『若い藝術家の肖像』を読む(52)神様だけが、そんなことができる。

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この連載的なやつの前回のやつが7月28日で、なんでこんなにあいちゃったかな、というところなんですが、いろいろな要因があるとは思うんですが、何よりも映画を見に行ってない、一度も、ということが大きいというか、ほとんどがそれだろう、というか。
本にも様々があり、仕事前の時間に読みたいもの、仕事中の合間合間で開きたいもの、喫茶店等でじっくり向かい合いたいもの、就寝前に横になって読みながら毎日寝落ちしてどこまで読んだかがわからなくなるもの等々。その中で『若い藝術家の肖像』はすっかり「映画上映開始前に開くもの」枠になってしまった感があり、そうなるともう、映画行かないと読み進められない、ということになってしまう、映画に行かねば、ということか。
しかし映画には行っていない。ではどこに行ったのか。
既述の通りiPhoneが壊れた。このまま暮らしを続けてもいいような気もした。でもそれも違うような気もした。ともあれ、auショップにおもむいた。
そこで、なぜか本が開かれた。静かでまばらな雨が降る時間だった。
「あらゆるもの、ぜんぶの土地のことを考えるなんて大変なこと。神様だけが、そんなことができる。彼は、それがどんなに大がかりなことを考えることになるのか、考えようとしたけれど、神様のことしか考えられなかった。神様というのは神様の名まえで、これはちょうどぼくの名まえがスティーヴンなのとおんなじ。《デュー》というのはフランス語の神様で、だからこれも神様の名まえだ。だからだれかが神様にお祈りして、《デュー》といえば、神様はすぐに、お祈りしてるのはフランス人だなとわかる。しかし、世界じゅうのさまざまな国語みんなに神様のためのべつべつの名まえがあって、そして神様にはお祈りしているみんながべつべつの国語でいうことがわかっても、それでもやはり神様はいつもおんなじ神様だし、神様の本当の名まえは神様だ。」(P30−31)
非常にアクチュアルな問題が語られているような気がした。
機種変更、修理、MNPがどうのみたいなやつでキャリア変更、SIMがどうのこうの、料金プランをどうこう、知らないけど、いろいろ、多くの選択肢があるらしい、全部の選択肢の中からもっとも適したものを考えるなんて大変なこと。神様だけが、そんなことができる、そう思った。
僕はそもそもLTEプランだったか、そんなにインターネットにいつも繋がれる環境にいる必要性があるのか、というかそれによって損なわれている経験がありすぎるのではないか、金銭的にもどうなんだ、その金額はそれに見合うものなのか、神様だけが知っているのか、考えた、LTEプラン的なものを削ったら毎月1000円とかで使えるわけじゃないか、Wi-Fi環境さえあればよい、しかし町に出たときにどうなんだ、道に迷ったときにどうか、人に聞けばいいか、それもいいかもしれない、では待ち合わせ等はどうするか、ふいの飲みの誘いなんかはキャッチできないかもしれない、しかしそんなことここ数ヶ月のあいだに一度でもあったか、アクシデンタルな飲みの場への参加などあったか、なかったんじゃないか、そうなったとき、端末にインターネットが宿らないことはなんの損失を僕におよぼすか、出先のインターネットは月額の差額6,7000円分の経験を僕にもたらすか、神様だけがそれを知るのか、誰を神様とするのか。やおよろずの中からどれをそれとして措定するのか。詳しそうな友人か、インターネット上に散在するあれこれの記事か。
いや、auショップの店員さんをおいて他にはない。
むろん、彼あるいは彼女が絶対的に正しいなどとは思わない。神は往々にして過ちを犯すし、己の利益のための行動だってするだろう。正しさは「SIMフリー…」などと思わせぶりな単語をつぶやく人の内にあるのかもしれない。知らない。これは決断の問題だ。誰を神としてしまうか、僕の決断の問題だ。auショップの店員さん=神と僕は決断する。彼あるいは彼女が白と言えばそれを白だと信じることを決断する。
選択肢が多そうに見えるとき、その全体像が自分には見えないとき、考えるコストが高いとき、高いコストを掛けてまで考える必要あるのかよくわからないとき、そんなとき、信仰心。たとえ多少なにかで割高になったとしても、布施だと思えばいい。安心を買うために、金というものはあるのではなかったか。違ったか。知らないしどうでもいい。
と、そんなことを考えていると、「101番のお客様」と呼ばれた。僕は「デュー」とつぶやくと、立ち上がり、窓口に向けて歩を進めた。