ブックカフェのさまざまな読めなさ

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なにが、読む気をくじかせたのか。
順繰りに考えてみる。
まずは「2時間」という時間制だろう。
時間を忘れて読書に没頭、と思っていた矢先に突きつけられた2時間という制限は、なかなかタイトなものだ。
タイトなものだったし、それに、お店の持つ回転へのみなぎる意志を知らされて、「長居はさせませんよ」というお店の指針を知らされて、そもそも自分が過ごそうと思っていた時間は歓迎されないたぐいのものなのだろうと感じた。
回転が大事なのはよくわかる。売上がなくてはお店は続けられない。コーヒー1杯で何時間も過ごされたらたまったものではないだろう。
でも、本当にそうなのか。とも一方で思う。
もし、一人の客が想定している単価の倍の飲み食いをしたら? そうしたら4時間いても迷惑かけなくない? それでも望まれざる客?
それに、「コーヒー1杯で何時間も過ごされたらたまったものではない」と書いたが、コーヒー1杯で何時間もいる人の全員が、本当に敵にならなくてはいけない存在なんだろうか。コーヒー1杯で何時間もいる人の全員が、お金をケチりたいからその過ごし方を選択した、と本当に言えるのだろうか?
そのあたりはおいおい考えるとして、とにかく、2時間という制限は、「どっぷり読む」という気分にとってはいきなり突きつけられた「そうはさせませんよ」の通達だった。コチコチと(脳内で)鳴る時計の針の音は没頭とは相容れない。
それから、照明。
かっこいい内装を彩るかっこいい照明は、読書を考慮したものでは到底なかった。
輝度の弱さはまだしも、光を落とす角度が、本を読みたい者にとっては障害となった。どうしても影ができる。いい姿勢を探しても、影ができないポジションの方がずっと少ない。
ページ上をちらつく影は集中の状態からいちいち意識を引き剥がす。
設計する時、本を読む状態のシミュレーションを一度でもしていたら、こういう照明にはできないはずだ。
そしてもちろん、人の話し声。
すぐ近くで話し声が発生するまでのあいだは、不満はありながらも、読書はそれなりに快適に進められていた。大音量の音楽とたくさんの話し声による空間全体を覆うノイズは、むしろ瞑想状態を作り出すような、そういう心地よさがあるように僕は思っている。
しかし、それがはっきりと言葉として聞こえてくるともうダメだ。
え、今、車って言ってましたけど、どこに住んでるんですか?
結局、よりを戻しちゃったんですか?
それであなたは今、幸せですか?
幸せっていったい、なんなんでしょうね?
疑問は無数に発生する。そうなったらもうおしまいだ。
展開の都合上「余計かな」と思って書かれなかったが、実は女性二人組の会話が発生してそれから帰るまでのあいだに、もうひと組が来て、隣に座った。僕の席と女性二人組のあいだだった。寡黙な二人だったため、これはいい緩衝材になるかな、と一度は期待した。
だが、オーダーの際に男性が、「この中で一番量が多いメニューってどれですか?」という質問を発したことによって、僕はすっかり面白くなってしまって、それからは二人が何を話すのかが気になるようになってしまった。上司と部下のようだった。「そんなにセブ島が好きなんだ」「そうですねえ、大好きですねえ」と言っていた。
「人の声が気になって本が読めない」
その不満に対する応答としてもっとも容易かつ的確なのは、「イヤホンすれば?」であろう。そうだろう。それは正しいだろう。気に入りの音楽で耳を塞いで、声を遮断する。有効な手立てだろう。
だけど、僕は言う。
「イヤホンしたくないときって、ないですか?」
至近距離から流れてくる音ではなく、空間全体の音の中にいたいときが、僕にはあって、その感覚は年々強まっているように思う。固有の音楽というよりはもっと、漠然とした音環境の中にいたい、というような。
わかってる、わかってる。「そんなの知ったことかよ」という話をしていることはわかっている。わかってはいるんだけど、ブックのカフェで僕は、気持ちよく本を読みたかっただけなんだ……今度からは必要に応じてイヤホンをしますよ……
でも、ここで挙げてみた長居のしづらさ、読みにくい照明、人々の話し声、これらはいずれも、「読めなさ」にとってもしかしたら副次的なものなのかもしれない。
いや、ひとつひとつが具体的に読書を妨げる要素だったが、本質的ではないのかもしれない。それではいったい——
底なしの孤独。
本を読めなかった最大の理由は、その場で僕が感じていた底なしの孤独、これなのかもしれない。