本の読める店

SHOZO

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年末年始、12月30日から1月3日まで5日のあいだ栃木県北部にある実家に帰省してきわめてゆっくりな感じで過ごしていたわけなんですけど、インスタ等にも投稿しておりましたがその5日間で3回、黒磯にある1988 cafe shozoに行った。本読んだり実家にはないwifiがあったのでパソコン開いてブログ更新したりをして過ごした。
shozoが本当に好きで、ということは以前も書いていて。

労働のモードと人間 | fuzkue

ここで書かれたことは、従業員というかスタッフというか雇われて働いている人たちが、機械じみた労働のモードではなくちゃんと人間らしい顔つきで人間らしい態度で働いている、それもみんながみんな、というのがショーゾーの超稀有なところだと思うんですよね、ということだったのだけど、これは今回も本当にそうだなと思った。そのため下記でも同じことが書かれるのだけど。

ショーゾーはなんというか、「ショーゾーとはこういう場所だ」みたいな、それは店主の方が持っていらっしゃるであろうなんかそういうのってあると思うのだけど、僕の目にはその店主の方が持っていらっしゃるであろうそういうなにかっていうのがきれいに、どのスタッフの人にもインストールされているように見える。
それは「こういうときはこう振る舞う」みたいにマニュアル化できるものではないと思っていて、なぜなら「こういうとき」という想定されうるあれこれは無数にありすぎるからで、だから適切な動きを各人に起こしてもらうためには考え方の幹みたいなものをインストールさせないといけないと思っていて、というかそれがインストールされさえすればあとは本当に枝葉末節という気がしている。そしてそのインストールって多分わりとすごい難しいんだよなと思っていて。

少し前にわりとというかたぶんある界隈ではとても人気というか雑誌や本でもよく取り上げられているしきっとすごいあれなのであろうカフェに行ってみた夜があったのだけど、全体的に僕には関係ない場所という感覚が強くやってきてすごく居心地が悪かったのだけど、それとはまた別に、店の方々の動きというのが、「多分これはこんなふうな振る舞いが理想だねとオーナーの方が考えているような振る舞いではないだろうな」というたぐいのもので(片付けの賑やかさとか椅子引きずったりとか雑な挨拶とか)、「あれ?ここってほっこりとかのだいぶ聖地とかレベルのあれなのではなかったの?」と思った。

その店はショーゾーほど歴史があるわけではないにせよ、おそらくショーゾーもそうであろうように募集を掛けたら「もともととても好きで何度も来たことがあります」という熱心な人たちがきっと集まってくるのだと思うのだけど(意外にそういうものでもないかもしれないけど)、そういう人たちが集まってきてもこうやって労働モードのろくでもない動きを簡単にし始めるのだから、幹みたいなもののインストールってやっぱりなかなかに簡単なものではないのだろうなと感じた。
そういう点でショーゾーは驚くぐらい働いている人たちがみんな同じ方向を見ているというか、同じなにかをしっかり共有するとともに、というか共有して初めてできることなのかもしれないけれど、各人が人間としてその時間をしっかり生きている感じがして、すごい。
笑い方とか些細なことだけど、今回もオーダーするときとかに僕が肘かどこかで窓のサッシをちょっと揺らしてしまってわちゃちゃとかやったときに完全にその人の笑い方に見える笑いをした場面があって、細かいところだけど、そういう細かいところに命みたいなものって宿るというか、機械でなくて人間なんだよなというのが表現される気がする。

なんかこう、すげーな、と思って、フヅクエも今はひきちゃんというスタッフちゃんがいるわけで、だから俺も勉強勉強と思って、3秒くらい思って、思ったあとは存分にナイスな時間を満喫する、という3回のあれでした、という話でした。
そのこととは別に、別にといっても繋がってはいるのだけど、ショーゾーで過ごした影響で考え始めてしまったことがあって、昨日からずっといろいろ考えている。のはまた別のところで書こうと思う。

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