「本の読める場所」を求めて

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この特別な一冊を読むためにあつらえられた第三の場所を求めて、家を一度離れてみたわけだが、さて、それはどこにあるだろうか。
本の読める場所。
一見、どこでも構わないようにも思える。本を読むことを「あいにく、うちは読書はお断りなんで」と言ってくる場所もほとんどなさそうに思える。これは助かる。
そしてまたありがたいことに、読書は実に簡便な趣味で、ひとまずのところ読みたい本が手元にありさえすればおこなうことができる。本以外に必要な道具はないし、特別な知識や技術がなければできないということもない。
もちろん知識や技術や経験によって理解できる本とそうでない本はあるだろうけれど、理解なんてどれだけのことだろう。さっぱりわからなくたって読むことはできるし、「まるでなにもわからなかったなあ」と思って読んだ本に書いてあったことがある日ふいに、「わわわ、このことだったか!」となることだってあるだろう。(僕にはそんな素敵な経験はほとんどないが)
これが例えば登山であれば、技術や経験や必要な装備なしには「絶対それ以上は行っちゃだめ!」というルートがあったりするのだろうけれど、読書にはそういう制約はない。ありがたい。簡便だ。
そのお手軽さからだろうか、本を心地よく読むということもお手軽に見られがちに思える。
「コーヒー片手に思う存分本が読めちゃいますね」
「友だちとおしゃべりに花を咲かせるもよし、ゆっくり読書を楽しむもよし」
いかがでしたか? と、雑誌の読書に関する特集であったり粗悪なまとめ記事であったりはわりと簡単に読書という行為を片付けてくる。
しかしそんなに簡単なことだろうか。
本が快適に読めるという状態、じっくり本に没入し続けられるという状態は、さまざまなバランスの上でかろうじて成り立つものではないか。それはけっこうデリケートな営みではないか。なんせこちらは、やっていることといえば無言で、身動きも最小限にとどめて、文字を眺めていることだけで、すごく静かな存在だ。体の動きだけで考えたら瞑想と大して変わらない。即身仏だってもう少し動いているのではないか。これはわりと、無防備で弱い感じがする。何かが間違えばあっけなく破られそうな状態に見える。
でもそんなことは大して考慮されない。ざっくりと軽やかに「思う存分本が読めちゃいますね」と言われる。
これって、例えば電源もなければWiFiも飛んでいない、パソコンを置くには高さも合わなければ広さもまったく足りない机が並ぶ、そんな店を紹介しながら「思う存分仕事ができちゃいますね」と言っているのと同じように見える。バカにしてんの? なんかの冗談? というのがそれを目にしたノマドなワーカーの方々の正しい反応だろう。
「読める」を他称されるあるいは自称する多くの場所もそのようなことになっているのではないか?
「読める」ための環境を用意し、整え、後押しするような手立てをなんら講じることのない場所を「読める」と言ってしまうその鈍感さはいったいなんなのだろう。「読める」ということに対してのハードルの設定が甘すぎるし、あるいは想像力が足りていない。もしくはそもそも真面目に考えられていない。
ああ、いけない、いけない。行く前から怒り始めた。よくない癖、つまり悪癖だ。
まずは本を持って、どこかに出かけてみよう。
雑誌であるとか粗悪なまとめサイトであるとかをいろいろと漁っていると見えてくるのが、「ブックカフェ」という場所が総じてそういった「読めちゃう」気味のニュアンスで紹介されがちということだ。ブックカフェ、期待できる。期待しよう。
なんせ、訳せば「本のカフェ」。本のカフェで、読めないなんていうことはないだろう。本なんていうのはたいていの場合は読むものなんだから、本のカフェで読めないということはきっとないだろう。いきなりこれは有力候補、大本命と言っていいのではないか。
そういうわけでまずは、ブックカフェという場所に足を伸ばしてみよう。