「本と出会う」が隠すもの

howtomake.png
本と出会う。
ブックカフェの第一の機能はそのようなものということだった。
しかし、「本と出会う」ということを提供したいだけであれば、それがブックカフェである必然性は一切ないし、書店でいいだろうし、そもそも店舗である必然性すらない。オンラインや他の手段でいくらでも実現できるだろう。
本と出会うこと。
僕に関していえば、店頭で見かけて興味を惹かれてうっかり買ってみる本ももちろんたくさんあるけれど、ツイッターでふと見かけて、あるいは知人友人の口から出てくるのを聞いて、あるいはお客さんから教わって、ほとんどどんな本なのか知らないままでむくむく突然読みたくなる、そんなふうにして本と出会っている気がする。
他にもブックレビューであるとかの紹介記事で知ることもできようし、本の雑誌や新聞の書評欄でもいいだろう。多くの雑誌のカルチャーページでも毎週毎月紹介されている。あるいは読書メーターであるとかブクレコであるとかの本に特化したようなwebサービスで趣味が合いそうであるとかいいものを教えてくれそうであるとかのユーザーをフォローして、その人の本棚に登録されている本から選んだっていいだろう。もちろんAmazonの「この商品を買った人はこんな商品も買っています」から選んでいったって楽しいはずだ。
ただ本と出会う、未知の本を知る、その体験を提供したい、ということだけを考えたら、店舗を作るというのは必然的に導き出される発想では特にない。
もちろん店舗というかリアルな場所の価値はいくらでもある。僕自身がそうであるように、目的の買い物とは別に、まるで思いもしなかった本と目が合って、唐突に「これしかない」というおかしな気分に見舞われて買うようなあの体験は、やはり店舗ならではの経験だろうし、独特の並びの棚は見ていて面白いし、同じように自分の持っていなかった回路を刺激されて気づいたら手に持っていたりする。それはとても素敵な経験だと、よく知っている。
それに単純に、本棚というインターフェースの一覧性はかなり強力で、今のところ、あれだけの情報量を一挙に与えてくれる形は、Webでは実装不可能なのではないか。
そういうわけで、店舗は、尊い。
僕はただ、ブックカフェという場所の説明として、「本と出会う」ということが書かれていることに違和感があるだけだ。
ブックカフェが、「書店の減少を補う役割を担う」であるとか「画一化されていない品揃えへのニーズに応える」であるとか、あたかも地域社会に貢献するものか何かのように書かれているけれど、とても、「それ本当?」と思う。「なんかきれいな言葉使ってるだけじゃない?」と思う。
もちろんそういう使命感を持って開業をする人もいるだろうけれども、「本と出会う」という役割と本当に真摯に向き合う気のある人だったら、書店の開業を目指すのがやはり自然ではないか。カフェ併設という形を採用するにしても、多くの「ブックカフェ」で見られるものよりももっと、書店としての機能を強くしたくなるのが自然ではないだろうか。
「ブックカフェ」と呼ぶには抵抗があるけれども、六本木の文喫くらい強く意識的にフォーカスをして初めて、「本と出会う」という機能を標榜できるんじゃないか。
個人で店をやっている僕自身の感覚で考えると、それよりも、多くの店の考えの順番はこんなところなんじゃないか。
「私らしく、働きたいな」
「お店とかかな」
「カフェとかかな」
「好きなもの置きたいよな」
「本も並べようかな」
要は、「本のある景色って、なんかほら、いいじゃないですか、蔵書もずいぶんあるし、並べちゃいたいな、って」というところで、「え、なんか本とか、好きなんで」というところで、その「なんとなく」をそのまま書いてもなんとなく格好がつかないから、「日本ブックカフェ協会」は「本と出会う」というそれらしい建前を置いてみただけなんじゃないか。
「本を並べてみると、不思議なもので、それだけでなんとなく空間をちょっといい感じにすることができます。そのような理由から、現在の日本ではブックカフェが増えています。」
これではたしかに格好がつかない。
しかし大半の「ブックカフェ」が持つ意識なんて、そんなものなんじゃないか。
というか、僕がフヅクエを始める前にやっていたカフェでは、複数あるフロアの一室の壁一面を本棚にしていて、そこに僕は自分の本を全部並べていた。「ブックカフェ」の定義に従うならばそれはブックカフェだったのだろう(今気がついた)。
そのときの僕の意識は、「家に置くには多いし本は店に全部置いちゃお〜」というものだった。
どうだ! これが、ブックカフェだ!
でも、それは、なにも悪いことじゃないと思う。
だって、だって、本が並んでいるのってやっぱり、とてもなんか素敵な光景じゃないですか!