サードプレイスを越えて

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昨日この記事を読んで「あ、スタバと言えば」と思って思い出したのだけど、スターバックスが掲げている「サードプレイス」という言葉をたぶん最初に提唱したのはレイ・オルデンバーグという人で、これが結構スタバで(少なくとも僕が)感じていたサードプレイス感とは乖離している。
オルデンバーグは1989年に『The Great Good Place』と題する本を出していて、そこでサードプレイスについて論じているのだけど、これが翻訳されて2013年にみすず書房から『サードプレイス コミュニティの核になる「とびきり居心地よい場所」』というタイトルで出版された。
「コミュニティ」という言葉が出てきているから察知してもよかったのだけど、なんだか素直に「サードプレイスって大切だよね」という感じで読み始めたら、わりとこれがもう、こんなんだったら俺にとってはサードプレイスなんて唾棄すべきものだわ、という感じの、終始げんなりしながらの読書となった。
オルデンバーグが言うサードプレイスとは、第一の家、第二の職場ではない、「インフォーマルな公共生活」を営むための場所のことで、ここでは様々なルールにもとづき、常連客同士、あるいは常連と新参者がたわいもないお話を繰り広げるらしい。「談話がないところに生命はないのだ」とまで。アクシデンタルな、その場だけで成り立つ会話、それが生きる円滑油、みたいな感じらしい。
「冷やかし、ばかばかしさ、決着のつかない言い合い、ジョーク、からかい」……「サードプレイス内で生まれるユーモアや笑い」……「さあ元気を出せよ、楽しむためにここに来たんじゃないか。一緒にやろう!」………
一緒にやろう……僕みたいな、バーとか一人で行っても本当にどうしていいかわからない、知らない人と何話したらいいかわからない、みたいなタイプの人間にはこんなの脅威以外の何ものでもなくて、「とびきり居心地よい場所」どころか「もっとも居心地わるい場所」だ。(ちなみに帰り際とかにお客さんとちらっと話したりするのは僕は大丈夫というかむしろ楽しいくらいで、腰を据えていない、お互いいつでも会話を終えられる、みたいなのだったら平気なのだろう)
で、サードプレイスというのは基本的に赤の他人同士というのが要件らしい。友人同士で連れ立ってどこかに行って話をする場所というのも彼は一段下のものとして見ていて、BYOFバー(Bring Your Own Friend)と呼んで「今の若者は…」みたいに嘆いている(たしか)。
だから元々の意味でのサードプレイスって、少なくとも現代においては多分だいぶ限定的な領域の話で、極めてアットホームでほとんど常連で成り立っているお店とかになるのかな。(ちなみに僕は「アットホーム」という言葉は基本的には怖いものとして捉えている。ホームの中に入れれば別なんだけど、そうじゃない人間にとってホームほど排他的な場所はない)
あるいはこれはインターネット上において成立している部分なのかなと。それだったら僕もそう居心地悪くなくいられるからいいかな、と。
そうなると、スタバは多分サードというよりはフォースかあるいはフィフスだろう。
フォースはさっきのBYOFじゃないけど、友人たちと集まって楽しいぞ、人生においてやっぱり重要だぞこの時間、っていう、居酒屋なりカフェなりバーなりが妥当な気がする。
なのでフィフスは、家でも職場でもアットホームなコミュニティでも友人知人たちと過ごす場所でもなく、公共生活の役割の鎧を脱ぎ捨てて何者でもない匿名の存在になれる場所、といったところで、スタバは機能の一つとしてそれを持ちそして存分に発揮しているためフィフスに決定〜。いや、でもスタバは一度オルデンバーグを何かの役職で招聘したことがあるらしいし、「名前を教えて下さい、名前で呼ばせてください、こんにちは、こんにちは!」みたいな妙なコミュニティ形成意識が発露されるときもあるからやっぱりメンタリティとしてはサードなのかな。
でまあ、これまで散々繰り返してきてちょっと自分でもまたこれかよっていう、最後に「~で、フヅクエは~ですよ」系の展開なのだけど、フヅクエはそのフィフス、誰かが何者でもなくいられる場所、の極北みたいなところを目指したいですよ、っていう、技量的な問題なのか心がけの問題なのかこういう終わらせ方しかどうしてもできないんですよねっていう。
photo by ayumax
(店内で撮られていて、なんか上手そうだなーと思ったため「ください」と言っていただきました)