『若い藝術家の肖像』を読む(59)かくてわれらの口おんみをほめたたえん

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世田谷線に乗る用事があったため下高井戸まで京王線に乗ったのは久しぶりの一日休みの日曜日のことで、澄み切ったような空があかるく、代田橋だか明大前あたりを過ぎたところで窓の外に違和を感じさせる景色というか建造物が目に入った気がしたが視界的に終わりのほうだったのでそれが何かを見極めることはできなかった。黒沢清の映画に使われそうな不気味な風合いの建物だったように思えた。そのため下高井戸で下車した。するとジャズバンドが演奏をおこなっていていくらかの人間がそれを目撃していたので僕はもう少し歩いて2階に上がってみたところCD屋さんだったそこでMASS-HALLというヒップホップの人のCDを購入するに至った。僕はそのアーティストを知らなかったが、ポップに「歴史に残る」というような言葉が書かれていて、歴史に残るならば聞いてみようという気になって買った。場に対する信任みたいな買い方だった。
そのあとで時間がいくらもあったため喫茶店に入って久しぶりに読んでいるジョン・ウィリアムズの『ストーナー』を読んだ。ため息が出るくらいに美しい小説で、原文がどれだけ美しい言葉で書かれているのかわからないが、東江一紀の訳文は見事というかとんでもない言葉のかずかずを運んできてくれる。「あえかな」という形容詞を僕は「身をかがめてキスをしようとしたストーナーの両腕に、か細い指のあえかな力が感じられた」この文章だけに用いられているような気がしていたというか、この文章のインパクトが大きくてそのときに打ちのめされたというか撃ちぬかれたというか射抜かれたので覚えていたというか強く印象に残っていたのだけど、再読してみると、驚いたことに、冒頭2段落目に「その関心があえかな水泡以上の大きさにふくらむことはきわめて希だ」という文章があった。また、もう一箇所でも見かけた。訳者にとって気に入りの言葉だったのかもしれない。
窓の外でパレードが始まった。ディズニーランドに最後に行ったのは20年より少し前じゃないかと思うのだけど、そんな僕でも「ディズニーランドの」とわかる音楽が奏でられて、すぐに通り過ぎていった。近くでxx屋を営んでいるxxさんが、その建物の持ち主であるxxさんとの関係に悩んでいた。xx年前に話し合ったとき「もう二度と話すことはありません」と言われ、そのあとで物件の更新の通知に準じたものを受け取ったとき、そこには通常通りに更新される雰囲気の言葉が書かれており、xxさんは安心したし、これからはこのように完全にドライに、書面上だけでやり取りを続けるのだろう、それもまたよかろう、そう思った。しかしつい先日、突然大家のxxさんから手紙が送られてきて、そこには通常では考えられないような更新料が書かれていた。xxさんは現在xx歳で、家族でxx屋を営んでいる。来年xx歳になる母親はそろそろ仕事から手を引きたいがその分アルバイトを雇えば途端に経営的には大変になる、xxさんは「私が店をやっているのはこれしか私に他に仕事がないからなんですよ、平成xx年からこれまでずっとがんばってきたんですよ、それなのにこんな仕打ちはないんじゃないですか」と話す。この物件はもともとはxxという不動産会社が所有していたか何かしていた建物で、それをいつからだったかxxさんが買い取るか何かしてオーナーになった。xxさんは提示された金額に納得がいかない。「店子は言いなりなんですか」と嘆く。「この金額は妥当なんですか、いいえ、妥当じゃないですよね」、丁寧だが大仰な、下手な役者のような話し方をする。向かいに座る男性がなんの人なのかわからなかったが何かしら不動産の何かしらに通じている人物らしかった、誰かの代理人なのかもしれなかった、彼は「それが妥当かどうかを正確に見極めることはむずかしい、なぜなら」と話す。その理路は整然としているように僕には聞こえる。しかしxxさんは「だったらなんで最初にうちに相談してくれなかったんですか」と嘆く。「それはまた別の話ですよね」と向かいの男性は答えるし僕にもそう思える。xxさんは店の面積はxx坪で、平米にするとxxというのはしかし計算上0.325なんとかで割ったり掛けたりするんですよね、というような独自の理論を説いた。独自かどうかはわからないが、向かいの男性が言う坪数×3.3が平米数という計算を僕は思っていたので、0.325云々は初めて聞いた話だった(今調べたところ坪数÷0.3025が正確な平米数とのことだったが、xxさんの言い分が正しかったというわけでもない)。xxさんの声はとにかく大きく、そう広くはない喫茶店のすべての客を聴衆としているかのようだった。取り乱したxxさんの声はどんどんヒートアップしていき、ウィリアム・ストーナーの歩みをともに歩もうとしていた僕の歩みは何度も遮られ、しまいには諦められた。そのため、別の本が開かれた。そこにはこうあった。
「頭の上で礼拝堂の先生がお祈りをとなえているが、応唱はそらでおぼえている。
《おお主よ、われらのくちびるを開かせたまえ
かくてわれらの口おんみをほめたたえん。
御手をさしのべたまえ、おお神よ!
おお主よ、いそぎわれらを助けたまえ!》
礼拝堂のなかは、つめたい夜のにおいがたちこめていた。」(P33)
ここで「主」を「家主に」、「くちびるを聞かせたまえ」を「更新料を下げたまえ」に替えることで、この日2015年10月の25日日本東京下高井戸の喫茶店で繰り広げられていたxxさんの嘆きの光景に様変わりすることを、スティーヴン、君はわかっているのか?
初めて乗った世田谷線は想像を絶したローカルさを呈しており、僕は年末に帰る栃木へ向かう電車の中から見る景色を何度も思い出しながら、空が変わらない青色で広がっているのを好ましく、切ない思いで見ていた、秋であり、冬が来る。と、途中駅のホームで電車を待って立っていた若い女の短く薄い生地のスカートが吹き上げた風でまくれそうになりそれは慌てておさえられ、同時に、そこから少し離れたところで背を向けて立っていた長い金髪の女のその豊かな毛髪がはたはたと横に流れるように風をまとい、光に満ちたその運動を目撃した僕はひとつの名前を思い出していた。