『若い藝術家の肖像』を読む(60)しかしこれは神聖なにおいだ

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傘はなくなっていた。アンジェリーナ・ジョリーが冗談みたいに赤い唇を震わせて「これは私の子ではない」と言葉を絞り出したように私は「これは俺の傘ではない」と、そこに残っている、たしかに持ち手は黒いが明らかに持ってきたものよりも細く小さいその傘を見、つぶやいた。
雨はすでに上がり、だから私はその取り替え子を拒否し、手ぶらで帰ることにしたのだった。
まだ濡れた坂道をてくてくと上がり、肉のハナマサに寄っておしぼり(平)を購入した。普段であればおしぼりは配達をお願いしている業者に頼む品なのだが、明日にもなくなりそうな在庫状況から、肉のハナマサで買うことにしたのだった。そこは24時間、煌々と明るんでいる。
山手通りが妙に好きで、ふだんは自転車で通る道なので富ヶ谷の交差点のスクエアの歩道橋はいつも見上げるだけだった。「徒歩の利」と私はひとりごち、さらに「せっかくなので」「これも何かのチャンス」「またとない」「千載一遇の」「二度と訪れぬやもしれぬ出会い」「一期一会とはまさに」等々の言葉を次々に発したあと、歩道橋の階段を上がり、四角形の四辺のうち二辺を歩くことを謳歌した。そこから撮られたのが上の写真である。
昨日、雨、しとしと。夕刻、新宿へ。ノエミ・ルヴォウスキー、『カミーユ、恋はふたたび』、シネマカリテ。席は事前に予約。予約画面に着くと、E列とG列のみがまっさらに予約可とある。EとGは一つの汚れもなくきれいに残っている。残りはすべて埋まっている。EとGっていうのは構造上よほど見にくい席なのかな?極端に低いとか。といぶかりつつ席を取った。
窓口で番号を伝え開場されたスクリーン2に入り、Eの7。他の列と遜色はなさそうだ。席につき、そこで本が開かれる。
「礼拝堂のなかは、つめたい夜のにおいがたちこめていた。しかしこれは神聖なにおいだ。日曜のミサのとき礼拝堂の奥のほうにひざまづく百姓の年よりたちのにおいとはちがう。あれは空気と雨と泥炭とコールテンのにおいがする。しかしあの人たちはとても信心ぶかい百姓だ。お祈りしながら、うしろからぼくのくびに息をふきかけて、吐息をついたっけ。クレインの百姓たちだよ、とだれかがいった。あのへんの百姓家は小さい。いつかサリンズからきて馬車で通りすぎるとき、子供をだいている百姓女がくぐり戸の前に立ってるのを見かけたことがある。」(P33-34)
なんかもう、このくだりが特に目を引くところがないのか時間をあけすぎたせいなのかわからないけど興味が特にわきません。「えー首に息吹きかけられたのー?」くらいしか思わない。「スティーヴンだいじょうぶー?」くらいの。
で、即座に閉じて、まだなにもうつっていないスクリーンを見やる。あたり見回す。開場から時間が経ったが席が埋まるような気配はみじんもない。がらがらと言って差し支えのない状況。そんななかですぐとなりにカップルの方が座ってきた。私はすぐに「さては」と思ったのでした。 「予約はEとGしかさせないっていう寸法なんだな!鬼畜生!」と。それでとなりのカップルもきっと予約組だ、しかしそれにしても、わざわざピンで取られている席のすぐとなりを取らなくてもいいのに。一つあければいいのに。鬼畜生!等々思っているところ予告編に引き続き本編の上映が始まりました。
映画はたいそうよかったです。せめてやさしくありたいと思いました。
今日ちらっと読んだ『ユリイカ』の1976年だったかのやつの「ヒーローがどうの」みたいな特集の号の淀川長治の文章の中で『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンが現代のヒーローだと書かれていたのだけど、僕にとってジャン=ピエール・レオーとマチュー・アマルリックはわりとヒーローで、その二人が出ているというだけでも十分だったのだけど、そして年老いたジャン=ピエール・レオーはやっぱり最高にチャーミングでうれしかったのだけど、レオーに限らずどの人も魅力的に運動していて、いい表情していて、まあなんかほんとずっと、とてもよかったです。すごくよかったと思う。
地下の映画館から上がり新宿の町に出るとまだ雨は降っていて、小田急線に乗って代々木八幡に行きました。小田急線に乗るたびに大学時代を思い出すような懐かしい感覚になるので定期的に乗りたいです。代々木八幡から少し歩いたところのお店にいって友だちとご飯を食べ、愉快な時間を過ごし、それから傘を欠いた手をぶらぶらさせて夜道が歩かれました。その12時間後に今度は自転車で山手通り北上。小田急線の線路の上にあたるところでふと横を見たらなんかふいに、「ふぁ〜」、と思いました。11月の晴れた日におとずれる啓示というか恩寵というか。(恩寵!)