『若い藝術家の肖像』を読む(54)政治にはふたつの側がある

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それが終われば休みだと思えば仕込みにもいつも以上のやる気が起きるというもので、「明日できることは明日!」ということで早々と終え、4時過ぎには「休日開始!」と相なった。それが昨日のこと。
電車に乗ること、ライド・オン・ア・トレイン。念のため、と思って調べたらテイク・ア・トレインだった。そうだよね… 余計なことしなければよかった。テイク・ア・トレイン。都営新宿線に揺られ揺られ、森下駅降車。清澄白河の方まで歩き、通りがかりで見かけた雑貨屋さんでサンドイッチとかに使えそうな気がした北ヴェトナムの皿を買い、紅茶屋さんで紅茶を買ったため清澄白河駅より今度は半蔵門線、神保町へ。
僕は今、この瞬間、正解を知らないのだけど、ところで僕は神保町というものにまったく馴染みがなく、先日『親密さ』を見に行ったとき、あれなんで神保町で降りたんだっけな、忘れたけど、降りて、カレー食った、古書店には入らなかった、東京堂書店に入り本を数冊買った、それから北千住に行ったのだけど、神保町の古書店というものに入ったことがないと、それを北千住で落ち合った友人というか知り合いというかに伝えたか伝えなかったかしたところ、神保町とかすごい行っていそうなのに意外ですね、と言われた。古本を買う習慣が一つもないのでこういうことになったのだけど、それで、だから、だからと言っていいのか、僕は今この瞬間その正解を知らないままなのだけど、それがじんぼちょうなのかじんぼうちょうなのか、どちらなのか。今この瞬間の僕はどちらかというと後者のような気がしている。検索はどちらにも対応してくれている。
昨日その電車に乗っていて「次は〜」であるとか「ネクスト・ストップ・イズ〜」であるとかを聞いたときにそれを改めて思ったのだった。彼女たちの声を聞いていてもややごまかして発声していたように思えた。どちらでも取れるような。曖昧な。「う」が入っていたとしても「ぅ」ぐらいの弱さで。今「ぅ」って入れた?という感じの。
そのように思いながら神保町で降り、また東京堂書店に行き、『悲しき熱帯』の下巻と今福龍太の『クレオール主義』を買った。「僕は今ピンチョンの『V.』をすごく読みたい」とその本を手に取りながら思い、棚に戻した。なんとなく『悲しき熱帯』をやっつけてからでないと失礼に当たるというか、どっちつかずになるような気がしたためだ。それなら『クレオール主義』に寄り道せずに『悲しき熱帯』だけ読めばいいのに、とも思うのだけど、てっきりちくま文庫で出ていると思っていた『クレオール主義』が単行本で並んでいたのが何かの特設的なコーナーで目に入って、「これは」と思ったため買ったわけだった。
なんとなく日は暮れていったし涼しかったし、やりきれない薄暗い思いになりながら、まだ時間があったため近くの喫茶店に入り、残り少なくなった『悲しき熱帯』の上巻を読んでいた。
『悲しき熱帯』は読んでいても本当にあがらないな、と思いながら、レヴィ=ストロース先生やっと森の奥というか先住民族の集落とか行き始めたし、とうとうどうにかエンジンが掛かってきたような感もあり、これは乗ってきたぞ、みたいな、そういったモードになっている。喫茶店を出ると岩波ホールに向かい、そこで7時から上映の『夏をゆく人々』を待った。
久しぶりの、それこそ『親密さ』以来だから1ヶ月ぶりの映画館で、映画を見たいとは思いながら、何を見よう、『ミッション・インポッシブル』も『ジュラシックワールド』も見たいけど、見たら絶対すごい面白くて、それで「いや〜面白かったな〜」つって、見たそばから忘れて終わるんだろうな、と思ったらどうにも行く気になれず、そういう中で友人が「とんでもない瞬間に出会えるわ」と言ってきたので、イタリアの映画っぽい、ということ以外は知らないまま、これを見ることにした。
初めて行った岩波ホールは、スクリーンが奥まっていて「これは」と思ったため、最前列の真ん中という、「ずいぶんとお好きなんですね〜」という感じの席に座ることにした。そこで本を開いた。
「というのは、いつだったかダンテが、パーネルをあらわすブラシの背のところからみどりのビロードを、はさみで切りとり、パーネルは悪人だと説明したことがあったからだ。今も、うちではこのことを議論してるのじゃないかしら? あれが政治だ。政治にはふたつの側がある。ダンテは片っぽの側で、おとうさんとミスタ・ケイシーとはもう片っぽの側で、おかあさんとチャールズおじさんはどっちでもない。新聞には毎日なにかそのことが書いてある。」(P31-32)
なんかあれなんですかね、なんかこの時分にアイルランドを席巻していた話題があるような感じなんですかね。動乱とか系とかの。独立運動とかかな。「新聞には」のところに米印がついているのでなんかそこすごい読みに行きたい気もするのだけど、癪なので行かない。
ちなみにダンテ・アリギエーリが生まれたのも監督のアリーチェ・ロルヴァケルが生まれたのもイタリア中部、トスカーナ地方のフィレンツェで、ロルヴァケルのお父さんはドイツ人。
同様にトスカーナを舞台にした『夏をゆく人々』の一家の長もヴォルフガングという名前でドイツ系な模様で、このあたりの事情というか、移民事情というか、そういったことまるで知らないのでそれがどんなニュアンスなのだかわからないけれども、監督が自伝的な感じで導入した設定なだけで特別ニュアンスも何もないのかもしれないけど、111分のあいだ見ることになる画面はひとつずつがとても充実していて、「こういうもんが見たかったのかも」と思った。
なんていうか、いいんですよ、何かと。養蜂とか。すげー蜂、みたいな感じで。蜂すげーなーみたいな。長女のなんとも言えない表情とか、踊ったり光を飲んだりする妹とか、ちびたちの挑発的なかわいい態度とか、お母さんのはかない笑顔もお父さんの苛立ちも。あとココのあれこれも。それからなんか安っぽい撮影隊の感じもいいし、モニカ・ベルッチのきれいな顔も、戸惑ったときの顔も、少年もいいしね、おばあちゃんが繰り返しつぶやく「死はおぞましい…」とか、歌うの拒否とか、そのあとの歌とか、あとなんせ風とか。すっごい風、風すげーなーみたいな、すっげー風ふいてんなーこれ、こりゃ暴風雨だわみたいな、そんでシートの中の雨宿りとかね、お父さん質問に答えない感じとか、シートから出ている足が履いている長靴とか。なんかほんと一つ一ついい画面見てるなーという感じで、しまいには「アンゲロプロス!?」みたいな、「えー?」みたいな、「えー!」というか、というあれで、一日経った今もぼんやりと画面の断片が浮かんできて、「あー…」とか思う感じ、こういうのが映画に期待している喜びかもしれない、と思う。
じわじわと静かにくすぶる喜びに身を浸しながら映画館をあとにし、錦糸町で河内音頭を踊ってきたという友人と神保町の居酒屋で飲んだ。いくつかのトピックで、いくども泣きそうになった。というか泣いた場面があった。「なんで俺泣いてんの」とすごい笑いながら、泣いた。