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アフターハッピーアワー

Entry blog fuzkue311

「一日中彼女たちのことを思い出していた。

あれはああだったのかとか、なるほどそういうことかとか、そういうことではなく、場面場面をただ、ランダムに思い出している。あのとき彼女がああ言っただとか、そのとき彼はどんな顔をして聞いていただとか、そういうのをただ思い出している。
思い出しているというか、勝手に思い出されてくる。
仕込みをしながら、掃除をしながら、頭のなかにやってくるのはずーーーーーーっと彼女たちのことで、ふと我に返って「今なに考えてたっけ」と思うと、「あ、またですかw」という感じで、彼女たちあるいは彼らのことを考えている思い出している状態がデフォルトになっている。

5時間17分という長大な映画だから、100分の映画を3つ合わせたよりもまだ長いわけだから、長くなくちゃおかしいはずなのだけど、これが驚くほどに長くない。
見るより前にちらっと見てしまった感想ツイートで「まったく長くない」というのがあって、それを見たときは「またまた〜」と思ったのだけど、まったくの本当だった。
1部の100分ほどが終わったときに「え、これで普通の映画1本分くらいの長さが経ったってこと?だってまだ、というか一体」という不思議な感覚に入っていた。「一体、ここまでに何が起こったんだっけ?」というか。ずっと何かが確かに起こり続けていたのだけど、そしてそれはずっと、ひたすらに充実していたのだけど、「そんなんだけで、映画の100分って成り立つんだっけ?」という。無意識でこういうもんだろうと思い込んでいる「映画の時間」みたいなものとはまったく別枠の時間が流れているということなのか。
ふだん映画を見ながら感じている時間よりも、どちらかと言えば友人と19時に待ち合わせして居酒屋で、飲んで話して、というのをやっていたら気づいたら24時でありゃまー5時間も経ちましたかーというような、そういう時間に近いような気がする。いや、違う気もする。

時間を忘れるほどに強く共感したとか深く感情移入したとか、そういうこととも違う気がする。
信じられないくらいすばらしい脚本だった、信じられないくらいすばらしい俳優たちだった、信じられないくらいすばらしいカメラだった。だけど本当にそれだけなのか。
一人ひとりが時間の厚みの中であまりにかけがえのない存在になっていったからだろうか。本当にそれはもう、すごいかけがえのなさになっていった。この場合のかけがえのなさは大切とかそういうことではなくて一人ひとりが固有の存在なんだなあという実感だったのだけど、そしてそれはものすごい強度だったと思うのだけど、果たしてそれだけなのか。
見ているあいだとにかく満たされていた。たくさん幸せだった、たくさん緊張した、たくさん苦しくなった。たぶん、たくさん真剣になった。しかしそれだけなのか。
それだけで、こんなことが起こるのか。

なんかほんと、なんでなのか全然わかんないや。わかりたい気も実はそんなに起きていない。
僕に起こっていたことは、ただただ、もっともっと、ずっと、彼女たちの姿を見続けていたいという欲望が持続するという事態だった。彼女たちがどんな振る舞いをするのか、どんなことを口にするのか、どんな顔でそれを聞くのか、どんなふうに歩くのか、どんなふうに笑い合うのか、それをもっともっと、ずーーーーーっと見ていたかった。もっと知りたかった。知りたいというこの感情が、ちょっと気持ち悪いというか、ちょっとそれ気持ち悪いだろと思うのだけど、ちょっとびっくりするくらいに本当にそれで、それとしか言いようのないもので、僕は彼女たちのことをもっともっと知りたかった。彼女たち彼女たちと書いてきたけど彼らのこともそうで、見ていたかったし、聞いていたかったし、知りたかった。今もなお知りたい。

朝起きて、すぐにぐわっと何かがやってきて、今すぐにでももう一度見たいわ、再度気持ち悪いこと言うようだけれど彼女たちに会いに行きたいわと、熱病者の熱望という感じで思ったのだけど、店あるので、ということで、今日は脚本を読んだりサブストーリーを読んだりして思い出したり新たに知ったりしてこみ上げまくるのでそれに任せて泣いたりしていた。
買い出しに行って道行く人々を見ていたら「うわーこの人たちそれぞれかけがえない固有の存在なんだなーそれぞれの長い時間を持った人たちなんだなー」感が強く押し寄せてきた。この感じは映画の中から外に持ち出された唯一くらいの何かだろうか。あ、あとは「他者と真剣に対峙したい」ということも。ヘラヘラするところに逃げることなく、というか。
それで仕込みを始めてからもひたすら思い出すというか勝手に思い出されるのに任せて過ごしていた。前日の飲み会とかのことを思い出す調子とまったく同じ調子で。
店が始まってからもずっと同じで、真剣に見えるだろう顔でコーヒーを淹れているときも、ロダンの考える人みたいな感じでどこかをじっと見ている暇を憂う人みたいなポージングのときも。たまに「仕事中にお前はいったいw」と思って笑いだしそうになったりしていた。
最後のお客さんがやはり見ている方だったので、お帰りの際に長々と、あそこがよかった、ここもよかった、そんなふうに話しているうちにやばいやばいおれ泣きそう、となったりしていた。
そんなふうにアフターハッピーアワーの一日は過ぎていった。
でもきっとこんな状態は翌日である今日だけか、せいぜい明日くらいまでだろう。それにこうやって書いてしまうことで、何か精算されていっているものもあるだろう。それもまたいいというかそういうものだろう。いずれにせよもう一度見に行くだろう。ちょっと間をあけて年明けくらいにしようかな。

とにかく、なんていうか、なにをこんなにかいているかというと、とにかく、もう、なんていうか   だよ!!!!という、この、あれを、ひとりでも、 だよ!!!!!!!!という、なんていうか、そういう、    !!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!でした。」

と、映画『ハッピーアワー』を東京公開初日の土曜日に店を休みにして見てきて、その感想というか見た翌日の模様を書き殴ったのをFacebookに投稿したのをここに貼った。

映画の公式サイトはこちら→ 映画『ハッピーアワー』公式サイト – 2015.12全国順次公開

ここに書かれなかった日曜日のできごと:『ハッピーアワー』のチラシが店に置かれているのをご覧になっている方もおられるだろうけど、チラシ見たりしてる方には「きっとすごいはずですよ」みたいな感じでおすすめをしてきたわけだけど、昨日来られた方(上記の「最後のお客さん」とはまた別の方)がお帰りの際に「見てきましたよ」と教えてくださって、階段のところで少し話したのだけど、普段はそう映画を見ないというその方が「いやほんと」とおっしゃっていて、「ここで薦められてなかったら見ていなかったものを」とおっしゃっていて、僕が感じていたのと同じような、なんでこんなことが起こっているんだ?なんで見ていられるんだ?という、要は「すごかったです」ということをおっしゃってて、僕はなんというかすごい「やっぴー!」という気になったんですよ。
なんていうか、この文章がどれくらいの方に読まれているのか、どういうふうに読まれるのかわからないんですけど、この文章によって一人でも「そこまで言うなら」つって、貴重な5時間を費やすというかほとんど休日を預けるような感じで映画館に向かってくれたらすごいうれしいというか、「ざまあみろ!」という気になるというか、見るはずじゃなかった人を一人でも映画館に向かわせたい。
なんていうか、このとんでもない映画を一人でも多くの人が見ればいいと、そして興行的に成功したらいいのになと、それは本当に思うのだけど、今おもっているのはそういう、フヅクエブックスのやつをドライブさせているような応援したい作品に貢献することへの欲望みたいなものよりも、なんというか、奇妙な事態を見てみたいというか、ふだん積極的に映画を見に行くとかそうでないような人が5時間の映画を見に行きましたよとかいうバカみたいな、それはいったいどんな奇っ怪な事故なんだろうみたいな、その事故によって交通渋滞が巻き起こるような、無数のクラクションの音が空を覆うような、そんな様子を見てみたい。あわよくば昨日の方みたいに「すごかった」ということになっている様子を見てみたい。

なので、これでそれを誘発させられる気はそんなにしないうえにこれ人のパクリなんですけど、これ読んでそそのかされて「じゃあ」つって行ってみたけど「ふざけんなよひとつも面白くなかったよ5時間返せよ」となった場合、なんていうかまあ無料とかよくわからないあれですけど飲み食い無料でしていってくださいよ!という感じの。その足で渋谷駅南口バスターミナル行って渋61,63,64,66とかのバス乗って初台に来てくださいよ、飯でも酒でも好きなだけいっちゃってくださいよ!腹パンパンになるまでなんでもいっちゃってくださいよ!という。まあなんていうか、無料にするからはるばるやってこいとか筋の悪い特典というか補償だなとは思うんですけど、まあ、それやります。

そういえば最後に、ちょっとフヅクエに似ているかもなと思ったんだったということを書くんですけど、フヅクエって説明すると「会話ご遠慮の静かに一人で過ごすカフェバー的な店」な感じになるじゃないですか。それで、初めて来られる方ってその時間ってどんな感じなのかっていうところを、知っているカフェとかあれこれの記憶を頼りにしてきっといろんな予想とか構えみたいなものを持つのじゃないかなと思うんですけど、実際に過ごしてみると「あー、なるほど、こういう時間なのね」みたいなのってあると思うんですよ。で、それは、ある人にとっては予想をぐっと越えるというか、予想の範疇みたいなところから出るような体験だったりすると思うんですよ、自らもっとも好意的な見方というかパターンを書いていますけど。カフェで括ってたの間違ってたわ!みたいな。これはまるで別種の時間だ、みたいな。
同じことが「5時間の映画」でもあるんじゃないかなと、「ハッピーアワー」の時間にはあるんじゃないのかな、起きるんじゃないのかな、と、そのように思ったというか。あ、この時間は「5時間の映画」の時間じゃなくて「ハッピーアワー」の時間なんだ、みたいな。違うものなんだ、みたいな。どうですかね。どうですかねも何もないとは思うんですけどね。というかこれって上で書いたのと同じことか。まいいや。
でまあ、こんなセリフがあるんですけど。
「わかりづらいことをしてるんです。ただ、わかり易く言い過ぎるとこちらも嘘になってしまう」
あるいはこのやり取りとか。
「すいません。ちょっと何をやるワークショップなのか、わかりづらい広報になっているかもしれません」
「いや、多分、誠実に作っていただくとそうなるんですよね、きっと」

なんていうか、説明は説明にしかならなくて、説明にすらならなかったりして、体験っていうのは体験することでしか体験できないんだよなというか。フヅクエを体験しているその時間自体がフヅクエの説明で、ハッピアワーを体験しているその時間自体がハッピーアワーの説明で、というか。

あー・・・なんか誰もこんな長いの読まないだろうくらいの長さになっちゃったよ・・・

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