労働のモードと人間

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一年前も同じ行動をしたのだけど、大晦日と元旦は連日で黒磯の1988 cafe shozoに行って過ごしたわけでした。帰省先の家から車で30分ほどなのでここぞとばかりに行く。
初めて行ったのはおととしの夏で、そのときは那須塩原店は行けたのだけど黒磯の方は行こうとしたが満席およびこちらに時間がそうないことが発覚したためテイクアウトで帰って、リベンジ的にその年末、という感じで、行ったらめちゃくちゃ好きになってそれから機会があるたびに行っている。
(ここで使っているティーコゼー(ティーコジー?)がすごくいいなと思ったため、これ使いたいなと思ったため、調べてもショーゾーのwebしか出てこない地元の作家のものらしいため、開店準備中の8月か9月にはほとんどティーコゼー買うためだけに行ったこともあったくらいで、今回も2つ買えたのでこれでティーコゼー合計4つ、ティーポットの数と同じになったのでしばらく安心、そんな同時に紅茶が出ることなんて未だ体験してないけど、みたいなことになった。)
ショーゾーの何がいいって、空間ももちろん大好きなのだけど、というかそれがあってこそだとは思うのだけど(隔絶感と開放感のものすごい絶妙の塩梅というか)、僕が毎度感銘を受けるのは働いている人たちの働きぶりというか動きぶりというか振る舞いか、振る舞いの見事さで、ちゃんと感情を持った人間が複数人、そこで同時に働いているという事態に「これはすごいことだ」と思う。毎回思う。
以前も同じようなことを書いたのだけどこれは何度書いてもいいことというか。生きている以上は色々なお店に行くけれども、なかなかこういう接客できる人が揃って揃っていることはないと僕は思っていて。揃うってつい言ったけれども揃っていないことで揃うというか。労働のモードというのはけっこう強いもので、よほどの考えか訓練かもしかしたらある種の鈍感さや素朴さみたいなものがないと、人間はいとも簡単に労働するロボットになっちゃうと僕は思っているから、ショーゾーのようなたぶんめちゃくちゃに忙しいであろう店において人間が人間として保たれているというのは本当に稀有なことのように思う。
フヅクエという場所を僕は一人でやっているから、いま僕は組織としての店において人間を人間として駆動させるような仕組み作りというか、それを実現させる空気作りというか、についてそんなに考えを深める必要はないとは思うのだけど、やっぱりすごいことですよね、滅多にないことですよね、と今年も思ったので書いた。
まあそれに、一人でやっているにしてもロボット化のリスクから免れるわけでは当然ないからやはり、そのあたりは常に意識するというか、肩の力を抜いて人間らしくいつづけたいですね、と思いました。