fuzkue(フヅクエ) - 一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店

読書日記(29)

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4月15日

『なかなか暮れない夏の夕暮れ』は読書狂いというか読書が大好きな中年男性が主人公で彼が読んでいる北欧ミステリーらしい小説も(主に)彼が読んでいる箇所がそのまま挟まれて、ミステリーなストーリーも徐々に進んでいって、だから現代の東京の話と北欧ミステリーの2本立てみたいなそういう作りになっているのだけど、その北欧ミステリーの読書はいろいろな邪魔というか人の介入等でぶつっとたびたび遮断される、そういうことになるのだけど、なんでか読みながら「稔!読め!もっと読め!」と応援のような気持ちをいだいていて不思議だった。どんどん読んでほしいとなんでだか思った。それにしてもいつだって本を読んでいたいような雰囲気があるけれどそのわりには読むペースが遅いような気がしないでもない、ものすごくじっくり一文字一文字ゆっくり読む人なのだろうか、あるいはものすごい大長編で展開が遅いような気がしているが実際は稔はのべつ幕なしに読んでいてただ意外なほどにストーリーがなかなか進まないとか、そういうことだったりするのだろうか。

4月16日

ドキドキしている。胸のあたりがゾクゾクする。

と、いま、傍目にはわからないだろう革新的な変化が起きた。
昨日店に来てくれた知り合いというか友人というかの方がパソコンを開いていて後ろを通るたびになんとなく目に入るその画面がきれいですねと、僕は思った。そのため帰り際に「テキストエディタ何使ってるんですか?」と尋ねたところUlyssesというものだということを教えてくだすった。それで今日夕方、暇になって、それを思い出した僕はそれをインストールしてみて今試しにということでそのUlyssesユリシーズを用いてこれを打ってみているのだけれども、それでインストールしてから今こうやって打ち始めるまでのあいだオーダーをこなしたりということは当然あるわけでそういうあいだに、あれはできるのかなあれをやるためにはどういうふうな環境を作ったらいいのかなみたいな、それともこういうふうにしたらいいのかなそういうことってさせてもらえるのかなみたいな、そういうことを考えていたら実にワクワクしてワクワクして止まらなかった、ワクワクして、それはドキドキになって、胸がゾクゾクになった。この感じは完全に実況パワフルプロ野球でも他のゲームでもいいけれど新しいテレビゲームを買ったときの小学生中学生のときの気分と一緒で、新しい遊び道具を手に入れて早く使いたくてしかたがない、という症状だった。テキストエディタなんてただ書くだけのものなのに、Ulyssesは30日間とかの無料期間を終えると買おうとするとどうも5000円くらいするみたいなのだけど、ただ書くだけのものなのに、今まで使っているscrivenerになにも文句はなかったのに、なんでだか使ってみたいような気になって、そうなったらもう誰も僕を止められやしなかったんだ。

とはいえ、あたらしい書き道具を手にしたとはいえ、書きたいことがないのだったらそれは持ち腐れだった。今はこれといってこれといったことがなく、日曜日は出足が非常によくてそのあとにひたすらゆっくりになった、そういう日だった、だからこういうことをしている。現在これはタイピングモードというモードにしており、そうすると目の高さというか新たに言葉が打たれる高さがずっと変わらないというそういうモードだった、下に下がっていかない。これは面白いような気がする。いまはまっしろな、まっしろなスクリーンに向けて言葉を流し込んでいるような感じでとてもきれいでこれはずいぶんときれいだなと思う。とはいえ、かつてテキストエディタでたしかwrite roomという名前のものを一度入れたことがあって使っていたことがあったが使わなくなった、それは今のこれと同じようになにも余計なものが見えない状態でずっと打ち続けることができるものだった、それを使わなくなって、いろいろ他のごちゃごちゃしたものが見えるなかでこれまでブログ等を書いてきたのだから、そのままでも問題ないのだろうし、それになにか使わなくなった理由もあったのだろう。ということは現在のこの真っ白い部屋で打ち続けなければいけない理由はないということだった。5000円、買うのだろうか。まだ30日か29日あるからそのあいだに考えればいいし、営業が終わってなんとなく悄然とした気持ちになってなんとなくぼんやりした感覚になって、まさかこれは風邪がぶり返したのではないか、と慌ててリュックから体温計を取り出して計ってみたが平熱だったので安心したし、であるならばこのぼんやりしたほんのりほてったような感覚はなんなのだろうか、合点がいかない。

4月17日

あたらしいエディタを前にすると、まだ、というかまだなのは当然かもしれないけれども思うよりも違和感が取れず、言葉が流れていかないような気がするというか、そもそも書くべきことなど何もないことに、このように新しい道具、新しいノート、新しい万年筆、そういうものを手にしたときに「さあ、整った、では何を書こう」と意識してしまうから、そもそも書くべきことなど何もないことに否が応でも気づかされる、ということだろうか。熱はない。昨夜は江國香織を読んでいた。さまざまがほころびはじめたり、プレシャスな瞬間がふいに立ち現れたり、している。
もしかしたらフォントサイズの問題もあるのかもしれない、これまでよりも少し大きいポイントで今は書かれているのだけど、そうすると一文字一文字が今までよりも大きな意味を持つというか、画面上に占める割合が大きくなるので「ちゃんと意味のあるものを書かないと」みたいなことを、まったく思っていないつもりだけど思ってしまうのかもしれない。この一文字がより重要になる、重要になったこの一文字に、貴様はなんと書くのか。問われているように思えて止まってしまうのかもしれない。重要なことなんてなにもない。そんなことよりも早く買い出しにいかなければ本当に焦ることになる。11時8分だ。何をやっているんだろうか。

今日は仕込みがいろいろと一日のなかでずいぶんと詰め込まれた日でありそれらを一所懸命おこなったところだいたいが済んだ、今は夕方4時だ、だからこれからはのんびりと生きようと思ってまたこの打ち慣れない場所に戻ってきたのだけど、だから、つまり、余計な情報がない、きれいな、ホワイトルームで、私の意識は窮屈だ、逃げ場がない、遊びがない、そういうことなのかもしれない、意味の特にないことを書いていればよかったものが、なんとなくちゃんと向き合わないといけないようなそんな気になるのかも、もしかしたらしれない、わからないが、それはなんというか、こういうどうでもいいものを書き続ける場所としては適切ではないかもしれない。ともあれ本を、登場人物たちが本を読んでいるシーンが好きだ。

本から目を上げると雀が見えた。薄いスウェット素材の、見るからに楽そうなワンピース(色はモスグリーン)を着て、ソファに寝そべって本を読んでいる。稔自身は肘掛け椅子に陣取り、テーブルに足をあげてやはり本を読んでいる。子供のころみたいだと思った。子供のころの夏休み、稔は雀と二人で、よくこうして一日じゅう本を読んだものだった。木造である点も庭が見える点も、家具の趣味が重厚で古めかしい点も、雀の買ったこの家は、昔住んでいた家に似ている。
「おもしろい?」
雀をこちら側に呼び戻すためだけに稔は言ってみる。
「おもしろい」
雀はこたえ、同時に片足をあげてみせた。子供のころから見慣れている雀の足。
「それはよかった。こっちもおもしろいよ」
訊かれもしないのに稔は言い足して本に戻る。こんなふうにときどき言葉を交わして相手の存在を確かめると、べつべつな場所にでかけていながらおなじ場所にいることの、不思議さと満足と幸福感が高まるのだ。 江國香織『なかなか暮れない夏の夕暮れ』(p.182-183)

仕込み等をしながらぽんやりとこの小説のことを考えていたら次は金井美恵子の『文章教室』を読みたいような気がなんとなくしてきた、大昔に読んで、中昔にまた読んだ、また読みたいような気がしてきた。でも本当は『文章教室2017』みたいなものを読みたいのだと思う。
数日前、久しぶりに店で流している音楽のプレイリストにあらたな風を吹き込みたいというか新しいものを足したいような気になっていくらか探したところChihei Hatakeyamaの新譜と思しき『Void X』を買った、今スペル等の確認のために検索したところリリースされたのは今年の1月とかのようで3月には『Void Ⅺ』がリリースされていた、つまり『Void X』ではなくて『Void Ⅹ』だったということだった。それからLawrence Englishの『A Colour For Autumn』というのを買った、それでプレイリストに入れてランダムで流しているわけなのだけど、たしか総再生時間は2日とかそういうプレイリストでドローンやアンビエントが中心に入っている、わけだけど、Chihei Hatakeyamaはアルバム10枚くらいあって、だからというわけではないけれども、いやだから以外きっとなにものでもなくて、これだけ聞けば耳になにか馴染んでいるのだろう、たとえ新しい作品であっても、というのはだから驚いたという話で驚いたのはLawrence Englishの曲が流れたときで僕はというか僕のなにかは高確率でそれに反応して、それでiPodを確認して「あやっぱりそうなのか」となっていて、耳はちゃんとなにかを聞いているのだなとこういうとき感心する。今は誰もいないので買おうかな候補に今なっているFOURCOLORというアーティストの『Air Curtain』というアルバムを流して聞いているのだけど心地がいい、とスペルなどを見るために検索したところ杉本佳一という人のプロジェクトらしく、このアルバムは12kから出ている、だいたい12kかkrankyという感じがする。そんなこともないかもしれない。レーベル名を言うとなんとなくかっこいいことを言っているような気分になれていい。だいたい12kかkrankyという感じがする、そうだね。

このエディタ、つまりUlyssesだと文字数というのが自動では表示されない。なにも表示されないのだから文字数だけ表示されていたら気が散るだろうとは思うけれど文字数もやはり表示されていなくて、今までのは画面の下のところに表示されていてなんとなく「そうかこれだけ書いたか」と、特に意味もなく思ったのだけどUlyssesは本当に「書きたいことがあれば好きなだけ書け、そうでなければその限りではない」という態度のエディタで、気持ちがいいけれど手がかりがない。別にこれまでも文字数が何かの手がかりになっていた、「この文字数目指して書こう」などというのがあった、わけではないのだけど、それにしたってなにもない。今はフルスクリーンではないので同一画面上にChromeのウィンドウが開かれているし下のDockではいくつものアイコンが並んでいるし上のメニューバーでもいろいろな情報が目に入ってくる、そのくらいがよい、こんなものはわざわざフルスクリーンで真空状態というか無菌状態みたいなところで書くようなものではきっとない。ところで「メニューバー」は名称がわからなかったため「mac 上」と検索しかけたところ「mac 上のバー」とすぐにサジェスチョンが出たので多くの人がたまに名称を知りたくなる、たまにしか知りたくならないから忘れる、だから検索する。

だから検索する、「Ulysses」と。またUlyssesについて調べている。どうもmac版が5000円とか4000円とかで、iPhoneで同期して使えるというのでそのアプリを調べたら3000円した、間違いかと思ったけれどどうやら本当に3000円らしくて、都合8000円くらいになる、なんというか、それはしかし必要なんだろうかという気がまったくしないわけでもないけれども、いやしかし、え、メモじゃだめなの?なんでメモじゃだめなの?となっている。メモじゃ、だめなんだろうか。「いつでもどこでも書きたい時に」と、今app storeのアプリ説明のところにあって「Mac、iPad、iPhoneに対応。」とあるのだけど、これだけ見るとこの5400円(5000円でも4000円でもなくて5400円だった)のアプリを買ったらiPhoneでも使えるのかなと思ってしまいそうなものなのだけど、どうなのか。迷い始めてから幾年月。なんだろうか、なにを迷っているのだろうか。いやなにを迷っているもなにも「これにそれだけの価値が本当にあるのか!?」でしかないのだけど、どうなのか。いやどうなのか。そんなのはたぶん、使い続けないとわからないことではあるというか、使いつづけていくうちに忘れることなんだろう。今まで使ってきたscrivenerみたいなスペルのやつも3000円くらいは出している、それを3年くらいは使っている、とっくに元は取れているというか十分に楽しませてもらっている。たかだか8000円とかで、いやほんといったい何をこんなに、と思うのだが。

今、生まれ変わった。これまではなんのことかよくわからない「setapp」みたいなところから開いていたか何かしていた無料版のUlyssesだったものが今、正式なUlyssesアプリになった、つまり5400円が支払われた。迷っていたら迷うことに耐えられなくなったというか迷っている時間がバカらしくてしかたがなくなったので購入したら迷うことはもうしないでいいようになるので購入した。なにも変わらない。もうひとつ迷うことがしかし残されている。iOSのを買うかどうかだ。なんでmac版に5400円払ってiPhoneで使うためにもまた3000円祓わないといけ なぜか「払う」ではなく「祓う」がでてきた。もう憤る気も不思議となくなった。今はただ穏やかな気分だ。それにしても今日は暇だ。完全に暇だ。雨も降り出した。もう本当に暇のまま終わるのだろうという暇さだ。Ulysses、買った以上はちゃんと使わないといけない、つまり、さようならscriverみたいな名前ちゃん、ということで、3年くらいお世話になった、なのに名前を覚えきれなかった、またいつか戻る日も来るかもしれないし、そうじゃないかもしれない、と、打っていたら、悲しみがこみ上げてきた。涙が出そうになっている。つらい。

そもそもUlyssesで書く文章でiPhoneと同期していたほうがいいものなんてどれだけあるのだろうか。ブログを書くときはこれまではメモアプリで書いて、メモアプリだからiPhoneにも同期されていて、同期されているとどう便利かというと外で煙草を吸ったりしているときに推敲というか確認をできるというのが便利だった、確認して修正してというのが、修正といってもどうしてもキーボードで打ったほうがちゃんと打てるので修正というよりは修正箇所を見つけて、というところだったのだけど、と、そうか、同期していると便利そうだなと思ったのがこれはマークダウン形式とかなんとかというやつなので「%%」とかでコメントブロックを作れるのだけど、iPhoneで修正箇所を見つけたときにこれまでは下手に触るとどこいじったのかがわからなくなるみたいなところがあって暗記するか該当箇所が自分でわかるようなメモを違うところでするか、みたいな非効率なことをしていたのだけど、Ulyssesであればそれをコメントブロックでつけたらいろいろ間違わないで済むのかもな、とは思った。しかしたったそれだけのために?他にはないだろうか。

動きは非常にシンプルというか迅速だった。そこにはなんの決断も伴っていないように見えた。実際には決断があった。「まいいか」というものだった。ぼんやりと「まいいか」と思いながら購入ボタンを押し、パスワードを入力した。これでiPhoneでもUlyssesを使うことができる。Ulyssesで検索して出てくる記事はどれも「これで執筆がはかどります」というようなものだけれどもどれもガジェットとかアプリとかが好きそうなブログで、
と書いたのちiPhoneの方でいじいじしていて「なるほど」等を言っていた。ふーむ、まあ使ってみないとわからないのでこれでよかった。それにしてもガジェットとかアプリが好きなブログだからって「執筆とかwww」となぜお前は笑っていいと思ったのだろうか。なんだろうか、お前のその、この、くだらない文章のほうがなにかずっと執筆らしいとでも思っているのだろうか、まさか日記文学、などと思ったりしちゃったりしているのだろうか、お前は文学という言葉は使わないかもしれないが、それでもなお、なにか、この、その、意味や目的や端的に伝えたいことのない漠然とした漫然とした文章の連なりがなにかより高尚かなにかなものだとでも、思っちゃったりしちゃっているのだろうか、非常にバカらしい。と彼は言った。そんなことはまったく思っていません。と僕は抗弁した。

それにしても今日は驚くほどに圧倒的に暇で、その暇さに圧倒されている。今18時57分、開店から6時間と57分が経った、これまでのところお一人しか来られていない。その方は上間陽子の『裸足で逃げる』を本棚から取って読まれていた。そのお一人しか来られていない、ただ、悲しくなってはいない、辛くなってはいない、なぜならばUlyssesのことをあれこれと考えていて考えることがあったからだ、ツールバーを常に表示させるかさせないかも考えた、させないでみると、テキストのすぐ上が他のウィンドウということになった、例えばChromeであるとかの。そうするとテキストと他の世界の境目みたいなものがなくなってしまって、というか堰みたいなものがなくなってしまって、こうやって打たれている言葉、打たれて上に上に流れていく言葉がまさにその流れのままに崖から下に、真下に、滝になって、流れ落ちていってしまうような感覚になった、Chromeのウィンドウに言葉が流れ落ちていく。それはなにかすこしおそろしい事態に思えたためツールバーは常駐させることにした。フルスクリーンで、と、今フルスクリーンにした、フルスクリーンの状態であればなにもなくていい、なにもないまっしろな部屋のなかでこれでいい。のだけど、外部がある状態だとツールバーレスというのはけっこうヤバイ。そういう学びや気づきを得た有意義な一日だった。僕はだからつまり「こんなものは重要じゃない」と思いながら書いていたい。もちろんこんなものはいささかも重要じゃないことなんて全部知っているつもりなのだけど、環境が「それ、重要なのでは?」とそそのかしてくるそれがだからフルスクリーンの「書く部屋」みたいなときのおそろしさだった。こんなどうでもいい文章はどうでもいい状態で書かれ続けなければならない。それを俺はよく知っているつもりだ。しかしそれでも、フルスクリーンの状態というのは、いやフルスクリーンでなくてもいいかもしれない、ライブラリやシートといった、メモアプリの左側のやつを想起してもらえばわかると思うのだけど(と、読んでいる人を想定した書き方を自然にしていて驚いた)、左のやつがない、エディタだけの状態、で書いているととても気持ちがいい。気持ちがいいし、先日読み終えたスクロール版の『オン・ザ・ロード』を思い出さざるをえない。ケルアックだったら、本当にこんな状態、大喜びするのではないか。大きな紙を用意して継ぎ接ぎして、それをよっこらよっこらタイプライターにセットする必要なんてなくて、ただひたすら、この真っ白いエリアに言葉を好きなだけ好きなだけ好きなだけ撃ち込んでいけばいいと、それをケルアックが見たらどう思うのだろうか。「うちこんで」でこの漢字が出たことはそれなりに示唆に富むというかなんの示唆もわからないけれどもギンズバーグだったか、バロウズだったか、そう打ってからあれこれ検索したのだけどよくわからなかったので言おうと思ったことは取りやめだ。でもタイプにしてもバカみたいにガチャンガチャンとうるさい音は凶器めいているようなところもあるというようにも言えそうなのでだからケルアックは言葉を打ったのではなくとにかく撃った、だから先ほどの変換がとっさに出たことはめでたいことだった、雨が降っていてそれが窓のすぐ前にある街灯からぽたぽたとしずくが落ちるのが見えるのでわかる。もちろん誰も来ない。

昨日はそこそこにいい日曜日だったそのプラった分を月曜日がすべて食い潰す。すばらしいリズムだ。うつくしい展開だ。楽しいからかまわない。
それにしてもこれで書いていると「全体像がわからない」という感覚になる。それでこれは見えている文字数の違いなのではないかと思って文字数を見たところ今のこの状態——またフルスクリーンに戻した——だと1100字が表示されており、これまでのscrivenerだと960字とあった、けどそれはいくらか改行がある箇所だったのできっと同じくらいなのだろう、それにしても、見えている文字の大きさが全然違くて、こんな小さいところで書いていたのかと思った。文字の大きさも、開いているウィンドウの大きさもずっと小さい。でもだから、何度も書いているとおり読書日記にはそんな姿こそが合っているのかもしれない。このフルスクリーンモードで書かれるのはなんというか、何度も書いているとおり読書日記には適切ではないのかもしれない。もっと、もっと劣悪な環境に身を浸さないといけないのかもしれない、いけないなんてことはない、なにがいけないのかまるでわからない、とにかく全部、とにかく全部。

読書日記のこれまでの28回の分は全部Ulyssesに移植した。読書日記のグループを作って各回を一つのシートにしてそれぞれに1〜29の数字を振って切り貼りした。そのグループをタイトルのアルファベット降順で並べて、すると上から29,28となっていくわけだけど、さきほどそれを昇順にしてグループ全体を選択した、すると2016年10月1日からの日記が本日の4月17日まで上から下にがーっと並んでいくことになって、なんというか、スクロール版になっていた。それを僕はうつくしく見た。scrivenerでもきれいな見え方があったのだろうけれども、僕にとってscrivenerはあくまで書く場所で、読むのはしんどい場所だった。でもここなら違う。そう、Ulyssesならね。という感じで、とてもきれいに見える。この場所で自分が書いたものをずっと読み返したっていいんだと思うとうれしい気になる。一つ残念なことがあるとしたら最終決定版はあくまでもwebに置かれている、ということだ、たぶん、webのほうがより修正されている状態の週というのが特に前半のほうなどに多くありそうな気が、している。だからここで読み続けるわけにはやっぱりいかなかった。いや今のwebの最新のものをこちらに貼れば済むのだが。たかだか30回にも満たない作業だ。それもまたよかろう。彼はそう思った。

しかし読み返すか?それが問いだ。もっともな問いだ。しかし今はただただただただ暇だ。暇ならば江國香織の続きを読んだらいいじゃないか。なぜ今日は手に取らないのだろうか。どうするつもりだろうか。コピー&ペーストを、28回とか、するつもりだろうか。いや、そんなバカなことはとてもじゃないが

さすがにそんな愚かなことはしないで、せっかくなのでと思ってUlyssesでブログを書いた。「912日」というタイトルのものになった。なんとなくライブラリをきれいにしたいので最初の行はシャープをつけてタイトルをつけることで、なんとなくライブラリがきれいに見えていい。推敲の一部は外で煙草を吸いながらおこなった。本当に一日、Ulyssesとともにあった日だった。雨がドシャドシャと降っている。不安だけが募っていく。

4月18日

すぐ近くにマレーシア料理の店があったのでそこでミーゴレンを食べてから映画館に向かった、『タレンタイム』という映画を見に行った。すると人種や宗教や言語やがさまざまなるつぼであるらしいマレーシアで笑いや涙やさまざまのるつぼの映画が目の前に流されて、懐中電灯で夜中に起こしてきた弟と起こされた姉が話すシーンがあった。姉が光を自分の口のあたりに向ける、そのあたりが明るむ、それで彼女は話す、その唇の動きを弟は読む、今度はその光が弟に向けられて、弟が手話で話す、姉はそれを訊く、簡単な返答はそこに片手を乱暴に差し出して伝える、それが繰り返される、その会話のシーンが、光が、照らされる口元や手元やその周辺が、あんまり美しくて僕はそこで泣くスイッチが完全に入ってしまった、それからは事あるごとに僕は泣いていた、しまいには悲しみや蓄積された豊かな心地やが堰を切って溢れて、声が出そうになってしゃっくりくらいの声で抑えた、力づくで抑えた。涙がごうごうと流れて鼻水がだらだらと垂れた。悲しくて悲しくて僕は声を出して泣きたかった、しかし映画館だった、それはできなかった、これ以上は画面を注視できなくて、画面の左下をぼんやり焦点をずらしながら見ながら、あふれる涙というか、あふれる「泣く」という行為全体を制御しようともがいた、もはや映画館の席に座っているのが苦痛だったし拷問のようだった、苦しかった、怖かった。
すばらしいすばらしいすばらしい映画を見てしまったと思った。おどろいた。昨日友だちから教わるまでまったく聞いたことがなかったものだから、それで見てみたらおどろいた。なんてなんてなんて豊かな映画なんだろうか。僕はたぶんデプレシャンの『キングス&クイーン』であるとかラリユー兄弟の『運命のつくりかた』とかを思い出していたのだろう、僕が致命的にいいとというかやられる映画は多くがわりとおそらく笑いも涙も全部を包含した一直線にいかないジャンルの統一されていないミクスチャーなるつぼな映画なんだろうと思って『タレンタイム』はまさにそういう映画だった。なんというかそういうものには真実みたいなものが映されているように思えてならない、悲しいことがあることと大笑いすることがあることはまったく矛盾なく同居する、それを全部目の当たりにして僕はとにかく全部、とにかく全部とつぶやきながら大泣きする、その涙には悲しさも喜びもとにかく全部含まれている。それにしてもマレーシアの、男たちの顔がどれもうつくしかった。女もまたうつくしかったけれど僕はより男たちに目がいった。すばらしい顔つきをしていた。

青山ブックセンターにいって何か本を買おうと思って、それで買われたのはデヴィッド・L・ユーリンの『それでも、読書をやめない理由』と滝口悠生の『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』で、前者は入ってすぐのところの『「考える人」は本を読む』特設棚みたいなところで紹介されていた本で、後者は続・日本の小説、と思って、しかし何がいいのかわからなくなって日和ってけっきょく以前読んだことのある作家のものを取ってしまった、というものだった。
入ったカフェでアイスコーヒーとカフェラテと焼き菓子を飲み食いしながらパソコンを開いていたがなにもはかどらないで、日が暮れると店を出た、ぼーっとしていて信号を間違えて、あと少しで左折する車にいい勢いで轢かれる可能性もある動きだったと思ってしばらく反芻して恐ろしがった、いつだって危険は隣り合わせだった。

江國香織を読み終えたのは新大久保の駅前から右に行って電車の高架の下を通って花屋が角にあるところを右に出た広くなっているところでガードレールというのか「U」を逆さまにしたものに腰掛けてのことだった、途中で女二人が「日蓮大聖人」という字が書かれたパンフレットを持って近づいてきた、「本読んでるんで」と言って僕は応じなかった。強い風が吹いていてページが煽られるのを手でしっかり抑えながら、それは読み終えられた。主人公の稔は友人の大竹を飲みに誘った、誘っておいて、でもちょっと待って、と言う。「いまちょっと緊迫した場面だから、この章の終わりまで読んじゃわないと落着かない」、そう言って本に戻ろうとした。「すぐだから」と彼は言った、僕は夜の予定が迫った時間にそこに座っていた、時間を気にしながら残りのページ数を考えながら「すぐだから」と思って、読み切った。いつも行くハラルフード屋さんで買った多量のスパイスを入れたリュックを背負って、僕は立ち上がった、駅前に向かった。
夜はネパール料理を食べた。マレーシアとネパールをGoogleMapで調べたところマレーシアはシンガポールのすぐ上で細いところだった、大陸に入ってタイ、ミャンマー、バングラデシュを越えるとインドとネパールがあった。あたらしい欲望、そのことを考えていた。酔っ払ってうつらうつらしながら電車で『それでも、読書をやめない理由』を開くと、息子が『グレート・ギャツビー』を読む学校の授業に不満をいだいている話から始まった。

今では、学校の文学の授業は誤った理論にもとづいていると気づいている。作品のどんな小さな部分にも意味がある、さあ、張りめぐらされている伏線を探し、全体の構造とどうつながっているのか示せ。文学とは——少なくとも、わたしが惹かれる文学とは——そんなことで味わえるものではない。 デヴィッド・L・ユーリン『 それでも、読書をやめない理由 』(p.8)

そんなことで味わえるものではない。それが楽しいゲームになりうることも理解するけれど、そんなことで味わえるものではない。というか本を味わうということがどういうことなのか、学校であるとかはたぶんまじめに考えていなくて、本を味わうというのはたぶん文字通りむしゃむしゃすればいいだけの話であって、おいしさにため息をついたりすればいいだけの話であって、言語化するにしても「おいしい」くらいで十分なはずであって、食べたものの味や印象を言語化することが食べ物を味わうことの必要条件ではないのと同じように、食べたものをただただ「おいしい」と言って食べていたらそれで十分に豊かな体験になるように、本も読んだものの意味や印象を言語化することが本を味わうことではまったくないはずで、ただ「おいしい」と言って読んでいたらそれで十分に豊かな体験になるはずだった。最初の数ページを読んでいた限りだとなんとなく気が合いそうな本だと思いながら帰るとよく寝た。こんな美しい夢は見なかった。

(もうひとつ、お気に入りの思い出がある。茶色の長い髪をした年上の女の子が、ビートルズの「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」に合わせて、合宿所の娯楽室でひとり踊っていたことだ。七月のある夕暮れ、夕食の後の出来事だった。女の子の体が、薄れていく夕陽の中で輝いていた。体はしなやかに動いているのに、不思議に静止しているようにもみえた) デヴィッド・L・ユーリン『 それでも、読書をやめない理由 』(p.19)

4月19日

夏休みの午後みたいな感覚で生きている。外に煙草を吸いに——もちろん半袖姿で——出ると、太陽がぎらぎらと町を熱しているようでまったく夏だった。一週間前までは外出するときはジャケットを着ていた。すべてが移ろっていくそのこととその速さに驚きと新鮮さを感じ続けながら生きている。
昨日の『タレンタイム』の余韻を、また取り出して噛み締めている。来週おそらくもう一度行く。階段を横から捉えた画面で、男と女が上と下で向かい合い、ソリッドでエモーショナルな手話がおこなわれる、それはすばらしい瞬間だった。水道で何度も顔を頭を腕を洗う男の子の肌を伝う水がうつくしかったし、彼が祈祷所みたいなところで祈る姿が横から、逆光で黒い輪郭だけになって映される、それに震えた。イギリス人のお父さんとマレー人のお母さんの3姉妹の家族の親密さ。長女と父のダンスの、唐突な上手さ、体のキレ。なにもかもがすばらしかった。目がその2時間、とにかく喜んでいた。

あるときふと、本であふれたアパートで気づいたのだ。もはや自分の中に、本を読むために必要な静寂を見出だせないということに。(…)
本を読むにはある種の静けさと雑音を遮断する能力が必要だ。過剰にネットワークが張りめぐらされたこの社会では、それを得ることは次第に難しくなっているようだ。あらゆる噂がブログに書かれ、ツイッターでつぶやかれる。深く考える機会は少なくなり、注意力は散漫になっていき、ネットでは事情通の連中があらゆる情報を提供してくる。(…)
本離れの原因はいささか違っているものの——わたしの場合は、重大な事件ではなく、現在進行形のつまらないことが理由だ——結果はたいして変わらない。わたしの集中力はこま切れになり、カルチャーに関する世間の騒ぎや、だれかれのブログの更新や、新しいニュースや、とにかく、ネット上のあらゆる叫び声がつい気になってしまうようになった。大人になってからは、ロスの『ゴースト・ライター』に出てくるE・I・ロノフと同じく、読書をするのはもっぱら夜が多かった。レイと子どもたちが寝てから、百ページとかそこら読むのだ。ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持ちを抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。 デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由 』(p.45-47)


せっかく本を読み出したのにこの箇所を読むと僕はiPhoneを取り出して消音のカメラアプリで1ページずつ3枚の写真を取って、それを写真アプリで開いてパソコンのディスプレイの隅——escからF2にかけての位置だ——に立てかけて、このように引用部分をタイピングする。そのあとで僕は4本指で左にスワイプしてChromeの画面に向かい、「プロ野球 - スポーツナビ」のアイコンをクリックする。野球の日本代表チームの監督人事に関する記事がトップに出ているがそれは読まない。プロ野球のニュースを読むことは安全地帯への逃避みたいなところがなくはない。うんざりする悪感情はそこにはなく、今日もまた、この世界のどこかで真剣に野球をやっている人たちがいる、というそれだけを僕は知りたく、それを知って安心かなにかを覚えたくて、頻繁に向かってしまうのかもしれない。読書においても同じことがいえるだろうか。

読書においても同じことがいえると思う。わたしたちは、テキストをひな形として与えられ、それを自分仕様に作り変えなければならない。そうして作り変えたものを、物語と呼ぼうが物語的真実と呼ぼうが、それは自由だ。なんとでも呼べる。だが、つまるところ、それはペインがほのめかしたものに劣らず説明しづらい創造の行為であり、わたしたちにとって、自分自身を理解するためのひとつの道なのだ。 デヴィッド・L・ユーリン『 それでも、読書をやめない理由 』(p.62)

読書は僕にとって自分自身を理解するためのひとつの道なのだろうか。結果としてそういうことが起きることは(他のなんであれ起きるときは起きるであろうように)あるだろうけれどもそんなに立派なことではない、ただの大好きな趣味であり時間つぶしでありなによりも日常というか日々の基調みたいなものだった。ただ本を読みながら生きているだけだった。

ただ本を読みながら生きていたら読み終えた。途中でいろいろを憂いているような、テクノロジーに対して全然否定的な人ではないにもかかわらずそれでもいろいろを憂いているようなところがあり、憂いている人よりも喜んでいる人のほうがセクシーだなと思いながら読んでいたのだけど最後は明るく終わったのでよかった。読書は読書だ。それでいい。本を読んでいるだけだったのに疲れた。生きているだけで疲れるということだった。夜になると肌寒くなっていった。空調が難しかった。日中はドライで掛けていたが暖房に切り替えた。なにが正解なのかはわからない。

そのあとは悲しかった。閉店後にエアコンのフィルター掃除をおこなった。そうすると気分がいくらかましになった。それでも夕飯を食べる気にはならなかったため帰り際にコンビニでポテチと金麦2缶を買ってそれで済ませた。人生を済ませていく。
末井昭の『自殺』を読み始めて寝た。

4月20日

Dakota Suiteを昨夜は聞いていた。最初の認識から長いあいだ「ダコタ・スーツ」と呼んでいたのでそれが「ダコタ・スイート」だと知ってからもどうしても頭は「ダコタ・スーツ」と思ってしまう。初めて聞いたのが『The Hearts Of Empty』で、その音こそがダコタ・スーツの音だと思ってしまって以来、他のアルバムにちょこちょこと手を出してみても「いやいやダコタ・スーツはそんな感じじゃなくない?」という固定された観念を盾にしてしまい、というか『The Hearts Of Empty』を大傑作だと思っていてかつ大好きということなのだけど、それで少し聞いて納得いかない顔をして『The Hearts Of Empty』を聞く、ということになる。昨夜もそうだった。
ところでその『The Hearts Of Empty』をタイトル等を調べようと検索したところ2011年のリリースとのことで「これまでのDakota Suiteのアルバムはうたもののスロウコア作品か、クラシックなインスト作品か、といった内容でのリリースでしたが、今作はDakota Suite初となるジャズアルバム」とあって、どうやらこちらこそが例外だったようだった。それにしてもこれはすばらしいアルバムだと思うし昨夜も思った、『自殺』を読んでいた、不思議な感覚で読んでいた。

朝からぼんやりした心地でいた、昼もぼんやりした心地で働いていた、間違えた、忘れていた。朝はいつもよりも早く動き出してがっつり仕込みをしていたのだった、そうしたら12時の開店にやや間に合わないような感じになって、間に合わないというよりもスタートはできるけれどもここまではやっておきたかったというところまで達していないという感じで、だから開店はして、それから慌てながら働いていた、のだった。だから「朝からぼんやりした心地でいた」と勝手な思い違いをしたのが現在が「ぼんやりした心地で働いてい」るからで、朝に激しめに労働したためなのか、そして昼もとんとんとお客さんが来られて動いていたためなのか、一つやらないとなと思っている仕込みがあるが一ミリもやる気が起きない。傍点を振って強調したいくらいだ。

一ミリもやる気が起きない。そう打とうとしていて何か用ができて立ち上がって、それから座るまでのあいだに「一つやらないとなと思っている仕込み」を完了させた、さらにもうひとつ、「閉店までにこれも片付けておかないとな」だった仕込みも終わらせた。やる気とかではない、必要なのは運動する身体だ。体は一つのスイッチが押されさえすれば駆動する。僕を椅子から立ち上がらせることになる外部からの要求の声、それだけが必要だった。それがあった。あとはもう、流れに任せればいいだけだった。運動、というよりも自動する身体だった。ところで僕は「身体」を「からだ」と読ませられるのが苦手で、「身体」は「しんたい」であってほしいといつも思っている。

『自殺』は最初は朴訥とした語り口というか優しい語り口というのか、とにかく語り口が僕はしっくりこない感じがあって変な感覚で読んでいたのだけど今日営業中に読んでいると慣れたのか楽しく読んでいる。いろいろなことが起こるものだなーと思いながら読んでいた。それから借金の話を読みながらお金のことであくせくしたくないなー鷹揚に構えられたらいいのになーと思いながら読んでいた。たいへん鷹揚に構えている感じが書かれていた。
夕方にどなたもおられなくなって本も読み疲れたしというところで昨日の閉店後にエアコンのフィルターを掃除したので勢いがついたのか今日はじゃあ換気扇のフィルターというかカバーをやろうと思い立ち、見切り発車で掃除を始めたところ久しぶりなので忘れていたが思ったよりも大仕事かつ直後にぽろぽろとお客さんが来られたため完全に見切り発車だったと思いながらやはり閉店後にちゃんとやることにした。

4月21日

換気扇のフィルターというかカバーの掃除は難航し、完全にきれいにするのは無理だと諦めて途中で「まあ」という感じで切り上げたそれを開店前にはめて換気扇を回すとその下で聞こえる音がまるで異なっており、「こんなにスースー音が鳴るものだったか」と驚いた。きっと今まで以上に換気もされていることだろう。それがいいことなのかどうかは本当はよくわからないが、ともあれきれいになるということはすごいことだった。この2日間で換気扇とエアコンのフィルターをきれいにしたため、ずいぶん仕事をした気になった。なのであとは本を読むことにして今日も朝から『自殺』を読んでいた。すると営業中に読み終わったのでチーズケーキを焼いた。
今日は昼からコンスタントにお客さんが来られる珍しい平日で、最終的にはすばらしい数字に着地した。満席にならないでかつずっとお客さんが一定数以上いるという状況はいちばん誰も損をしていないしグルーヴィーなのでいい。よい時間がずっと流れていると思って生きていた。

「バベルの図書館」が想起させるのは、極端な飽和のイメージだ。そこでは可能性が重荷になってしまっている。ボルヘスの場合、この図書館はひとつの比喩だった。だがローランソンのエッセイが示しているように、少なくともある程度まで、わたしたちはボルヘスの世界に住んでいるのだ。わたしたちは静寂を求めている。孤立するためにではなくひと休みするために。喧騒の中でひとかけらのやすらぎを見出すために。 デヴィッド・L・ユーリン『 それでも、読書をやめない理由 』(p.187)

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