本の読める店

今日の一冊

Entry 0707

岸政彦『断片的なものの社会学』(朝日出版社)

以前、読んで、好きで、これはぜひ多くの人に読んでもらいたい、と思った本を売ろう、という活動として「fuzkue books」ということをやっていて飽きっぽいのですぐ辞めた。その中で特に最初期だけ、売る本に読書感想文みたいなものを添えて、買った方に差し上げていた。『断片的なものの社会学』は群を抜いてたくさん買われた本だった。そのときに添えていた文章があった。昨日の『図書室』のところで「断片的はいいよねえ、いいよねえ」と言っていたので、今日はこちらで。2015年に書いた文章です。

こんな店をやっておいてこんなことを言うのもどうなのかとも思うけれど、という、反射的に自分へ向けられたその指摘はしかし短絡によるもので、野球選手が遊びでサッカーに興じることが別段不思議でもないように、会話を禁じている店をやっている者が人間と話したいと思っても不思議でもなんでもない。
そのため休みの日など、誰かと飲みに行きたいように思うことがよくある、一方でどこか心地のいい場所にいって本を読みふけりたいとも思う、いつもその天秤でグラグラとする、グラグラとしているうちに休みの日になる、その日いきなり声をかけて飲んでくれる友だちって誰だろう、そもそも友だちってどれだろう、等々、思っているうちに日は進み、もはや「今晩」から「今から」のタイミングになっている、それでも顔の一つも浮かばず、だから浮かばぬ顔してどこかに向かい、本を読む、あるいは映画館に忍び込む、何かが起これば忍び泣く。
だいたいそんな感じに休日は推移していくだろうか。
誰かに声を掛けたいと思っても、なかなかそうならない。何がハードルになっているのか。浮かばぬ、と書いたばかりだけど浮かばないわけではない、でも打ち消す。申し訳なさだとか恐れ多さだとかなのか。自分と会うことで誰かの時間を有益あるいは愉快にできる自信がない、みたいなところだろうか。話が弾まなかったときの気詰まりな状況が怖い、みたいなところだろうか。そればっかりとは思わないけれどそれらの感覚は少なからずある。コミュニケーションへのひるみみたいなものというか。

それで、ちょっと話はずれるけれど思い出したのだけど、これ「僕は謙虚な人間です」とか言っているわけではないのでご注意いただきたいのだけど、「自分が語るに値する者だなどとは夢にも思わない者」だという認識(あるいは非認識というか)、謙虚さと言い換えてもいいけれど、それがあるとないとでは市井の人々の声の響き方というのもまるで変わってくるのだなということを、『断片的なものの社会学』を読んだしばらくあとに買って、けっきょくほとんど読まないことになった(吝嗇ゆえに買ったらとりあえず読み通すことを是としている僕にはこれは珍しいことだ)『ナショナル・ストーリー・プロジェクト』を読んで思った。
これはポール・オースターが司会を務めるラジオの企画で、リスナーが投稿したストーリーをオースターが朗読した、それを収録したアンソロジーで、『断片的』を読んでからの「市井の人々の声を」みたいな気分が高じたときにふと買うことになった一冊なのだけど、なんというか「はいはいはい聞いて聞いてー、今からすげーいい話するから、聞いて!」という感じで、語ることへの臆面のなさというか、積極性というか、溢れ出る強い誇りみたいなものを感じて、すぐに満腹になり辟易してしまった。
『断片的』で掬いあげられるいくつものストーリーの提供者たちは、多分ほとんどそんな意識をもっていない人たちなのではないか、まさか自分の話が、本に収められ、遠く知らない誰かの何かに響くだなんて、思いもよらない、そんな人たちなのではないか。
この違いは極めて大きいのではないか。と、そのように思った。
それでさらに思い出すのは濱口竜介と酒井耕の『なみのおと』をはじめとする東北三部作の映画なのだけど、それはまあ今はいいや。ほんと素晴らしいので見る機会があったら見てね、と思います、とだけ。

で、話は戻るけれど、休日などに人間に声を掛け、会い、話すこと。そのハードルの妙な高さ。それを思っているタイミングだったのか、ただ暗い気分だったからか(これだと思う。というか今書いているこの文章全体が気分の重さにもろに影響されている)、植木鉢の話を再読していたら、もともと折り目をつけていたページだったけれどもやっぱり刺さるところがあり、刺さるというか、「所在なさそうに部屋の隅に座り込んで」という高齢の独居老人になる様子がありありと想像ができ、それはあまり楽しい想像ではない。

「ほんとうはみんな、男も女もかぎらず、大阪のおばちゃんたちのように、電車のなかでも、路上でも、店先でも、学校でも、気軽に話しかけて、気軽に植木鉢を分け合えばいいのに、と思う。でも、私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて、不安がって、恐怖を感じている。」

突発的なコミュニケーションのことを考えるとき柴崎友香の小説をいつも思い出す。どの小説だったか、語り手が中華料理屋か何かに一人で入り、円卓に通され、同じような一人ご飯の女性が何人か座っている、という状況のなか、みんなこういうときに知らない人に話しかけないけれど、話しかけたら意外に話しかけられた方はすんなりと受け入れ、コミュニケーションが始まるのではないか、それは、誰にとっても悪いことではないのではないか、そんなことが書かれていたように記憶している。最後の「誰にとっても」はそんなことが書かれていたような記憶はしていないが、そういうことだと僕は思っているので勝手に付け足す気分で書いたのだけれども、それをいつも思い出す。この「見知らぬ人への突発的な接触」に対する興味みたいなものは柴崎作品の中で何度か目にしたような気がして、それが結実したのが『寝ても覚めても』だったかの、旅行先の、うどん屋かまんじゅう屋だったか何かの店先の、見知らぬ家族に話しかける場面だった。それは素晴らしく素晴らしい場面だった。明るい性格の男の名前、中井だっけ、彼がその突発性接触の日常的体現者で、その姿が彼女をうどん屋かまんじゅう屋だかでの行動を勇気づけた。ショートカットしてもいいと。してみたらいいんだと。
でも「私たちは、なにか目に見えないものにいつも怯えて」いる。

怯え。僕の場合は、帰り際のお客さんとちらっと話すという、ときおり起こるコミュニケーションくらいがいちばん怯えなくて済んで楽なのかもしれなくて、それは始まりからすでに終わりが内包されているから沈黙やなんやかんやへの怖さみたいなものがないという点においてなのか。どうか。僕はそういえば、ドライバーとドライバーが交わすアイコンタクトみたいなコミュニケーションがいちばん美しいように思っていることがあった。互いのことを何も知らない、これからも知ることがない、その二人がたった一瞬「どうぞ」「あ、どうも」と目と目でやり取りをしたというその貴重さなのか、未来への恐れがないということの純粋さなのか、何か、これは実にプレシャスな瞬間であるといつも思った。

ともあれ、「なにか目に見えないものにいつも怯えて」いる僕は、人間と会話をおこないたい夜、友だちに声を掛けることがなかなかできない、では誰か見知らぬ人に声を掛けるのはどうだろうか。もちろん無理。
いつも思う。誰かと話したい、孤独を埋めたいという人間がいて、その人間が「私は人間と話したい者です、孤独に押しつぶされそうな夜なので、それを緩和したいと思っている者です、もしあなたもそのような人間であるならば、どうでしょうか、どこかで酒でもコーヒーでもいい、飲み交わしながら、一緒に話をしてみませんか」と言うその提案が受諾されたとき、それは誰をも傷付けないどころか、二人のそのような人間を一縷の明るみに引き上げる機会が生じるわけだから二人のそのような人間にとって好ましいことでしかないはずなのに、僕らは「不安がって、恐怖を感じている」。
常識からの逸脱への不安であるとか、拒絶されたときの痛みへの恐怖であるとか、そういうものにとらわれてなのか、そんなことはどんな夜にも起こらない。自分がナンパなどという行為をできるような人間だったらどれだけよかっただろうと思わないでもない、でもそんな人間ではない、僕はナンパという行為を「ウィンウィンなことになりうるチャンスなんだからすごい別にありなんじゃないの?」と頭では肯定的に考える人間だけど、自分と関係することではどうやらない。 人間と話したいなあと思いながら、諦め、本を読み、あるいは映画館に入る。本や映画は僕の存在を脅かさない、これがやっぱり楽かもしれない、などと思う。ぼんやりとした満たされなさを、心のざわつきを、酒飲んで眠らす。

おととい、昨日、今日と、僕はこびりついた憂鬱をどうやっても剥がせずにいた。どうしようもない気分で、どうしようもなさはいつまでも続くように思われ、一息だけ入れようと、憂鬱の持続に穴を穿とうと、仕込みを終えたあと、カフェラテを飲みにコーヒー屋さんに向かった、その途上、友だちとばったりと出くわし、「じゃあいっしょに」ということでコーヒー屋さんに行き、会話をおこなった。ものの30分ほどの歓談の時間だったが、僕の憂鬱は驚くほどに軽減され(90%から35%くらいまで)、夜の営業を明るさを伴った気持ちで始めることができた。
人間との時間の、この、なんという重要性!という、こんな簡単な認識に辿り着くまでに、どれだけの時間を僕は要するのか。

と、『断片的』の感想というか関係がありそうでなさそうなことというか、なんでもいいのだけど何かを書こうと思って、ちょっと読み返そうとしたところ植木鉢のところでとっ捕まえられて、そのときの暗くて重い気分と幸か不幸かフィットしてしまったのでそのまま書いてしまった格好。しかしまあ、ほんといい本でしたよね。
なお、今回取り扱うにあたって朝日出版社に「あの…」と電話したところ、営業の方がわざわざ持ってきてくださったのだけど、『断片的』が好きであれば、というところで、僕もこれはめちゃくちゃ読みたいなと思っていたミランダ・ジュライの『あなたを選んでくれるもの』と、ラッタウット・ラープチャルーンサップ『観光』がよいです、と教えてくださった、のでみなさまにもつつしんで教えて差し上げます。

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