本の読める店

読書日記(143)

Entry diary143

6月27日(木) 

初台の区役所の出張所に行って「今日って27日ですか」と確認しながら印鑑証明書の発行をして店に行くと山口くんがなにか準備をしていて、ラジオを聞きながら開店準備をしているようだった、それをこっそり1分くらい見ていて気づかれて笑うということをしたかったのだけどいつまでも気づかれないのでこちらの腰も疲れるというところで静かに入って、朝の挨拶をした。昨日のことを謝って、というのが主な用事だったけれどいくつか書類をどうこうしないといけないものがあってそれの準備をしたりもした、12時になって、少しして、出た。
先週に続いてという感じで都営新宿線に乗って神保町に出て、岩波ホールでチケットを買ってからスヰートポーヅに行った、入口の前にふたり人があって待っているようだった、回転は早くすぐに通され、おばちゃんと相席で僕もおばちゃんも餃子定食を頼んだ、電車の中からそうしていたように『ソウル・ハンターズ』を引き続き読んでいて、去年来たときはウィトゲンシュタインの日記を読んでいたんだよな、それで目の前の男がクチャで、そうだった、と思って、思い出して、本を読んでいた。

思うに、これが指し示すのは、鏡像段階を発達段階として考えるのはおそらく間違いであることだ。すでに指摘したように、ラカンのアプローチをユカギール人に当てはめる上での主たる困難は、まさしく「段階」という彼の考え方による。それは、「伝統的な」狩猟民と西洋の子供のライフステージとを危険なほどに同一視してしまっている。だが、いかに私たち自身の身体的な断片化が決して完全に乗り越えられないか、またいかに自己と他者との間の境界はいくらか流動的で目立たないものであり続けるのかに関する多くの実証的な例に照らして見ると、ラカンの理論が実際に描いているのは、現実の時間におけるひと時のことではなく、自己であることと身体を持つことの本性であると私には思われる。 レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳、亜紀書房)p.125,126

「ラカンの理論が実際に描いているのってさ、現実の時間におけるひと時のことなんかじゃなくて、自己であることと身体を持つことの本性なんじゃないかって思うんだよね」と今度から言おうと思って、ラカンを読んだことはなかった。定食が来たので定食を食べた、おいしくお腹いっぱいになり、先週と同じようにテラススクエアに行った、建物に沿って丸テーブルと一対の椅子が10くらいまっすぐ並んでいるところがあってそこで違和感を目が覚えて、なにかと思ったらすべてのテーブルを一人が使っていて全員が同じ向きで座っているということだった。整列というか前へ倣えという格好で、だから同じ方向の背中がずっと向こうまで続いている、というのが目に入ってきた光景だった。日本人らしい、とふと思ったがこれは日本人らしさなのだろうか。ユカギール人はどう思うだろうか。あるいはクズリは。

「うむ、そんなふうにクズリは見てないぞ。私たちの食べる肉が贈り物であるのとほとんど同じように、クズリは見つけた肉をハズィアイン[霊的な主]からの贈り物と見るのだ。誰もが食べなくちゃならんし、ハズィアインはすべての子供たちと同じようにクズリにも食物を与える。だからクズリは自分たちがすることを盗みだとは思っていない。それどころかクズリの心の中では、盗みを理由にクズリを殺そうとする私たちこそが間違いを犯しているのだ」 同前 p.134 

岩波ホールに向かい、待合ホールは人がすでにたくさんだった、ちょうどよく座るところに座れたため、そして40分時間があったため、ラジオの収録をおこない、開場して席についてからもしばらく続け、隣の人は映画館の席で白いエディタに文字を打ち続ける様子にぎょっとしたのか、ディスプレイを見られた気がしてちょうどそのとき「映画館で隣の人がどうかでそのときの体験変わっちゃうし蓋を開けてみないとわからないところ多いから怖い」みたいなことを書いていたからこれ見られたとしたら恥ずかしいなと思って一度おしまいにしてリュックに入れ、でもやっぱりまだ時間があるしと思ってもう一度取り出して今度は少し畳み気味に開いて見えないようにして続けた。ブザーが鳴って、閉じて、映画を見た、フレデリック・ワイズマンの『ニューヨーク公共図書館 エクス・リブリス』で、冒頭から面白かった、なにかの電話対応をしている職員の人が映って「え、ユニコーンは想像上の動物ですよ」とか言ったあと、「中世英語はあまり得意ではないんですが訳してみます」みたいなことを言ってから訳し始めて、それがユニコーンが最初に確認された文献とかっぽく、「最後にEがついてますけど」みたいなことを言っていて、なんだろうこの高度な電話対応は、どういう部門なんだろう、と思って、その次も受付みたいな場所で「こういうことを調べたいんだけど」というリクエストに対してまずはこれを見てみて、そうしたら入港記録を当たって、ってやったら絞り込めるかも、みたいな、知の導き役という具合で、すごいぞニューヨーク公共図書館、と思って、それから一方的に眠気がやってきて「こんなはずじゃなかったのに」と思った、眠い時間が多く困った。『ニューヨーク、ジャクソンハイツへようこそ』もそうだったけれどこれもスピーチの映画で、でもジャクソンハイツと違うのはこちらは本当にスピーチをしているという場面が多く映されていたことで、この図書館は催し物がたくさんあるのだろう、冒頭、とさっき書いたが本当の冒頭はなんだったか、有名な名前の人の、財団で、の人で、というかその人だったのだろうか、が登壇して話している様子から始まって、それからもたくさんの聴衆の前で公式のスピーチであるとかトークイベントであるとかがひたすらおこなわれていた。ジャクソンハイツのスピーチはスピーチではあるが聞き手がもっと近くて、リアクションや話の横取りが活発にあってそこにグルーヴが生じるようなところがあった気がしたけれどここで見られるスピーチは話し手と聞き手のあいだには大きな境界があって固定した明確な役割がそれぞれに付与されるからそういう動きにならなくて、あるのは聞いているだけの顔で、そのせいなのかそこに動きが生じるような感じを僕は受けなくて、それもあったのかどんどん眠くなっていった。それにしても図書館というのはこんなに多岐にわたるあれこれをやるものなんだなと思って、子どもの教室みたいなものはやりそうなイメージはあるけれど就職説明会みたいなものもあった、もはや本の場所というよりは本もある公共施設という感じがして、『公共』というタイトルでも驚かなかった。
前半の後ろのほうでいくつか感動して、ひとつはスピーチの終わりにされた詩の朗読で言葉と音の渦みたいなものに飲み込まれるようなところがあって朗読ってすごいと思い、それから読書会と思しき集まりでガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』が取り上げられていた本でそこで挙手して話した女性がとくかくリアルだった、云々、と言って「70代を生きるとはどういうことか」ということを考えさせられたらしくて当然誰にとっても70代を生きるのは初めてのことのはずだから70代になったときに70代を生きるとはどういうことかという問いを立てることは何も不思議ではないはずなのに「70代もそういうことを考えるのだな」と思ってとても新鮮でハッとした。人は常にそのつどルーキーとして生き続けるのだな、というような。それにしてもそういう場でもスピーチになるものだなというのはぎょっとするようなところがあって、こういう振る舞いが求められる社会を生きるとはどういうものなんだろう、と思った。
それから晴れた日、図書館の庭みたいなところ、芝生のところで、ポスターにもなっていた場面で、たくさんの人がいて、芝生に寝そべり、本を読んだり、カップルでギュッとしたり、眠ったりする、そういう人たちが順繰りに映された。どうしてだか泣きそうになって、そうしたら前半が終わって休憩となった。お茶を買って後半に臨んだが、後半も起きたり眠ったりを繰り返して夢も見た、一度頭がガクッと大きく激しく倒れて岩波ホールは背もたれが低いから頭まではカバーしてくれないからそうなった。

けっこう、余裕で圧倒的に超面白いのだろうな、と思って見に行ったら、けっこう、面白がれなかったとういか楽しかった時間少なかったぞ、となって、あれれ、と思いながら、初台に戻った、山口くんといくらか言葉を交わし、雨がぽつぽつとしていたので急いで家に帰った。
買った封筒に書類を入れたりという地道なことをやって、それから今日の今日も読書を更新しようと思って、見たら、あれ、となって、「神保町に着いた、(…)路地を曲がると、そのまっすぐのところにまさに行こうと思っていた餃子屋さんであるところのスヰートポーヅのファサードが見えたのでうれしくなった、ぐんぐんと近づいていく、という向かい方がうれしかった、それで入った、相席で、前の人もまだ注文の品を待っていた、餃子の定食を頼んだ、僕はウィトゲンシュタインを読んでいた、(…)店を出て、大通り、日は照っていた、信号待ちをしながら突っ立っていると夏の葉っぱの風の匂いが、揺られてかさかさ鳴る葉っぱの音とともに流れてきて、夏だった。岩波ホールに行った、」とあって、1年前の6月27日のことだった。ちょうど1年後、まったく同じ動きを取っていたわけだった、これはもう6月27日は「スヰートポーヅ&岩波ホール記念日」に制定しないといけないかもしれない、来年も神保町に行こう、覚えていれば、と思い、せんべいを食ってお酒をいつ飲み始めるのか、夕飯をどうするのか、またいつものように考えだしたがまだ暗くはなっていなかった。

切手を買いにコンビニに行って、そこでビールとつまみを買った、傘を持って出たけれどもうほとんど降っていなくて、傘をさして歩いている人もまだいた。先週発明した布団の端っこで読み飲みつまむスタイルを今日も実践し、それで『ソウル・ハンターズ』を読んでいた、先日から聞いているTHE RODEOを聞きながら読んでいて、最初、ワイヤレスのスピーカーを久しぶりに起動したらBluetoothがさっぱりつながらず、スピーカーの横にiPhoneを置いてiPhoneから音楽を流していて、スピーカー、と思った、2缶目を飲んでいるあたりで遊ちゃんが帰ってきて今日は遅くまで打ち合わせがあったらしく疲れているようだった、先週買ったチョコレートを二人で食べて、おいしかった。
遊ちゃんがシャワーを浴びているあたりで僕は酔っ払って、それからやっぱり何かちゃんと食べようという気になって冷蔵庫にブロッコリーがあったので先日『She is』で見ておいしそうと思ったグズグズにしたブロッコリーのパスタをこしらえることにして、それはブロッコリーとパルジャミーノだけあれば、というそういうレシピで「これだけでいいです。」と言われていたけれど普通のというか多くの人の家にパルジャミーノなんて、と打ってわかるように少なくともパルミジャーノをパルジャミーノと打ってしまうような人間の家にパルミジャーノなんてあるわけもなく、だからブロッコリーだけというか、オリーブオイルとにんにくとブロッコリーと塩コショウだけのパスタということになって、塩加減を少し間違えたというかやや過剰に塩辛くなってしまったけれどおいしかった。
風呂上がり、体が突然猛烈に痒くなってしばらく大変だった、汗も引かない。ストレッチをして体と気持ちを整えるようなつもりで、して、一週間くらい毎日ストレッチをしていたら体が少し柔らかくなった感じがあり手を伸ばして足をつかめるようになった。ツイッターを開いたら耳マッサージがいいというツイートを見かけ、耳もマッサージした、それからそのままツイッターを見ていたら主に動物の、心がささくれだったらこれをとりあえず見ようみたいなアカウントを見に行ってしまい、主に動物の、心温まるというか心和らぐ動画を次から次へと見ていたら止まらなくなって40分そういうものを見ていた。異種が仲良くしているものが特にふわふわした気持ちになるところがあるらしくてユカギール人とエルクの交流も見たらそうなるだろうか、真似て、おびき寄せて、殺す。
寝る前は、今日はもう酔ったというか頭も働かない感じがありユカギール人はやめることにしてそれで庄野潤三の『ザボンの花』をとうとう開いた。買ったのは3月だった、先日遊ちゃんが『山の上の家』を読んでいていたく感動していたのを見たその影響だろうか。冒頭、幼いヒバリが空を飛んでいて、最初からよかった。

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この週に読んだり買ったりした本

山下賢二、松本伸哉『ホホホ座の反省文』(ミシマ社)https://amzn.to/2NeL82A

レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(奥野克巳・近藤祉秋・古川不可知訳、亜紀書房)https://amzn.to/2WGzvRz

庄野潤三『ザボンの花』(講談社)https://amzn.to/2FnBbsx

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