるとかに詳しくなるものなんだなあ、と感心した、いい時間で楽しかった。
昼前に寺に行き、着くとお弁当があったので食べた、また食事だ、と思って、食べたらお腹いっぱいになって、それから葬儀だった、今日も坊さん3人体制だったが今日はサイドの2人が読経するパートはなかった、それはそれでかっこうよかった。せみの鳴き声、夏の音の中で聞く読経は、いいものだった。
わたしたちは、おばあちゃんの横たわる棺を花でいっぱいにした。
わたしたちは、そのとき、悲しかった、悲しかったし、たぶんそこには、感謝とか、思い出の思い出しとか、その場にある幸福のようなもの、めでたさを伴わない幸福というものがあって、この、数十人の親族に見送られるおばあちゃん、そして彼女の存在によって存在している数十人の私たち、という、これを幸福と呼ばないでどうしたらいいのか僕にはわからない幸福に包まれて、泣いたり、泣かなかったりしながら、悲しかったし、感動した。こんなにいい、豊かな葬式には、もう二度と立ち会えないのではないか。

そこから焼き場へ。焼かれるのを待つ間、畳の控室のようなところで本を読んでいた、美之の、「どちらかと言うと働かずともこうしてなんとかなっていることについて、無理なく肯定的でいられるにはどうしたらいいかを考えているというか、わりと肯定的でいられるのはなぜか、ということについて日々考えているし」という、わりと肯定的でいられる、という、それは本当に健やかなことだよなあ、それでいいよなあ、濱口竜介の『親密さ』の工場で働く兄の言葉を思い出した、というところに続いて

引きこもりがちではあるにしても、卑屈であるわけでも、塞ぎがちであるわけでも、何かに熱中しているわけでもなく、むしろ平然としていて、スーパーに買い物に行ったり、何か凝った料理をつくって祖父と一緒に食べたりもしているらしい。そんな話を聞いて、いったい何を考えているのかわからない、などと言うのは自分が何も自分で考えようとしていないからだ。あいつらは、いっそ、お兄ちゃんが、典型的な、新聞やニュースで見るような、引きこもりの青年であってくれればいいのにと思ってるんだ、と知花はさっきプレハブで一緒に酒を飲んでいる時に言っていて、立派なことを言う妹だ、と美之は思った。 同前 p.117

それから、祖父が妻と喧嘩というか、祖父の感情が高ぶって、逃げるように家を出て、行きつけのスナックに行き、ママに、カラオケを一曲歌ってもらう、それはテレサ・テンの「時の流れに身をまかせ」で、プロ顔負けの歌声を披露した、と、その歌詞で章が終わって14章になって、

歌い終えた美之がギターを置き、いとこたち、そして浩輝は、歌を聴いている時から変わらぬ戸惑った様子のまま、誰かが何かを言うのを待った。 同前 p.132

という一文にぶつかった瞬間に、大きな、分厚い、感情の動きのようなものに見舞われ、本を閉じた。泣きそうになって、胸の内側で何かが轟々と音を立てていて、しばらくやめた。広間では、10くらいのテーブルに別れて人々が、茶を飲んだり菓子をつまんだりビールを開けたりしながら歓談していて、ちびっこたちは楽しそうにここでも走り回っていたか。明日は君たちは学校があるのか。

明日も忌引きで学校に行かなくてもいい。でも明後日からはまた学校で、授業はいやだし、中間テストは迫っているし、進路のことも考えなくてはいけない。ひそかに思いを寄せている行きつけの美容院の美容師にはたぶん彼女がいる。でも、今夜は気持ちがいい。明日まではいやなことを考えなくていい。おじいちゃんが死んだんだから、こんなに晴れやかな気持ちになるのはおかしいけれど、どうしてか、かなしみの隙間にこういう晴れやかさとか楽しさがないというのも嘘だ。たしかに今私は晴れやかなのだから。 同前 p.135

かわのながれにーみをーまーかせー、あなーたーのうえーにーのーせーられー、とさっき美之が歌ったのとは全然同じじゃないメロディで、歌詞も違うしがなるような声だったがしかしやけくそのように歌い続け、やがて息が切れたみたいに歌うのをやめると、その場で腰を下ろして水のなかに尻をつけた。あー気持ち悪い。酔ったー。
知花ちゃん、大丈夫?
それから後ろに体を倒して、知花は水のなかに寝そべった。浅いから、頭と体の下半分が水に浸っただけだったが、浩輝は、流されるかもしれないと思い、知花の手を握った。知花も浩輝の手を握り返し、あー、気持ちいー、と間抜けな声をあげて目を閉じた。
あれ、と陽子がさっきみんなで歩いてきた方を見た。遠くから、長く響く鐘の音が聞こえてきた。 同前 p.138

僕はなんというか、こういう小説を書いてくれる人がいるんだから、大丈夫、という、何に対して何が大丈夫なのかわからなかったが、大丈夫という、なんだかそういう気になった。

薄い黄色や桃色やすみれ色がところどころにあるような骨を拾い、骨壷に移すと、知花たちはバスに乗り込んでまた寺に戻った。精進落しで食事が出され、あれは誰だったろうか、また飯かあ、と冗談めかした声が上がり、そんなこと言って、どうせみんな食べちゃうんだから、と伯母連中の一人が言うと、どっと笑いが起こった。ゆるやかな終わりの気配があった。フェス会場をあとにして、じゃああそこで、と言って数台の車で別々に向かって入ったうどん屋で、あるいはスーパー銭湯で、話したり、話さなかったりしながら、明日からまた暮らしが始まると、誰しもが思っている、そこに流れる暗くはない倦怠やまどろみのような、そういう時間にいくらか似たものがそこにはあった。少しずつ、人が減っていく。
寺を辞し、実家に戻り、ごろんと横になると、家に帰りたい、という気持ちが強く湧いて、湧いたと思ったら僕のごろんの横に姪っ子がちょこんと来て座って、この2日の、たくさんの数の見知らぬ人が周りにいたという状況下で相対的に僕の地位が上がったような気がし、仲良くなったならうれしかった、それで、カレーが出てきたのでまたご飯を食べ、桃を食べ、母の運転で駅まで送ってもらった、姉と姪っ子はもう一日いるらしく、帰りは姉の夫というかだから義兄とだった、宇都宮の乗り換えでグリーン車に座り、僕は「鈍行で時間を掛けて」 × 「グリーン車で安定」という状況がすごくご褒美みたいな感じがある、そこでビールを飲み飲み、話し話し、広がる田んぼ、乳白色の光を受けてさやさやと揺れる明るい田んぼや、深い緑色の高い木々による森みたいなものであるとかを見ながら、これらが僕に与えてくるこの落ち着きのような安堵のような感情はいったいなんなんだろうな、と思った。本当はこういう場所にいたいのだろうか、たまに見られればそれで足りるのだろうか。
窓外の景色は、空が暗くなるにつれて今度は商用の光というか、ネオンの割合を高めていった、都心に近づいていった。赤羽で降りて義兄と別れて、新宿、それから初台、店に行った、それで翌日の準備をいくらかして、2日間エアコンの掛かっていなかった店内は暑かった、暑い、と思いながら、アイスコーヒーを淹れて飲んで、働いて、家に帰って、風呂に入って、ゆっくり浸かって、汗をかいて、ビールを飲んで、遊ちゃんと話して、布団に横になって、本を開いて、『レーナの日記』を何日分か読んで、早い時間、眠りについた。

・・・

現在の読書日記はメルマガにて配信しています。
店主阿久津隆著『読書の日記』(NUMABOOKS)も発売中です。
下北沢店をつくります&スタッフ募集のお知らせ

メールマガジン「読書日記/フヅクエラジオ」のご案内

「今日の一冊」の他の記事