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『若い藝術家の肖像』を読む(37) 想像の力、恐怖分子、THE COCKPIT

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1ヶ月以上ぶりに休日で、前夜の閉店後ジムでまた11km走ったにも関わらず、これは半ば必要があったためではあるけれど日中に今度は自転車で30kmほど走った。買う必要のあるものがあったためだった。
走りに走りしかし時間もわりに迫り急ぎ気味にイメージフォーラムに向かい、チケット買い地下におり本を開き。

「走ったってしかたないや。」(P19)

自分が過ごしてきた時間を一刀で両断された気がしたが気を取り直して進むと。

「もうすぐ休みで、うちに帰れるんじゃないか。自習室の机の内側にはってある数字を、夕食がすんだら、77か76にかえよう。
こんなさむいところより、自習室にいるほうがいい。空は青じろくてつめたいが、お城にはあかりがともっている。ハミルトン・ローアンはどの窓から、から堀へ帽子を投げたんだろう?そのころ窓の下に花壇はあったのかしら?いつかお城に呼ばれたとき、使用人頭は木のとびらに弾丸が突きささっているのを見せ、教団の人たちが食べるバタークッキーを一つくれた。お城のあかりはきれいであたたかい。まるで本に書いてある景色のよう。たぶんレスター修道院もあんなだろう。コーンウェル博士の綴り字の本にはきれいな文句がある。綴り字をならうための文句だけど、詩みたいだ。」(P19〜20)

さっきまでスクラムの足元に固定されていた視点が想像力とともに一気に飛翔する具合が気持ちいい。ダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』は大好きな映画なのだけど、冒頭の劇場か何かで「想像の力 la force de l'imagination」というやつが演じられるか何かしていたのを思い出したというか、「想像の力」というフレーズを思い出した(読んでいる中でではなくて打っている中で)。飛翔する感じといい。
そして、いろいろとよくわからない。ハミルトン・ローアンのところに※がついているから訳注を見に行けばいろいろ教えてくれるのかもしれないが、やはり見に行かない。「ハミルトン・ローアン」でググったらアイルランドの数学者であるらしい「ウィリアム・ローワン・ハミルトン」が検索結果として出てきた。神童だったらしい。関係なさそう。どうかな。
まあきっとハミルトン・ローアンというアイルランドでわりと有名か、少なくとも学校内では有名な人か何かがかつて帽子を投げたか何かしたということなんでしょう。戦闘があったのかもしれない。対英的な闘争的な何かだったりするのかもしれない。

しかし「から堀」ってなんなんだろうなと思って原文を見たら、「Hamilton Rowan had thrown his hat on the ha-ha」とあって、「ha-ha」?なに「ha-ha」って。Kindleの辞書を開かせると「1((笑い声)はは、あはは 2((話))(皮肉で)傑作だね、おもしろいね」とあるけれど。
まあそれも別段よくて、「教団」ってなんなんだろうなと思って見たらそれは「the community」としか書いていなくて、そうですかと思ったのだけど、バタークッキーが「a piece of shortbread」とあったのがなんだか嬉しかったっていう話で。ショートブレッド焼いたら焼き加減間違えたりそのためまた必要なのでこの日カルピスバターを買ったりしていたため、ショートブレッドね、おいしいよね!俺も好きだよ!と思いました。

上映時間になり、エドワード・ヤンの『恐怖分子』を見た。とてもよかった。うわー恐怖の分子が増殖するわーこりゃ、という感じで。ってすごい適当な物言いなんだけど、とにかくすごくよいなあと思いながら見た。

映画が終わりまた急ぎ、今度は渋谷の僕の中では反対側という感覚のオーディトリウムというかキノハウスの方に向かい。お腹がすいてしかたがなかったのでセブンイレブンでドーナツ2つ買って1つ食って今はユーロライブという名前になっている旧オーディトリウム、2階に上がり、三宅唱の新作『THE COCKPIT』の試写会。招待していただき、「ラッキー!早々と見られる!お先に失礼!」という感じで見に行った。

「《ウルジーがなくなったのはレスター修道院、
ねんごろにほうむったのは修道院長たち。
根瘤病は植物の病気、
癌は動物のわずらい》

暖炉のまえで、しきものの上にねころんで、頭の下で両手をくみ、こういう文句のことを考えたらすてきだろうな。みぶるいした。ぬるぬるする、つめたいものが、肌にふれたような気持。」(P20)

暖炉の前でリリックを考えたら楽しいだろうなと彼スティーヴンは言うわけだけど、64分のその映画には、SIMI LABのOMSBとThe OTOGIBANASHI’SのBimたちが一つの曲を作るまでが収められていて、音楽を作るでも物を書くでもなんでも、世界中にあるたくさんのコクピットの一つを撮った、みたいなことを上映後のトークで監督が話していたけれど、若い藝術家になるであろうところのスティーヴンのおさまるべきコクピットは言葉の世界、書斎的な場所になるのだろうか、というのを予感させる初めての描写がここにあった。

MPCと言うらしいピコピコ打って音を作る機械の前に据え付けられたカメラが映し出すのはレコードをサンプリングしてああだこうだと指をぽんぽこやって、違うなーとかよさそうとか間違えたとか、そんな運動をひたすらに繰り返すOMSBの姿で、一つの曲が生成されていく過程をこんなふうに生々しく見るのは僕は初めてのことだったし、その背後で遊んだり話したり真面目に見守ったりアイディアを出したりする仲間の方々の生み出す空気はなんとも言えぬ親密さをたたえ、とにかく見飽きないというか、ひたすらに楽しい。先月見た『無言日記』もそうだったし 『Playback』もやはりそうなのだけど、三宅唱の映画を見ていると「俺これずーーーーーっと見ていたい」という気持ちにいつもなる。ずーーーーっと楽しいが持続する。

これはヒップホップの人たちを撮った映画だけれども、こういう持続的な運動の中で、ふいに「みぶるい」をもたらす「ぬるぬるする、つめたいものが、肌にふれたような気持」を、ものを作ったりする人たち、いやそれに限らず、何かを突破しようとストラグルする人たちはみな一様に経験するのだろう。21世紀日本を生きる彼ら同様、100年前のアイルランドを生きたジョイスもまた経験したのだろう。

「ウェルズはひどい、ぼくの小さなかぎたばこ入れを、じぶんの持ってる、四十ばん勝ちぬきの古つわ者の切りさき栗ととりかえっこしないからといって、四角のたまりにつき落すなんて、あれはとてもつめたくて、ぬるぬるしていたっけ!大きなねずみが、上に張っているうす皮へとびこむのを見たと、だれかがいっていた。おかあさんがダンテといっしょに暖炉のまえにこしかけて、ブリジットがお茶を持ってくるのを待っていた。」(P20)

ちょっと何を言ってるのかわからなくて、「四十ばん勝ちぬきの古つわ者の切りさき栗」とか、「はぁ!???」と言いたくなる。少し丸谷才一の訳に対する不信感がここらへんで芽生えてきた感じがあり、無駄なひらがな使わないでもらえますか?と言いたくなる。ここは漢字にされてもわからないはわからないだろうけど、無駄なひらがなでより一層わからない感じがして少し苛立つ。
まあ何かしらの際に突き落とされたということなのだろう。快としてのつめたさとぬるぬるが不快な記憶としてのたまりの中のつめたさとぬるぬるを呼び起こしてローリンローリンしている。

トラックができて、リリックを作ろうってなったときの二人の話し合いの場面がやけに感動的で、架空のゲームについて歌おうってなって、じゃあそのゲームやってみようって言って箱の上でボールを転がすゲームを作り出して遊ぶ、それが分割された画面で映される、なんであの光景がそんなに響くのかわからないのだけど僕はそこでケラケラと笑いながらもみぶるいして、「これ泣くぞ?」というモードに入った。真剣に遊ぶ、ということへの感動だろうか。遊びと真剣の地続き感が何かぐっとくるのだろうか。引き合いに出すこともないだろうけれども、『ラブバトル』よりもよほどリアルなラブなバトルがここにはあるように僕には思えた。リアルな、というか、このバトルの方がよほど僕にとってリアリティを持つというか、響くものがあったというか。

歌入れというのか、歌を入れるところもまたとてもよくて。何度も何度もつまずきながらひたすらレコーディングを続けるOMSBの姿を、惜しい!がんばれ!できる!あとちょっとだ!みたいに見守る感情ってなんだったのだろう。そしてそれがなされたときの喜びは、あれは一体なんだったのだろう。

運動し続けること。行為を積み上げていくこと。やっぱりそれしかないっすよねと、勇気づけられ、そして底抜けに前向きな気持ちにさせてくれる映画だった。Think Good!

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