『若い藝術家の肖像』を読む(51) 壁なんかあるはずがない

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休みの日の炎天の昼日中、ともに暑い国であろうところのエチオピアとブラジルに私は向かった。エチオピアではカレーを食べてブラジルではアイスコーヒーを飲んだ。エチオピアとブラジルのあいだで東京に行き、ジョン・ファンテの『デイゴ・レッド』とピーター・メンデルサンドの『本を読むときに何が起きているのか』を買った。ブラジルでは『本を読むとき〜』を読んだ。たいそう面白い。これたいそう面白い。
そこから新御茶ノ水駅を探し出して千代田線の電車に乗ると北千住に着いた。何年ぶりかわからないが、行き先はその何年も前、たぶん8年くらい前と同じで、シネマブルースタジオだった。以前はウディ・アレンの『アニー・ホール』を見に行ったのだった。北千住の駅で友人というか知人というかと合流し、僕は男性が日傘を差しているのを始めて見たような気がして笑った。
一つの映画が見られようとしていた。「キネセンジュ」という北千住の様々な場所で映画を見る「映画 思い出化プロジェクト」の第1回目に選ばれたのは濱口竜介の『親密さ』だった。僕の手は「はまぐちりゅうすけ」と打てば動揺し、「しんみつさ」と打てば打ち震える、その程度にこの作家の、この作品を、なんかもう、やばいっす、ほんと、考えただけで、俺、泣けますというか泣きそうです、ほら今も、という対象であり、だからこの日も、一人で行くのもちょっと怖いような気がして、その友人というか知人というかにお声掛けして、どうですか今度飲みに行きましょうって話でしたけど、今度一緒に映画行ってそのあと飲みませんか、と言ったのだった。
場内に入ると、「僕あられもないことになるかもしれないんで別々に座りましょう」と言って壁際の席に向かった。
そこで本が開かれた。
「壁なんかあるはずがない。しかしどんなもののまわりにだって、きっと細い細い線があるはずだ。」(P30)
壁なんかあるはずがない。しかしどんなもののまわりにだって、きっと細い細い線があるはずだ。壁なんかあるはずがない。しかしどんなもののまわりにだって、きっと細い細い線があるはずだ。
『親密さ』を前にして、このたった2つのセンテンスさえも、何かを訴えかけてくるように思える。『親密さ』と、何か響き合うような気が勝手にしてくる。
「あらゆるもの、ぜんぶの土地のことを考えるなんて大変なこと。神様だけが、そんなことができる。彼は、それがどんなに大がかりなことを考えることになるのか、考えようとしたけれど、神様のことしか考えられなかった。神様というのは神様の名まえで、これはちょうどぼくの名まえがスティーヴンなのとおんなじ。《デュー》というのはフランス語の神様で、だからこれも神様の名まえだ。だからだれかが神様にお祈りして、《デュー》といえば、神様はすぐに、お祈りしてるのはフランス人だなとわかる。しかし、世界じゅうのさまざまな国語みんなに神様のためのべつべつの名まえがあって、そして神様にはお祈りしているみんながべつべつの国語でいうことがわかっても、それでもやはり神様はいつもおんなじ神様だし、神様の本当の名まえは神様だ。」(P30−31)
ひとつも頭に入らない。
映画が始まる。
二部構成255分の映画で、第一部の途中から僕は事前の予想通りにあられもない姿になっていた。頬をベタベタに濡らし、さらに鼻水が怒涛のようにあふれ、下唇でどうにか堰き止める。べっちゃべちゃですわほんともうあられもないっていうかべっちゃべちゃ。ということになり、一部が終わったところで手で口元を隠しながら大急ぎでトイレに行ってフレッシュな姿に生まれ変わった。また、第二部に備えてトイレットペーパーをお尻一回拭く分くらい取り(個人差があるだろうからなんのあれにもならない単位だけど)、ポケットに。
友人というか知人というかなどまるで一緒に来ていないかのように一人早足で外に出て、まだまだ溢れてくる涙を指でぬぐいぬぐい、深呼吸というか煙草を吸った。
人間と人間がきちんと対峙しようとすること。壁なんかあるはずがない。でもどんな人と人のあいだにだって、細い細い線があるはずだ、その線を眼差し、向かい合うこと。平常心でいられないのでここでやめます。また見られて本当によかった。上映してくださった方ありがとうございました。