本の読める店

読書日記(104)

Entry diary104

9月22日(土)

朝から暗い気分で、店を開けてからも暗い気分と妙な混乱がずっとあった、今日は阿波踊りに伴い19時で閉店で、時間が短かった、それで、それまでにあれこれを全部済ませるにはどうしたらいいのだろうかというような混乱がずっとつきまとっていた、短いなら短いで大変なんだな、と思いました。

祭りが始まろうとしている。祭り囃子が聞こえてくる。閉店した。祭りくらい、素直にいいねって言いたい。いいね、楽しいね、祭り、って言いたい。のだけど、気分は全然明るくなれなくて、ただうるさい、祭りがなければ普通に営業できるのに、売上が変わってくるのに、祭りのせいで、みたいな暗い気持ちになる。なって、イライラする。祭りくらい素直にいいねって言いたい。言えないなと思って、うるさい店内を動画撮影してTwitterにニヘラニヘラしながらアップして、それからメルツバウを大音量で流してみて、ノイズと祭り囃子の組み合わせはかっこいいねとか思って、それは実際に思った、とてもいい組み合わせだった、すごくかっこいい、ドキドキするくらいだった、来年の阿波踊りの日は爆音読書会をやる、これはきっととてもいい、と思って、それは思った、思って、洗い物が終わらなかった、8時にやっと終わった、終わって、出ることにした。出ようと、自転車を担いで下りようとすると、建物の入口のところ、敷地内、そこで見ず知らずの人たちが出店していて多分ビールとかを売っていた、え、と思って、なにこれ、誰なの、と思って、担いで下りて、え、と言って、いつからこれ出してるんですか、と言った、1階の床屋さんが閉まってから、とのことだった、上、2階、私、営業してたんですけど、これお客さん出入りできなくないですか、と、言わなかったか、言ったか、忘れた、気持ちとしては完全に言った、平謝りされて、あそう、と思って、横の路地から自転車に乗った、別に、うちも今年は7時で閉めてたからいいんだけど、7時で閉めてたかどうか知らないでしょ、知らないで、断りもなく店の入口でって、いやいいんだけどさ、今年は7時で閉めてたからさ、いいんだけどさ、え、でもさ、と思って、なんだかモヤモヤしながら、帰った、それから渋谷に出て、丸善ジュンク堂に行った、それで、どうしようか何を買おうかと思って、昨日『新潮』の書評コーナーで見た滝口悠生が紹介していたやつやその次の藤井光が紹介してたやつが気になって、いたが、やめて、それでジャック・ロンドンの『マーティン ・イーデン』を取った、それからずっと気になっていたダニエル・ヘラー=ローゼンの『エコラリアス 言語の忘却について』を取って、レジに向かおうとして、あそうだ、と思って、三輪舎の『本を贈る』を取りに戻って、買った、1万円を超えて、みすずほんと高い、と思って、笑った、買った、買って、それでユーロスペースに向かって、途中、コンビニに寄ってビールを買った、三宅唱の『きみの鳥はうたえる』を見ようとしていた、三宅唱の映画はビールを飲みたくなる、一年前の夏の『密使と番人』のときもそうだった、ビールを飲んで、最前列で見たい、一年前もそうした、そう思ってビールを飲んで、飲み終えてからエレベーターに乗った、エレベーターで同乗だった人が僕の前でチケットを買おうとしていて受付の人に「現金だけになります」と言われていて、つまり彼女は現金を持っていなかった、上映10分前だった、もうあまり時間はない、僕は、つい、あ、出しときましょうか、と言いそうになった、言ってもよかったのだけど、なんだかそれじゃナンパみたいになっちゃうよなというところもあったし、それは嫌だったし、終わって感動している余韻に浸っているなかで知らない人とコンビニまで歩いてお金をおろしてもらって返してもらってとかするのも嫌だなと思って、なにも声は発さなかった、それでつつがなくチケットを買い、Aの9、それは最前列のど真ん中、そこに座った。『エコラリアス』の最初を読んだ。

感嘆の叫びが生まれた瞬間から言語は存在しうるが、その逆はない。叫びの可能性を認めない言語は人間の言語ではあり得ないだろう。おそらくそれは、間投詞やオノマトペ、そして人間ではないものを人間が模倣する時ほどに、言語が強度を持って存在する場所が他にないからだ。言語は、それ自身の音から離れ、言葉をもたない、あるいは持ち得ないものの音、すなわち動物の鳴き声、自然や機械の出す音を引き受ける時にこそもっとも言葉そのものになりうる。そしてその時、言語そのものを越えて、言語は自らの前にありその後に続く、沈黙、非言語に自らを開く。自らが発することのできないと思い込んでいた、異質な音を発することで、言語は本来の意味で「exclamation」、つまり「外への呼びかけ」(ex-clamare, Aus-ruf)として理解されうる。言語の外へ、または言語の手前に、人間のものではない言葉の持つ音の中に、かつてそこにいたという記憶を思い出すことも完全に忘却することもできないまま。 ダニエル・ヘラー=ローゼン『エコラリアス 言語の忘却について』(関口涼子訳、みすず書房)p.19

すると映画が始まった。
また、クラブシーン、それから終わりの、たくさんの明け方のところでダラダラと泣いた、他でも泣いたが特にそこで泣いた、それらはたぶん、自由、みたいなところだった、こんなふうに自由にありたいと、そういうふうな自由で、その自由が、僕を泣かせる、そしてその自由は苛烈でもある、それにしても主演3人の表情というか顔のなんといいことか、柄本佑の曖昧な笑顔、髪をまとめたりほどいたりする所作のかっこよさ、染谷将太のやさしい笑顔! びっくりする。なんていうやさしさ。石橋静河の不機嫌な顔、パーンと弾ける笑顔。彼女が踊るとき、僕はというか人はただただ幸せになる。Hi'Specの音楽が流れるたびに泣いた。本当にいい映画。

終わって、満足して、お酒を飲みたくて、満足な満ち足りた気分はけっこうすぐに薄れてきて、一日中が暗い気分だったということだった、フグレンに寄ってジントニックか何かを飲もうと思って、一杯飲んで帰ろうと思って、なにかおいしいジンを飲もうと思って、思っていたが、前を通ったらすごくたくさんの人があって、そうか土曜日のフグレンはこういう感じか、と思って、さすがに多いなと思ってやめることにして、帰ることにした、コンビニに寄って、ビール2本とポテチと柿ピーとミックスナッツを買って、帰った、帰って、開けて、飲んで、ぼりぼりとそれらを貪って、それが夕飯、最後に開けたミックスナッツは298円で、たけーなと思って買ったのだけど開けたら密封用のチャックが付いていて、なんでこの少量でチャックが必要なんだよなんで食べ分けなければいけないんだよと思って、これにこのために値段乗ってるのかなと思って癪だなと思ってでもそんなに思わなくてちょっとよぎった程度だけ思ってそれから飲んで腹一杯で、『エコラリアス』を少し読んだあとはトム・ハンクスを読んでいた、「配役は誰だ」、いい話だった、寝た。

9月23日(日)

朝起きた瞬間から、暗かった、すごくどんよりとした気分で起きて、とぼとぼと家を出て、店に向かった、店に着き、がんばって仕込みをして、がんばって、それから開店時間を迎えた、開店前、なんだこれは、と思った、予約が10件以上入っていた、普段は週末でも多くても5つくらいだった、5つ予約が入っていたら今日は予約が多いなあと思うのだけど今日は10件だった、予約だけで満席というところだった、厳密には違うがほとんどそうだった、開店して、予約じゃない方が来られて、12時半でほぼだから、次に予約じゃなく来た方に対しては「このあとご予約がめいっぱい入っていてだから2時までみたいになっちゃう感じですが。もちろん状況が変われば話は変わるんですが」と伝えないといけないようなそういうことになった、これは異例だった、それで、そういう様子で、だからほとんど開店と同時に満席みたいな状況になって、ほとんどずっとそういうふうだった、予約の隙間に、予約じゃない方をエクスキューズ付きでお通しする、というそういうことをずっと繰り返して、だからずっと実質的に満席という状況で6時くらいまでを過ごした、過ごして、そうやってフルスロットルのまま営業を終えて、終わった、終わっても仕事は終わっていなかった、シロップを作ったりチーズケーキを焼いたり氷を砕いたりあれやこれやして、7時半に遊ちゃんが来た、少しというか30分くらい待ってもらって、やっと仕事が終わった、今日の祭り囃子はチームが違うということなのか昨日とは違って昨日よりもアップテンポというかどんどん来る感じで昨日よりもかっこうよかった、今日も建物の入口では店が出ていた、日中、そのお店の方がやってきて昨日の謝りと今日もやらせていただきますという断りを入れてきたので気分は穏やかだった、度量の大きさを見せようと思ってそこでビールを買った、大丈夫ですよ迷惑だなんて思っていないですよどんどんそこでなんか売ってくださいね僕は帰りますんでというそういう度量だったそれでビールを飲んでナポリのビールだというボトルビールだったおいしくて飲んで阿波踊り隊が目の前を踊りながら通っていった手の動きだけでこんなに体全体の表情が変わるんだなというかっこうよさでかっこうよくてこれはすごいかっこうよかったこれはこれまでは僕は上から覗く程度にしか見たことがなかったけれど同じレベルで見ることでいちばんかっこうよくなるそういうかっこういいビューでかっこいいかっこいいと思ってもう一杯ビールを買って飲んで眺めてかっこうよくてそのままチラチラと歩いていくといつも行く八百屋さんも何かを出していてチヂミを出していて買ったらお母さんが彼女の分もあげるねと二つくれてありがとうございますと言っていたら遊ちゃんは横で八百屋のお父さんからなんか光るよくわからないというか名状できないなんか光るものを買っていてそれからその隣のお肉屋さんでコロッケを買ったりして食べたりして眼の前のベンチが空いたので座って座ったらその目の前でクライマックスのずっとその場にあってどんどこどんどこやるそういうものの時間になってそれが始まって太鼓の人たちもかっこいいベテランと思しきおばちゃんがものすごいかっこいいし笛の人たちのほとんどが太鼓にかき消されるのだけどかき消されまいと懸命にというかピーーーーーと鳴らされる笛のその調べにというかがんばりに感動してわーと思ってずっと、ずっと泣きそうだった、あまりにかっこうよかった、これまでずっと、3年間、うるせーなくらいしか思っていなかった阿波踊りがとにかくかっこいい感動的なものとして立ち上がって僕は本当に涙をこらえるのに必死という感じで涙をこらえながら見ていた、よかった。

終わって、今度はそのまま歩いて代々木八幡宮のほうに歩いていった、今日は昨日も代々木八幡宮のお祭りでもあった、代々木上原のほうもお神輿とかがあったみたいだった、代々木八幡宮の階段が始まる手前の下の山手通りのところで階段のところが煌々とたくさんの提灯で明るくてそこらにいた高校生の男の子に「写真撮ってもらえすますか?」とお願いして遊ちゃんと並んで写真を撮った、彼はロバで近くにいた一人はピラニアのような男、ということだった、そうなんですね、と言った、気持ちのいい透明な率直な男の子たちだった撮ってもらったあと今度はじゃあということで彼らを撮った、いい人たちだった、階段を上がった、祭りだった、ビールを買った、飲んだ、飲んで一周回って、お参りをして、それで、酔っ払って、家に帰ったんだよ。

9月24日(月)

寝る前、僕も遊ちゃんも、太鼓の音や笛の音がずっと鳴っていた。それで寝た。起きた。働きに出た。

めいっぱい。開店して少ししてから夜8時くらいまで、ほぼ満席という状態がひたすら続いた、入れ替わり立ち替わりで、きれいに予約の方が切り替わる時間もあれば、お席空き次第とお伝えして空いたら電話して、という対応でも5人くらいの方を通した、10人くらいの方が帰っていった、とにかくめいっぱいがずっと続いた、でも何か気持ちのいい日だったし、いい時間がずっと流れていた、感動したのはお席空き次第とお伝えしてどこかで待っていただいてお通しした方々、20分から1時間くらい待っていただいた、彼らが軒並み、とてもゆっくり過ごしていったということだった、4時間5時間、どの人たちもおられて、それはなんというか、すごい、よかった、何時間初台にいるんだ、というようなそういう時間を彼らはこの連休の最後の日、過ごした、なんだかとてもいいぜいいぜというものだった、それにしてもすごい日だった、ヘトヘトに疲れ、9時くらいからはなだらかになり、やることも意外になくなり、それで求人というか募集の文言を作ったり、グーグルフォームでエントリーのフォームを作ったりしていた、グーグルフォームは初めて触って、つい、いろいろボタンとか、グリッドとか、ドロップダウンとか、そういうものを入れてみたくなる、何を、聞いたらいいのだろうか。

帰り、帰ったあと、暑かった、暑くて、小説という気分ではなかった、それで三輪舎の『本を贈る』を読み始めたら、面白くて、ずいぶん読むことになった、校正の話はやはり興味が惹かれるみたいで、興味深かった、読みながら、僕はやっぱり本がとっても好きなんだな、と思った。

9月25日(火)

先に出る遊ちゃんが、雨が降っているということを教えてくれた、このあともそういう予報であるということも教えてくれた、そのためトボトボと雨の中を店まで進んだ、着いて、のんびりしていた、雨だし、暇だし、やることもないと思って、今日は完全に暇な日になるだろうと思った、それで開けたら、暇な始まりだった、昨日の続きでグーグルフォームをいじり、募集の文言をいじり、それから、明日の読書会の時間の始まる前の時間に流すべく、作中で言及されていたデヴィッド・ボウイの曲を探した、それはどうやら「Kooks」というタイトルだった、開場から開始までの30分、3分の曲を10回リピートさせてもよいけれど、それもなと思って、もうひとつ探した、「YouTube 氷 食べる」みたいな検索をしたら、「中国で流行しているさまざまな氷の咀嚼音2018」という動画があって、なんなんだよこれはと思って愉快だった、どれも食べているのは若い女性で、中には着飾ったような、どこにお出かけするの? というような、もふもふした格好の人もいたりして、そういう人たちが、カメラの前で氷を食べている、いろんな色の、いろんな形の氷を食べている、その様子が次々に映されていた。明日はこれを流して、それからデヴィッド・ボウイを流そうかな、と思ったらうれしくなった。
そのあと、『本を贈る』を読んでいた、雨は強く降っていた。「本は特別なものじゃない / 笠井瑠美子(製本)」の昨日の途中から読み、紙の違いの話、職人の話、よくて、僕も印刷の場面とかに立ち会いたかったなそういえば、と思った、そのあと、ふと奥付を見てみたら、感動した、泣きそうになる奥付なんて初めてだった、左ページはよくあるというか通常の、初版発行年月、著者名、印刷、製本の会社、発行者、発行所、みたいな感じで、右ページがすごかった、印刷所名、それから、面付、点検、検版、本文印刷、付物印刷、紙積み、営業と、それぞれの担当業務と名前がクレジットされ、次が製本所で、営業、生産管理、荷受、束見本、断裁、折り、貼込、バインダー、くるみ、見本、仕上、発送、と同じように名前が付されていく、そして、校正、装丁・装画、編集・本文組版、と続いて、終わり。一冊の本の後ろに本当にたくさんの人生があるということがにわかに強く実感されそれが感動をもたらしたし、それにこの名前の多さ、多さというのは強さだった、わあ、という、盛り上がりがあって、奥付で踊れそうだった。これはいいなあ、これは普及してもいいんじゃないかなあ、映画なんてどれも細かくクレジットしているんだし、読み終えた本の後ろにいる人たちがたくさん羅列されているのは、とてもいいものじゃないかなあ、と思い、とてもよかった。
で、そのあとは「気楽な裏方仕事 / 川人寧幸 (取次)」だった、これがすごかった、冒頭から、なんだこの、これは! という素晴らしい労働の描写が続き、ずっと続いた。筆者は書店の仕入れ業務から始まり、取次への就職、倒産によって職を失ったので取次会社の設立、離脱、そして取次と出版社の立ち上げ、という人とのことだった。

個々の比較はここでは置くとして、私の場合はもう少し目先の問題というか、とやかく言うよりも手っとりばやく、本好きの人間を一人自由に、車で東京中を走らせておけば、それだけで解決する問題がある、あるべきところに本が収まっていく、というようなことをやっているのだと思う。人間が動き、働きかけることで、ささやかだが可能性を広げていく、あるいは、これから生まれる本のために可能性を開いておく、というようなことである。特別なこと、モデルになるようなことも何もしていない。取次の第一線ではなく私は周縁にいて、周縁から中央へ、または周縁にあるものを周縁的なままに日々、本を運んでいるにすぎない。 本を贈る』(三輪舎)p.200,201

本好きの人間を一人自由に車で東京中を走らせておけば。 トーストを食べた、チーズのトーストだった、お客さんはずっと一人だった、ずっと僕はだから本を読んでいた、次が「出版社の営業職であること / 橋本亮二 (営業)」だった、これもとてもよくて、途中からなんだか泣きそうになりながらというかはっきりとうるうるとしながら読んでいた、それで、そうやって、面白い面白いというか、たくさんの、仕事、という、世界に存在するたくさんの仕事、という、そういう、世界は仕事でできているというふうな、あれも、これも、誰かが作っている、そういうことへの感動、想田和弘の『ザ・ビッグハウス』を見たときと似たような、そういう感動をして、読み終えた。あっという間に終わっちゃったなと思って、本を置いて、するとちょうどよく仕事がいくつかあったから、しばらく仕事をした、おにぎりを食べた。

それから、『エコラリアス』を開いて前の続きから読み始めたら、前に読み始めたのが『きみの鳥はうたえる』の上映前だったからか、『きみの鳥はうたえる』のことをチラチラと思い出していた、三人とも、一度ずつ、本を読んでいる姿が映される、最初が静雄で、母親と飲んだ時間のあと、「僕」が寝ているあいだに帰ってきて、ずいぶん小さな光のなかで、ヘッドホンだったかイヤホンだったかで音楽を聞きながら、本をめくっていると「僕」が起きて、それから二人は外に出る、朝まで、飲む、そういえば、まだ夜だった頃、海沿いの道を歩いているとき、画面内にはそれらしいしるしは見えないが外からの音でにぎやかな笑い声だったかいくらか音楽が漏れ聞こえてくるような感じだったかとにかくにぎやかな声音が聞こえてくるが、あれはどういう場所がそばにあったということなのだろう。といま思い出した。本を読む。静雄の次が「僕」で、静雄ポジションとは違うがやっぱり部屋の角の暗いところで開いていた、静雄が帰ってきた、どこから帰ってきたときだったっけか。キャンプ、本当に一緒に行かないの、気持ちいいと思うよ、と静雄が言うも、行ってきなよ、あんまり興味ないんだよね、と言う。書いていたら順番がわからなくなってきた、佐知子は喫茶店で、それは静雄と待ち合わせる前で、店長とは別れたあとで、暗い日で、カラオケの前で、喫茶店で、ベターっと頬を机に置いて、本を読んでいた。灰皿と、黄色いアメスピの箱。もう煙草は入っていない。彼女は歩きだす。

過剰な意味づけのされていない読書。3人が3人ともに本を読む人であることが示されながら、それがギトギトした意味を持たないというのは、なにかそれなりにそれなりの事態のような気がする。少なくとも珍しい事態ではある気がする。帰り道も映画のことを思い出していた、「僕」が本を読んでいたのは、静雄と佐知子と杉の子で飲んで、そこで佐知子と別れて、佐知子は店長のところに行って、静雄と二人で帰ってという、そのときだったろうか。

帰って、『エコラリアス』の子どもの言語習得とそれにともなう忘却、言語以前に持っていた無限の発音の技術をいったん全部捨てて、一から学んでいくというその忘却のことを遊ちゃんに話して、それから『本を贈る』の書店の仕入れ現場の労働風景がどれだけいきいきと描かれていたかということを遊ちゃんに話した、話して、それからプルーストを読んで寝た。

9月26日(水)

雨、が降るらしいが自転車で行った、降っていなかったから。今日も、やることが大してなかった、これは怖いことだった、明日は休みだったから次は金曜日でだから週末だった、週末に一気にいろいろな仕込みが発生するパターンだった、戦々恐々だった、今日はダラダラだった、だからたらたらと準備をしてチーズケーキを焼いて、店を開けてぽーっとしていた、今日も暇であるという確信がなぜかあった、週末、3連休、忙しかった反動で、一気に暇になると、本当になんのやる気も起きない、どれだけギリギリのところでやる気を起こしているのだろうと思う、いや思わない、ギリギリのところでもない、なんの話をしているのか。
午後、着席、ジュランダミライ、と、今、普通に間違えて打った、ミランダ・ジュライ、開いた、母たちは退院、というところだった。2杯めのコーヒーを淹れたが、すぐに眠くなってきた。

わたしたちは眠った。わたしは一度起きて、ジャックにミルクを飲ませた。それから戻ってきてまた彼女の腕の中にもぐりこみ、こんこんと眠った。朝はどこかで迷子になっていた。二人はこのまま永遠に寄り添って、ずっとさよならを言いながら、いつまでも別れない。 ミランダ・ジュライ『最初の悪い男』(岸本佐知子訳、新潮社)p.289

ずっとさよならを言いながら、いつまでも別れない。すごい。すごかった。たくさんのパンチライン。すごい、すごい、と思いながら読んでいたら、終わった。山を見た。部屋は寒かった、部屋というか店だった、暖房をつけるべきなのだろうかと思ったが、暖房? ついおとといまで冷房をつけていたのに、暖房? と思って、ためらったままでいる、今日も激烈に暇で、一人ずつしかいない、みたいな状態でこのまま終わる、夜は読書会、眠かったからわたしたちは眠って、一度起きて、コーヒーを淹れて飲んだらしかった。
ジャック、という名前を見て、頭のなかで、ジャック、と発音したときに、最近その名前に触れたことを思い出した、それはジャック・ロンドンだった、買った、『マーティン・イーデン』はまだ開かれていない、トム・ハンクスを読み終えてからだろうか、終える必要はないがどうするつもりだろうか、とにかく、つまりわかってしまった、ミランダ・ジュライとトム・ハンクスを読み、それからジャック・ロンドンを読むことは実に理にかなったことだったということが。なぜなら、ジャックであり、そしてタイプライターだからだ、二つの小説を止揚したものが『マーティン・イーデン』だった、だから、トム・ハンクスの続きを読み始めた。眠かった。
読んだのは「特別な週末」だった。終盤、自家用機で飛び立つ場面があって、そこが、そこ以外もずっといい小説だったのだけど、そこが、わあ、というもので、とてもよかった、サーフィンの話のサーフィンの描写もそうだったけれど、この、描写の説得力というか、よく知っているなあ!感はなんというか、すごいと思った。思ったし、鳥瞰はいつも気持ちのいいものだけど、こういう飛び立ち方もあるんだなというか、そのままだけれども、語りの視点をぐっと宙に浮かばせる、滝口悠生の『死んでいない者』を思い出している、それもやり方だし気持ちのいいやり方だったけれど、語り手自体がぐっと宙に浮かべば、鳥瞰視点になるんだなという、そもそもそうでしょ、というそういう気づき・学びを得た、飛べばいいんだ。
いったん閉店し、妙に眠かったから、それでやっぱり寒かったから暖房をつけた、妙に眠かったからソファに横になって目をつむった、20分ほど仮眠を取ろうという算段だった、途中、うとうとの中にある時間があって気持ちがよかった、久しぶりに、寝入るときの、誰かが何かを喚き散らしている声がどんどん増幅されていく音響が頭の中にあふれて、それを久しぶりだと思った、このところなかった、これは僕はよくある現象だったはずで、誰かの絶叫やなにかの鈍かったり甲高かったりする衝撃音の連なり、そういうノイズが増幅されていくその気持ちよさのなかで眠りに足を突っ込んでいく、そういう状態だった、よかった。

時間になり開ける、前にお客さんが来られて、7時半開場だったが25分とかで、シャッターを上げてお通しし、それで読書会の時間になっていった、8時の開始時刻まで、まず夕方に読んでいたときに出てきた、それはわたしたちのテーマとなった、グレゴリオ聖歌の「デウム・ベルム」を流し、それから氷の咀嚼音のやつを流した、そうしたら「さすがにこれはおかしいだろうw」という音が店内に鳴り響いて、僕は半ば申し訳なさを感じながら、おかしくてニヤニヤしていた、それからデヴィッド・ボウイの「Kooks」にして、まだ時間があったから、もう一度「デウム・ベルム」を流して、8時になって、止めて、挨拶をした、挨拶で、さっきなんか気持ちの悪い音を流してたんですけど、あれは氷をガリガリ食べる音のYouTubeの動画の音で、ということを話していたら、どうしてだか話している途中で緊張していって声が震える感じになって、なんなんだよそれはw と思った、それというのは、ここで生じた緊張のことだった、それで始まって、お足元の悪い中でもちゃんと10人全員が来てくださり、今日はやたらご飯を食べる方が多く、ワタワタワタワタと働いた、途中で少し凪ぐ時間があり、そのあいだは『最初の悪い男』を僕も読んでいた、冒頭と、それから氷をガシガシ食べるところを読んだ、それからまたいろいろお出しする時間になり、2時間半はあっという間に過ぎた、終わって、片付けも多く、がんばって片付けた、それで、雨脚が強かった、帰った。帰り道、金木犀の香りを鼻が感知して、金木犀だ! と思った。

帰って遊ちゃんに、今日は氷をかじる音のやつを流してたんだ、これ、と言ってYouTube動画を見せて、面白がって、遊ちゃんが「氷を食べる人っているよね」と言ったそれで思い出した、いる、そうだ、見たばっかりだそういう人を、それは『きみの鳥はうたえる』だった、「僕」は家に帰るといつも冷凍庫を開けて氷を頬張る、乱暴に冷凍庫の扉を閉める、バウンドして、少し開いたままになる、暗い部屋に光の筋が伸びる。

9月27日(木)

寝る前の時間、トム・ハンクスを読んでいた、「心の中で思うこと」を読んだ、それはとてもよかった、タイプライターを買って、買った女性が、心の中で思うことを書こうと思い、しかしうまく動かず、タイプライター修理屋に行って、こんなのおもちゃだからダメだ、そう言われ、しかしその言われには愛情があって、タイプライターへの、それで買う、どっしりとした、すごいやつを、それで持って帰って、それで書く、心の中で思うことを、書く、そういう話だった、とてもよかった。書き出す人。

朝、起きて、起きたら家を出て、それで久しぶりにパドラーズコーヒーに行った、できたら2週に1回くらいは行きたいと思っているがここのところ朝に行ける日が僕の中でなかなかなくてとても久しぶりだった、でもまだ雨だった、それでわたしたちは中の席に座った、二人で中の席に座るのは初めてだった、大きな島のテーブルについて、あたたかいラテと、これまで僕は飲み物しか飲んだことがなかった、初めて尽くしだったということだった、ホットドッグを注文して食べた、ソーセージにローズマリーの風味があった、パンもおいしかった、とてもおいしかった、食べて、それから今度久しぶりに旅行に行こうと言っていたその検討会をした、伊香保だった、じゃらんで伊香保の温泉旅館を見ながら、どれがいいかね、これはこうかね、ここは最安値が安すぎるから地雷感あるね、等々、検討しながら、なんだかその時間がやたらに面白かった、武田さんが年の始めに伊香保に行っていたことを思い出して「どこがいいです?」とLINEを送ったところ、泊まったのはここです、と返信が来て教えられた旅館はそのときに見ていた旅館と同じところで、わあ! と思って、それから、そこはどうでしたかと聞きながらいくつか往復していたら「あ、ひょっとするとぼく旅館で、お部屋で食事するの苦手で、下に食べに降りるみたいな館内のレストランみたいので食べるシステムのとこかもしれません。」という返信があってその次に「日本語w」という返信があって、たしかになにか足がもつれたような言葉の連なりで「日本語www」と思って、おかしかった、それで、出た。

遊ちゃんはそれからどこかに仕事で出ていく用があり、僕は店に行く用があり、十字路で別れた、歩いた、店に着いた、ショートブレッドを焼いて、焼きながらKOHHを大音量で聞いていた、すると取材の方々が来て、予定よりずいぶん早かった、手が離せない工程だったからちょっと待っててくださいねと言って、しばらくのあいだ、大音量で流れるKOHHの中で取材の方々は待ちぼうけを食らった、それで取材を受けた、終わり、終わって、明日の仕込みの下ごしらえをして、家賃を払いに大家さんのところに寄って、いったん家に帰った。帰って、家を出て、雨がやんだ、傘をいったん持って出たが置きに戻った、家を出て、代々木公園駅まで出て、千代田線に乗った、乗って、表参道で降りた、降りて、出口を求めて構内を歩きながらtofubeatsの「RIVER」を聞いて、やっぱりこれはいいなあと思っていたら、向かいから歩いてきた人がtofubeatsみたいだった、tofubeatsかと思った、で、笑った、それで出口から出た、南青山のほうに出て、歩きながら本当に関係ない僕には関係ない町だなあ、と思いながら歩いて、歩いていると金木犀の香りを何度も感知して、昨日一度感知したら鼻が金木犀になったらしく、どんどん金木犀だった、それで、着いたのは折形デザイン研究所で、見たのは「8Books & 8Boxes + 1 山口信博と新島龍彦による「八冊+1冊の本と箱」展/gallery care of」という展示だった、入ると、いま途中なんですけど、説明しているんで、よかったら聞いてください、という案内があって、男性一人が聞き役だったそこに混ざって、聞いた、8つの箱をこしらえた造本家の新島さんが説明してくださっているらしかった、これはデザイナーの山口さんが装丁した本を、制作途中のゲラとか色校正のやつとか、いろいろと一緒に、新島さんがそれに見合う箱を作る、ということを2年近く繰り返した、それで8つの箱ができた、それの展示ということだった、途中で趣旨がわかってきた、箱は、どれも面白く、説明を聞きながらだとたぶんこれは聞かないよりもずっと面白いだろうなという面白さで、ほうほうほうほうと言いながら聞いた、途中でご夫婦と思しき二人も混じって、みんなで聞いた。ひとつひとつ丁寧に、作り手の方からお話を聞く、というスタイルもとてもよくて、なにか温かいというか熱い気持ちみたいなものがお腹に芽生えるのを感じた。
8つ、終わったのでお礼を言って出て、それから一度少し引き返してSHOZO COFFEE STOREに寄って、初めて入った、入ったら「ここはたしかにショーゾーだわ」というショーゾー感のある場所で、それでコーヒーをテイクアウトして、また歩いた、根津美術館が見えるところで曲がって、緑が両サイドにたくさんで気持ちのいい場所だなあと思いながら通りを歩いて、歩いたら霊園があった、青山霊園だった、せっかくだから車通りじゃなくて霊園の中を通っていこうかと思って入ったら、先週の谷中霊園もよかったけれど、青山霊園もすごくよかった、見晴らしというか抜け感というかもよくて、いろいろな木があって、バラエティ豊かで、まるでこれは天国みたいだなあと思って、思ってから、墓地で「まるで天国」と思うというのもおかしな話だなと思って、笑って、僕は天国みたいだと思うときに思うのはゴダールの『アワーミュージック』の天獄篇のようで、それを思い出したら天国みたいだと思うというそういうふうにできている、思って、通り抜けるつもりが、けっこう出られなくなって、わりと道のり的にはロスした場所に出て、また歩いた、乃木坂に着いた、乃木坂はBooks and Modernに入った、「植本一子 フェルメール展」で、写真を見た、フェルメールの絵を、というか絵画を撮った写真というのは僕は新鮮で、キャンバスの生々しい表面に、ゾクゾクするようだった、本も楽しみで、それはこれまで僕にとっては日記作家という存在だった植本一子がそうじゃないものに飛躍する一冊なんじゃないかという楽しみさで、楽しみだった、買ったらサイン本とのことで、ラッキー、と思った、思ったその前に、本棚を見ていって、そこで目に入ったのが高野文子の『黄色い本』で、読んでみたいとしばらく前から思っていた、思ったひとつはお客さんから教わったということと、もうひとつが、これもお客さんから教わったことだが関西在住のお客さんから教わったことだが関西の雑誌の『Meets』の9月号の本の紹介のコーナーで『読書の日記』が取り上げられていてスタンダードブックストアの北村さんという方が取り上げてくださっていてそこに「漫画家の高野文子が、ある女子高生を通して"本を読む"という行為そのものを描き、読書家のバイブルとされる『黄色い本』。本書は、その現代版だと断言したい。」とあって、それを見ていたからがぜん読んでみたかった、しかし僕は普段漫画があるコーナーに書店に行っても立ち入ることがないから見かける機会がなかった、なかったし、なんせ渋谷の丸善ジュンク堂や新宿の紀伊國屋書店でどこに行ったら漫画が置いてあるのかも知らないようなそういう人間だから見かける機会がなかった、それを見かけさせてくれた、これは買おう、というのでこれも買うことにして、会計をしながら、お店の方が、「読むのは初めてですか?」と聞いてきて、そうですというと、「泣いちゃいますよ」とおっしゃった、きっとそうなのだろう。
それからまた歩いて、赤坂まで行った、夜に日比谷で飲むことになっていた大地からメッセンジャーでメッセージが来ていて今日はここに予約したから、というメッセージだった、受信していたがしばらく開いていなかった、歩きながら、歩いていたらタイ料理屋さんが目に入って、「タイ料理」と思って、その直後に「そろそろ開いとこ」と思ってメッセージを開くと予約してくれていたのはタイ料理屋さんで、「タイ料理!」と思ってその旨を伝えた、歩いた、地図を見ていると「勝海舟邸跡」というのがあって、すぐそばを通るから見ようと思って、少ししたら通り過ぎたことがわかって、地図を頼りに戻って、戻ったがどれがそれなのかわからなくて、わからないな、と思ってから、思いながら、俺は勝海舟のことを何をした人なのかレベルでまったく知らないしまったく興味もないのになぜ探しているのだろう、そして見つけあぐねているのだろう、と思うと笑った、笑って、もう少し先に双子のライオン堂があって入った、靴を脱いで、脱いだすぐのところのコーナーから見ていると、目に入ったのは『クラフツマン』という本で、なんだか興味を惹かれた、手を動かすことが考えることである、というような言葉があって、それは僕はずっと思っていることだった、料理をするとき、考えているのは頭じゃなくて手で、ということもあったし、日記を書いているとき、考えているのはもしかしたら手かもしれない、手が動き続けることが考えることになっているような気分はずっとある、手が作り出す太いグルーヴというか太い痕跡みたいなものが、それが思考であるという気がしている、保坂和志が「ネコメンタリー」で、小説こそが思考の形だと思っていた、ということを言っていて、編集でそこで途切れているから、それは見る人は「小説こそが思考の形だ」というのが保坂和志の現時点の考えだと受け取りかねないような気がしたけれども大事なのはというかそのときに言われていたのは「それだけではなくて」ということで、その前に言っていた動物が全身を使って思考する、そういうことだった、全身を使うことが思考すること、そういうことだったはずで、それも同じだと思った、それで、うろうろと棚を見て、それで『クラフツマン』がどうも読みたくて、しかしいろいろ読んでいるところだしなあと思ったのだけど、読みたくて、買うことにした、そのときに強く、本を読みまくる時間を過ごしたい、と思った、強い願望だった、それで、買って、出た。
日比谷に出て、だから今日は表参道から赤坂までずっと歩いたわけだった、やっと電車に乗って日比谷に出て、椿屋珈琲店に入って、さあ、読書の時間だ、と喜んで本を開いた、ジャック・ロンドンの『マーティン・イーデン』だった、昨日トム・ハンクスの「心の中で思うこと」を読んで、ここまでもタイプライターが出てくるごとにジャック・ロンドンに導かれている気はしていたが「心の中で思うこと」を読んだらもうジャック・ロンドンに行かざるを得なかった、だって心の中で思うことを彼女は書き始めた、タイプし始めた、そんな小説だった、それで、だから、ジャック・ロンドンを開いた。開くと、出版年が1909年とあり、そんなに昔の人だったのか、と初めて知った、で、読み始めた。

「そりゃあ、俺のほうがうっかりしてたに違いないです」と、彼は言った。俺の読んだのは、すごくよかった。ちょうど太陽が探照灯サーチライトみたいに、パーッと輝いちゃって、俺の内側まで明るくしてくれたんです。そんなふうにその詩は俺にとりついちゃったんだけど、どうも俺には詩はあんまりわかっちゃいないようです」
彼は、そこでぶざまにも話をやめてしまった。うまくものが言えないことをひどく意識して、混乱したのである。自分では、読んだ詩に人生の偉大さとか輝きを感じたのに、それを口にするとなると、うまく行かない。自分の感じたことを表現してみせることができないのだ。 ジャック・ロンドン『マーティン・イーデン』(辻井栄滋訳、白水社)p.15,16

ここで、終わらせることを僕はここのところずっと考えているしそうありたいと思っている、いいぞ、いいぞ、と思って、そのまま終わらせてはどうしていけないのか、いいぞ、いいぞ、と思って、思ったままでいることこそが思っているということなのではないか、それを言葉にすることは、整理され装飾された言葉に置換することは、どこまで誠実なものでありえるのか、ありうるのだろうけれども、常に不誠実なものになるリスクを抱えている、ほとんどのものが不誠実になるだろう、不誠実というかそのときの自分から離れていくというか、関係のないものになっていくというか。がんばって、がんばった結果が不誠実で自分から離れて無関係なものが生み出されるなんて、それなりにバカバカしいことで、そんなものに付き合うことはないのではないか、というか、付き合わないでいるという選択がもっと前向きに選択されてもいいのではないか、がんばらない誠実さがもっと選択されやすくなったほうがいいのではないか、ということを考えていた、実践したかった、また保坂和志だ、「この人の閾」だ、真紀さんだ、そういうことだった。だからマーティン、俺はそのままでいいと思うんだよ、どうだろうか。

1時間ちょっと、ゆっくり本を読み、なんだか満足感が高くて、本をテーブルに置いて開いてひたすら目で文字を追っていたその1時間ちょっとの時間はなんだか体中に染み込んでくるようだったというか、小説の中にいたような感じがあった、満足し、それでそのタイ料理屋さんに向かった、入って、しばらくすると大地がやってきた、それで『寝ても覚めても』の話をしてそれから『ユリイカ』の話をして、同じだった、チェーホフの場面を分析したやつと『野鴨』のことを分析したやつ、その二つの批評がどれだけエキサイティングだったか、ということを二人とも思っていた、その、あの興奮を話した、それから『きみの鳥はうたえる』のことを話した、話していたら、大地が「さっきから涙が止まらない」と言って、横を向いて眼鏡の下の目を拭った、なんでだよと笑ったがそのとおりで、『寝ても覚めても』も『ユリイカ』も『きみの鳥はうたえる』もどれも、あまりに幸福ななにかだった。大地はそのあと、「人類のことをもっと知りたい」と言った。
酔っ払って、料理はどれもおいしくて、お店の人もとてもよくて、出るとき、店名が「シャム」だった、ど直球の店名だよね、という話をして、サイアムじゃなくて? と言ったから、シャムは日本語読みなのかな、わからないが、と言って、サイアムといえばスマパンの、『サイアミーズ・ドリーム』はあれは俺は中学3年生だった、ナンバーガールとの出会い直後で、同じ友だちが、いくつかの洋楽のCDを貸してきた、ポーティスヘッド、ロン・セクスミス、ジェームス・イハ、ペイヴメント、それからきっとスマッシング・パンプキンズだった、あれは、本当にたくさん聞いた、マヨネーズ、そう、マヨネーズ! トゥデイ、そう、トゥデイイズザグレイテスト! デイアヴエーヴァノン! 帰りは『サイアミーズ・ドリーム』聞きながら帰ろ、と言って、千代田線と日比谷線で分かれるところで別れて、すぐにイヤホンをさして、聞き始めた、よかった、ことごとくよかった、懐かしさで胸がはちきれそうだった、言い過ぎだった、でもどのギターリフも、懐かしかった、そうそう、これこれ、という音がずっと鳴っていて、電車を乗りながら「Webでも考える人」の滝口悠生・松原俊太郎の往復書簡のやつを読んでいた。

この「聞こえてくる」が起きるのは、滝口さんの言う「時空の裂け目」、勝手に言い換えると異化された部分かと思います。ありふれた紋切り型であってもその言葉が愛する人から発せられると別の聞こえ方をすることがあるように、言葉の意味はそれが発せられる状況や環境に左右されます。『茄子の輝き』の「街々、女たち」の「お日様のにおい」ですね。 (3) 「わかる/わからない」を超えるおもしろさ | 往復書簡 「小説⇔演劇」解体計画 | 滝口悠生,松原俊太郎 | Webでも考える人 | 新潮社  http://kangaeruhito.jp/articles/-/2580

これでもう泣きそうになる。お日様のにおい。僕は『茄子の輝き』が好きすぎる。
お腹はいっぱいで、でももうひと埋めしておこ、といういくらかわからない理由によりそば屋さんに入り、ざるそばを食べていた、まだビリー・コーガンは歌っていた、「Number Web」を読んでいた、と思ったら、ふっと音が消えて、画面が暗くなって、電池が5%になったところで電源が落ちたらしかった。静かになった。帰った、ルイボスティーを飲んだ、お茶を飲みたかった。
それで、寝る前、『黄色い本』を開いた、作品集ということがわかった、「マヨネーズ」というタイトルのものがあり、マヨネーズ! トゥデイイズザグレイテスト! デイアヴエーヴァノン! と思ってから、「黄色い本」を読み始めた、すぐに眠れるように布団の中で読み出した、いい、とってもいい、知っている、その喜びを僕も知っている、そう思って、様々な感情で胸が苦しくなるようだった。

9月28日(金)

早めに起き、といっても15分だけ早めに起き、出、店。がっつりと仕込みがあった、昨日の続きでスマパンを聞きながら張り切って働いた、どうにか、定食が、間に合った、と思って、あと15分早く出ていたらもっと間に合ったのだが、と思って、開店したところとんとんとんとんお客さんが来られ、ひいひい言いながら働いた、定食がどんどんどんどん出ていって、間に合ってよかったと思った、危うかった。
お客さんは途切れず、なんだこれは、休日みたいだ、と思いながら、ずっとあくせくと立ち回っていた、大変だった、これは、このまま夜も忙しくなったら、大変なことになるぞ、と思っていたところ、夜は緩やかというか完全に暇だった、やるべきことがいろいろとあったので片付けていった、9時くらいには座れるようになり、それにしてもよく働いた、と思った、月末という感じなのか今日は一万円札でのお支払いがとても多く、一度お釣りの千円札が1枚になるという事態に見舞われた、そのときに五千円札でのお支払いがあり、お会計額は2050円で、5100円が出た、僕は、あ、と思い、すいません、ちょっと変な返し方になっちゃうんですけど、と言って、でちょっと、これは戻させてもらって、と言って、百円玉をお返しして5000円のお支払いにさせていただき、それから千円札1枚と五百円玉を2つ渡して、まずこれで2000円、で、と言って、それから小銭で、五百円玉と百円玉と五十円玉で950円を作って、渡した、重くなっちゃってすいません、とか言いながら渡したのだけど、なにかよかれと思ってそうしたのだけど、もともとの5100円を斥けずに千円札と五百円玉4つと五十円玉、という返し方がベターだったのは自明だった、どうやらいくらか混乱していたらしかった。

29990万円。店が終わって、ゴミを出しに行って、郵便受けを見たら硬そうな紙のチラシが入っていて見たらマンションのチラシで「代々木五丁目の土地 城壁を連想させる擁壁の上に誕生する邸宅 ジオシリーズの最上ランク「ジオグランデ」」とのことだった、「代々木五丁目の土地」、土地、土地。「城壁を連想させる擁壁」、城壁を連想させる擁壁、壁。言葉の選びが不思議というかきっと雑という感じがする。それはいいとしても最初見たときは、え、ここらのマンションって1億とかするんでないの? ずいぶん安いやつなの? と思って、そのあとに桁が違うことに気づいてびっくりとした、3億! 3億円のマンションかあ! と思って、ご飯を粛々と食べて、今日は淺間が9回に同点打を打った、内野安打だった、映像は見ていないが、淺間は大きな口を開けて咆哮したはずだった、それを思うだけで感動するようだった、帰って、帰ったら『エコラリアス』を開いた、最近本を買いすぎている、どれを読もう、というようだった、今晩は、『エコラリアス』だった。



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