『若い藝術家の肖像』を読む(50) そうすると詩ではない

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いつもより1時間ほど早く起きて予報を見ると夜の時間帯に傘マークがいくつか並んでいたため参宮橋駅から小田急線に乗って電車で下北沢に行った。朝早いと呼んで差し支えない時間帯の下北沢を歩くことなんてこれまでなかったように思うため人のない駅前の通りは新鮮な光景ですでに蒸し暑く、そのため喫茶店に入った。
喫茶店でコーヒーとトーストを注文して本を開いた。
「これはじぶんで書いたのだが、フレミングがある晩ふざけて、むかってるページにこう書いた。
《スティーヴン・ディーダラスはぼくの名まえ、
アイルランドはぼくの国、
クロンゴーズはぼくのいまいる所、
そして天国はぼくの目的地》
その四行をおしまいから読んでみたが、そうすると詩ではない。それから見かえしを逆に読んで、じぶんの名なまえのところまでゆきついた。これがぼくなのだ。そしてまたそのページを読んだ。」(P30)
「そして天国はぼくの目的地」っていうのはなんだかドキッとしていいですね。「これがぼくなのだ」とかも。これがぼくなのだ!いいよねそういうの、と思う。
「そうすると詩ではない」とはなんだろう、というかこれ詩だったのか、と、いうところで原文を見てみると、この「四行」は「the verses」で、ヴァースは韻文みたいな意味っぽいんですが、ヒップホップでもヴァースがどうのこうのって聞く気がするからきっとそうだと思うのだけど、そうかこれは韻を踏んでいたのか、というところで見てみると、
「Stephen Dedalus is my name,
Ireland is my nation.
Clongowes is my dwelling place
And heaven my expectation.」
とのことで、たしかに韻が踏まれていた。韻が踏まれているのを見るたびに「僕も韻を踏んでみたいなあ」と思って地団踏んでいる。またそのページを読んだ。
「宇宙のつぎは何だろう?何もない。でも宇宙のまわりには、その何もない場所がはじまるまえ、宇宙がここでおしまいだということを示すしるしが何かあるかしらん?」(P30)」
さっき原文を見たついでにこの箇所も原文を見ると「何かあるかしらん?」にあたるセンテンスにドットの下線っていうのかな、が引かれていて「341ハイライトした人」と出ていた。こういう表示初めて見た。いい一節というか多くの人に響いた一節なんでしょうね。
「But was there anything round the universe to show where it stopped before the nothing place began?」
ただ、これ設定で消せるのだろうけれども、勝手に共感ポイントを先に提示するのはやめてほしいなと思った。読んだあとで「どこがみんなの響いたポイントなのかな?」と思ったときに表示させるのはいいですけど、「ここだよ!ここ!ここでみんな感動してるよ!」って声高に言われるとなんか目が引っ張られるし黙っててくれと思う。
そこはいい喫茶店で、コーヒーをおかわりでもしてもうしばらくゆっくり本を読もうかと思っていたのだけど、僕は腹の底から緊張しておりまったく気もそぞろだった、
海の日の一日を追うつもりで書き始めたのだけどまだこれ朝の10時過ぎという時点だけどここまで書いたらなんとなく飽きたというか止まっちゃったのでもういいや。このあとB&Bのイベントに出てビールは自分の出番が終わってから飲もうと思っていたためスタッフの方に「飲み物はビールでいいですか?」と問われた際も「はい」と答えてしゃべりながら3杯飲んでそのあとも1杯いただいたので「ただ酒ラッキー」と思ったこと、イベント終了後徒歩で代官山に移動してOMSBのライブを見てその時間がただただ幸せだったこと、とんでもなく幸せだったこと、そういうことがもっと細かく書かれる予定だったのだけど、書かれないことになった、ということが書かれました。
(写真は会場でTシャツ買ったらもらえたステッカーをコーヒーミルに貼って仕事中いつでも「Think Good!」って自分の目に入るようにされた模様)