本の読める店

いい時間とは何かを改めて考えようノート

Entry blog fuzkue297

いつからこうなっているのかわからないけれど、すごい広いわけではない喫茶店であるとかカフェであるとかで長めの時間を過ごすことがすごく下手になった。気を回しすぎるというか、500円のカフェラテでどれくらいの時間いていいものかわからないというか、席数がいくつでいま俺500円で、俺のような人間ばかりだと仮定したときに、掛け算、掛け算、掛け算。時給がこのくらいだとして一日このくらいの人件費は発生して、家賃はこれくらいだろうか、光熱費はだいたい、引き算、引き算、引き算。しそく・えんざん!という感じですごくダメになってきた。なのでまるで人間の限界に挑むかのようにコンスタントにオーダーしていくか、予定よりも早く出るか。みたいなことが多くなっている。たぶんもうちょっといてもいいはずだとわりと思いつつ。
もちろん、満席で入れない人がいるという状況以外では僕が500円でどれだけいようと店にとっての機会損失というのかしら、逸失利益?はないはずだし、そもそも僕のような過ごし方の人間ばかりという仮定からして必然性もないけれども、なんというか、考えてしまう。精度の極めて低い考えがこんがらがった糸みたいになって混乱していくというか。

そうです、お察しの通り、これが僕が今まで散々書いてきた気がする「察するコスト」の行き着いた形というかどん詰まった形なのであります!
ドドーン!みたいなね、いや、なんか名探偵の推理のお披露目会みたいなことを言いたかったのではなく。

すいません今日は月曜日ですか そうです ほんとうですか そうです 月曜日なんですね そうです 何曜日ですか 月曜日です

いま聞こえてきたやりとり。

まいいや。
ところで先ほど、時間があるし本を読む気分でなかったので考え事をしておりました。前も書いた「いい時間とは何かを改めて考えよう」のコーナーの一環で。

なんでこんなことを考えているかなんですが、前に書いた友人との会談の場で、あれこれ話した結果、「それ考えなよ」という話になり、「うーん、でも、webのトップページのやつとかでわりと定義されてるというか網羅されてると思ってるんだけど…」「いやまだぜんぜん曖昧だよ、答えられてないじゃん俺の質問にいろいろ」と。さらに「粘って考えていったら強い店になるよ」と言われ。「強い店かあ。強い店ってどんなかわからないけど、弱いより強い方がよさそうだから強くなりたいかもなあ。じゃあ考えようか」となって。

それで今日は最初に、フヅクエが提供する時間の位置づけを明確にするために時間をいろいろ区別してみよう、ということをおこなったらいいのかな、みたいなことを考えていた。
まず人数というかシチュエーションというかで、「人と一緒に過ごす時間」と「一人で行って過ごす時間」が大別される、という、そんなスタートで、いいんだろうか、と思いながら、とりあえず。
それでまあ前者の方は放っておこう、「一人で過ごす時間」を掘ってみると、2つの軸が出てきて、掛ける時間の長短とコミュニケーション欲求の有無で、「ゆっくりしたい/ちょっとひと息入れたい」と「人と話したい/自分一人の時間を過ごしたい」と。
「そう?」と思う向きもあるんじゃないか。なんかいきなり店とかで過ごすことが前提となっていそうな2軸というか、「一人で過ごす時間」の最初の2軸ってほんとにこれ?という気がするというか、ゼロから考えてなくない?という気がする。なんかフヅクエのことを考えやすい方向でいきなり考えている気がする。でも、まあ、いいや、とりあえずは。「最初に持ってくるべきはこういう観点じゃない?」みたいなのあったら指摘してください。

で、まあ続けましたと。その2軸のマトリクスを作ったんですけど、なんかこれがけっこう面白くて。でまあ完全に「店で過ごす」っていう前提になっているんだけど。
そうすると4つのパターンがあるわけですよね。
A.ゆっくり過ごして、人と話す
B.ゆっくりと自分の時間を過ごす
C.ちょっとひと息という感じで過ごして、人と話す
D.ちょっとひと息という感じで、自分の時間を過ごす

で、AやCは、この場合の人っていうのは連れ合いはいないのでお店の人であるとか常連さんだとかで、バーであるとか小さい居酒屋であるとか、そういう場所になるのかなと。レイ・オルデンバーグが言うところのサードプレイスな感じがこれで。
Dはひとりちょい飲みみたいな感じとかコーヒー屋さんでのどうこうとかスタバとかドトールでちょろっとでもなんでもいいけれど、いろいろある感じで。
それでBは、まあここがフヅクエの場所になるのだけど、あとはスタバでもファミレスとかでも、人によっては小さなカフェとかでもできるだろうし、いろいろなんだろうけど。
と、4つに分けたのだけど、なんていうか、実際のお店はわりと領域横断的というか、うちはAです、あっしはBです、わたしはC子、おいらはD男、みたいなきれいに分かれることってあまりないような気はして、A的に使う人もいればD的な人もいるみたいな。さらに最初に放っておくことにした「人と一緒に過ごす時間」の時間として過ごしている人たちもいるから、実際のお店はいろいろな使い方の人がごちゃごちゃといる状況が多そうというか。ものすごいアットホームなサードプレイスな感じでAかCかに限定される店はあるだろうけど。

それで、やっぱりBであるところの「ゆっくり過ごして、自分の時間を過ごす」のことが気になるんですけど、これが一番やっぱりハードルが高いというかハードルが複雑なような気がする。まるで検討された結果ではないので先入観のままなんだけど。
なんでBのハードルは複雑なのか。

というのの前に、なにをもってAやCやDは許されるのか、許されるって言い方は強い言い方だけど、過ごしている人が「こういうふうに過ごしていてオッケーなんだよね」と感じられるのか、というところを考えたのですが。考える理路やっぱりおかしいですか?なんか物事を整理して考えるのやっぱり不得手。まいいやそんなことは。とにかく考えたんですよ。

で、AやCの、一人で行ってそこの店の人間であるとか常連の人とかと話す感じは、基本的にはそう大きくない店で発生するんじゃないかと思うんですけど。50メートル先とかにいる店の人とお話することってなかなかできないだろうし、だから小さいお店。
そこでその場の人と話しながらゆっくり過ごすAを許すのは何か、というときに、店の人間ともっぱら話している状況の場合と他のお客さんと話している状況の場合の2通りあって(両方混ざっているシチュエーションも多そうだけど。みんなでワイワイ)、あるとして、前者については「コミュニケーションの継続によって店に公認され続ける」という感覚になれそうというか。後者については「一人でなく複数になるので結託することによりパワーアップできる」みたいな。徒党パワーみたいな。ここで結託という語が出てきたのだけど、これが思いのほかに大事な気がしたんですよね。前者も「店と結託できる」みたいに言えるというか。

お察しの通りちょっと話ぜったいまとまらないので先にキーワードというか挙がったあれを挙げておくことにしたんですが。「空間の大小」「店に参加/自分の場所化」「(消費するものの違い)飲食物/空間・時間」
最後の「消費するものの違い」というのは「対価が象徴する気がしてくるものの違い」みたいな感じかな。

CやDの「ちょっとひと息」については、実態としてはその時間を享受していても、見た目としては500円で500円のビール一杯買ってるっぽく見えるというか。
なんかベルクで見かけた過ごし方がわりと忘れられなくて、前も書いたかもしれないけど、仕事帰りとおぼしきおねえさんが立ち飲みのカウンターでビール一杯、煙草一本、スマホで何か見ながら、とかで5分でさっと帰っていくのを見て、「ひゃー、こりゃ素晴らしい時間なんだろうなー」と思ったのだけど、あれはビールを300円とかで買ってるように見えて知らないけどすごいプライスレスというかバリューたっぷりの時間を買ってるんじゃないかと思うというか。

なんていうか、長くなったしノートでおこなった考え事もここまでなので今日もう終わりにするんですけど、一回ノートにマトリクスとかで書いたのを改めてテキストにしようとするとわけわからなくなるなというかね、まさかと思われるかもしれませんがちょっと考えが深まった感じがしてるんですよね僕の中では。結託というのと自分の場所化のあたりが実に「ふーむ・ふーむ」というかね。
ちょっと長くなりすぎて自分で読み返すのもだるいのでいつもより誤字脱字とかあるかもしれませんが、まあいいんですが、という話でした。

写真は本文とは関係ないんですけど『断片的なものの社会学』がよく売れているなという様子です。

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