ごーる・でん・うぃ〜く。ごーる・DEN・うい〜〜〜〜く。ところで先日の朝、やることないけどまだなんとなくいる朝、コーヒー豆の残量が危ういので自分の飲むコーヒーはセブンイレブンで買ってきて「ついでに」とか思ってドーナツも買ってきてそれを朝食としてとった朝、カウンターのいちばん奥の隅っこというか端っこの席に座っていくらかの時間を過ごしてみた。
僕はいちおう店の人間なので、こういうときってどこまで店の人間としての振る舞いをするのが自然なんだろうか、まったく関係ない顔をして座っていていいのだろうか、せめてお帰りの際くらいはあれするべきだろうか、というようなそわそわはどうしても拭えないままだったけれど、しばらくそこで本を読んだり、カタカタしたり、しながら、過ごしてみた。
そうしたら何人かの方がとんとんと来られて、どの方もお一人だったので、会話はなく、つまりフヅクエみたいな状況になった
あさふづくえ。
聞こえてくるのは自分のタイプ音と、小声でおこなわれるオーダーのやり取りと、フヅクエよりは大きな音量で掛けている、それからフヅクエとは異なりピアノの曲がだいたいの音楽と、背中のキッチンでコーヒー豆が挽かれたりトースターがチンと鳴ったりする音と、窓を隔ててうっすら聞こえてくる町の動き。
なるほど静かだ、そして静かすぎもしない、こいつは確かに実にいい音だね、と思いながら(時に「あ、なるほど、それはやっぱり鳴らしちゃダメな音だよね」とか思いながら)、心地のいいものだと感じながら過ごしてみた。
また、自分の席と横の席との距離感とか、人の出入りや運動に対して発生する認識の強弱とか、はあなるほど〜、なるほどなるほど〜、こういう感覚か〜、と思いながら、心地いいものだと感じながら過ごしてみた。
こうやって過ごしてみて改めて思うのは、僕は「こういう場所がほしいのっ!こういう場所はだからこういう音が鳴っていてこういう配置でこういう感じなのっ!」とか思ってフヅクエをこしらえて、それで日々立っているわけだけど、知らないんだよな実際は、実際は体感したことないんだよな、ということで、これってそれなりに危ういことだなと、疑似体験しながら思った。ちゃんと知らないままというのはちょっと危うい。
とは言え純粋に客としてフヅクエを味わうことは、どういう状況になろうとまず難しいだろうから、こうやって疑似体験できたことでよしとしたいというか、あれなんだっけ、なに書こうとしたのか突如わからなくなっちゃった。まいいや。
まあなんというか、フヅクエのお客さんはうらやましいな〜これ超心地いいじゃないっすか〜と思いました、という結論でよろしかったでしょうか。なんのこっちゃですが。
あと、あとあれだ、その数日後にカフェ的な店に行ったところ、偶然すごく静かな状況で、というか僕しかいなかったから静かで、そういう時間がしばらく続いていたのだけど、音ってほんといろいろですね〜、とそのときに思って、足音とか物音とか、このときのお店の方は自分が出す音に対してきっと注意を払えていないと僕には感じられて、改めて、自分の立てている音は大丈夫だろうかなー、いろいろと気にしながらやっているつもりではあるけれど、その気遣いは音に、表れるはずだと、伝わるはずだと、信じてやっているのだけれども、大丈夫かな、信じてとかいってそれ希望的あれに過ぎなかったりしないかな、表れているかな、伝わっているかな、と、「よりいっそう気をつけよ〜」と思った次第だった。
ところで最後に上記のこととはまったく関係ないのだけど映画『
ハッピーアワー』のやりとりで、たまに思い出すものの一つがこれで、僕は最近これを何度か思い出していた。
芙美「声が素敵だなって、ずっと思って聞いてました」
こずえ「うわあ。小さくなかったですか?」
芙美「そうですねえ。こっちが聞かなきゃ、いけないんだなって思いました」
こずえ「ああ」
芙美「待ってれば、届けてもらえるっていうものではないんだなって」
こずえ「反省ですね」
芙美「いえ、そこがいいんだと思いました」
というところで、耳をすますこと、手を伸ばすこと、取りに行くこと、でしか得られない体験がある。耳をすましてみたとき、手を伸ばしてみたとき、取りに行ってみたとき、そうすることで初めて知れる豊かな感触がある。自ら動こうとせずして、距離を縮める努力もせずして、なにか判定を下して一瞬なにか言えた気になってみたところで、そのときその時間は、その人生はひとつも豊かにならない、ということを僕はわりと、忘れそうになるときがある、なので気をつけないと、と思った、ということが上記とはまったく関係ないですが書かれました、という話でした。
今日も、「フヅクエ」に来てくれてありがとうございます。たぶんそれは、「消費」のマインド、なんだよな〜。(ほぼ日風終わり方)