寝る前と映画を見る前に共通することとして、しばらくのあいだ手を使う用事がない、ということが挙げられるだろう。そのため映画を見る前の時間、ちょうど予告編が始まったあたりのところで、ハンドクリームを手の甲にたっぷりと取り、なじませまくる、みたいなことが僕の中で「これで楽しさ100倍!映画を見る前にしておきたい10のこと」とかいうクズみたいなバイラルメディアの記事があったら筆頭で挙げたいこととしてある。
もういきなりなんの話してんのかわからなくなってきた感も多少あるのだけど実際のところは実に明確にわかっていて、ハンドクリームを手に塗りたい、ということだ。
だから、昨日は新宿のK’sシネマで映画を見るあれで、それまでに店に必要な買い物をいくらか済ませ、映画館の前のタバコ屋さんのところでタバコ吸い、「あ、ハンドクリーム」と思ったのだった。上映開始まで20分、ここは新宿、きっとドラッグストアなんて腐るほどあるだろう、犬も歩けばドラッグストアだろう、と思っていくらかウロウロしたところ、結局さっきいた無印良品の横くらいのところにマツモトキヨシがあることがわかり、「さっき行けばよかった…」という薄い悔恨とともにマツモトキヨシに入り、ハンドクリームであるところのユースキンを買い、K’sシネマに向かい、チケットを買い、座席につき、ハンドクリームを塗ろうかと思った矢先、まだ少し時間があるとのことだったので本を開いたのだった。
「そのとき上級組の生徒たちが、食堂のまんなかのしきものの上を歩いて出てゆきだした。バディ・ラスと、ジミー・マギーと、葉まきをすうのを許可されているスペイン人と、ウールの帽子をかぶっている小さなポルトガル人だ。それからこんどは中級組のテーブルと下級組のテーブル。そしてひとりひとりがみんなちがう歩き方で歩く。」(P26)
外国の人の名前とかよくわかんないけどジミー・マギーってなんか一人で二人組みたいな感じがしていいな、と思ったその矢先、上映開始の時間となり、ハンドクリームを箱から取り出し、中のペラっとしたやつをはがし、そしておもむろに人差し指でひと山すくい、手の甲に落としたのだった。そしてベチャベチャからサラサラへ向け、私は手をこねくり回し続けた!
そういうわけで富田克也の『国道20号線』を見た。富田監督の作品はやっとという感じで初めて見たんだけど、なんかほんととんでもなかったすわ。なんか「俺は一体なにを見ているんだ…!?」という感じでとんでもねーという感じであれでした。すごかった。
それで続けて『サウダーヂ』も見るのでしばらくあいだがあり、友だちとばったり出くわしたりした。
「遊戯室のすみにこしかけて、ドミノ遊びを見ているふりをしていたが、一ぺんかニへん、ちょっとのあいだ、ガスの小さな音が聞えた。先生は数人の生徒と戸口のところにいて、サイモン・ムーナンは先生のかざりのひもをむすんでいる。先生は何かタラベッグのことを話している。」(P26)
サイモン・ムーナン再びwwwと思ったその矢先、上映開始の時間となった。(まあ嘘だけどね。本当は『国道20号線』始まる前にここまでと言わずこのあとの引用箇所まで含めさーっと読んでるんだけどね、長いから小出しにした方がいいかなという配慮というかね)
そういうわけで『サウダーヂ』を見た。なんかほんととんでもなかったすわ。なんか「俺は一体なにを見ているんだ…!?」という感じでとんでもねーという感じであれでした。すごかった。
なんか、けっこうなところどちらもすごすぎて、山梨を舞台にした映画だけど異国感というか、それは『サウダーヂ』でブラジル人とかフィリピン人とかのコミュニティが出てくることの影響ももちろんあるのは否定しないけど、異国感がすごいというか、少なくともこれは俺の知っている日本じゃないですわ、という感じでなんか途方もなかった。
あとで読んだインタビューでフランスかどこかの映画祭でフランス人とかの人たちが「日本という国への認識を僕たちは改めたよ」と言ってきたという発言があったけれども、僕も改めたというか、いやなんかものすげーと思ったというか、まあ言葉にならんのですが。
「そのとき戸口から出ると、ウェルズがスティーヴンに近づいていった。
――ねえ、ディーダラス、ねるまえにおかあさんにキスする?
スティーヴンは答えた。
――するよ。
ウェルズはむきなおってほかの連中にいった。
――おい、こいつは毎晩、ねるまえにおかあさんにキスするっていってるぜ。
ほかの連中は遊ぶのをやめてふりむき、大声で笑った。」(P26)
はいはいあっそというところなんだけど、話を戻すと、なんか出口なしというか、「タイに何があると思ってるの?」って、きつい問いかけだったけれども、「ここではないどこか」なんていうのはほんと、山梨に限ったことではなくて実際、ないのではないかというか。頭の中で、あるいは自分のコクピットの中で遊ぶしか飛ぶ方法はないのではないかというか。安易な飛び方として『国道20号線』の彼らはシンナーに溺れるのか。おいでおいでという手招きの先にはしかし一体なにがあるのかというか。バイクの疾走の先に何があるのか。
そんなわけで映画が終わったら9時で、珈琲西武に行ってサンドイッチとコーヒーで夕飯なのかなこれ、と思いながらサンドイッチとコーヒーとサラダとポテチ食った。珈琲西武のサンドイッチはポテチついてくるのがとてもいい。
で、ボラーニョの『アメリカ大陸のナチス文学』を読んだ。今日もダメで。全然集中にならない。イヤホンする気も起きないからなんかほんと詰んでる感あるというか、『アメリカ大陸のナチス文学』はたぶん何十人にも及ぶ小説家だとか詩人の、伝記的な記述によって構成された小説っぽいけれど、だから一人2ページくらいから10ページくらいまでという断片の集まりで、そういう作りのせいもあるのかないのか、ともかく全然集中にならない。他の席の男や女が抹茶オレとか頼んでるのばかりが意識に入ってくる。
珈琲西武はとてもいいのだけど、俺がダメで、ここではないどこかに行きたくなるというか、ここではないどこか的なものに触れたく、もちろんあきらかに『サウダーヂ』の影響なんだけど、それで先日『スペクテイター』のノンフィクション特集でなんかそんなやつ紹介されてたよな、なんだっけな、どっかで若者が野垂れ死にしてそれを究明していくみたいなやつ、と思い、時間は10時、近くで開いているのはブックファーストのコクーンタワーのところで23時まで、というので珈琲西武を辞した。
ブックファーストでまず『スペクテイター』を探し、紹介されていたページを探し、『荒野へ』というタイトルで集英社文庫ということがわかり、文庫の棚に向かい、集英社文庫のところを探し、集英社文庫ってなんかのっぺりしたデザインで魅力的じゃないよなーと思いながら、探していたそれを見つけ、買う。
帰り際、ポテトチップス(うすしお)を2袋買う。「あとは全部俺の時間」みたいなことを思いながら(それまではなんだったんだという話だけど)、ビールを開け、ポテチを開け、飲み、食い、本を読む。ビール3缶、ポテチ2袋、柿ピー1袋。これが私の晩餐。
『荒野へ』は裕福な家に育って学もあって運動も立派に出来てという大学を出たばかりの若者がアラスカの山奥か何かで餓死したという1992年の出来事について書かれたノンフィクションで、今読んでいる印象だと若者はずいぶん高邁な理想を持っていたんだなーというところで、高邁な理想でも変わった思想でもなんでもいいけれど、それを持つ分には誰がどんなものを持っていようがいいと思うのだけど、それを人に強要するあるいはその主義を共感・実践しないものを下等なものとして見る、みたいな態度を取る人は僕は本当に嫌いで、この若者に関しては若干その傾向があるようだ。80歳のおじいちゃんに、「これからも、こういう生き方をつづけて、そのために、神がぼくたちに発見させようと配慮してくれたすばらしいものを、あなたはなにひとつ発見できないのではないかと思います」とか言うわけで。まあそのおじいちゃんはそれで素直にも放浪の身になるというからすごいのだけど。
そういうわけで、ここではないどこかを求めてアラスカに行った若者はアクシデントがあったっぽく餓死してしまうわけだけど、その彼について作者クラカワーがこう書いている。
「ジェームズ・ジョイスが若い芸術家スティーブン・ディーダラスについて書いたように、「彼は孤独だった」。「誰にも顧みられることなく、幸福で、しかも、生命の野性的な中心部の近くにいた。孤独で、若くて、気ままで、野生の心をもっていた。はげしい風や半塩水や、貝や、海藻などの海の幸や、ヴェールをかけたような灰色の陽の光にたっぷり恵まれながら、孤独だった」(ジョン・クラカワー『荒野へ』P55)
続いてこうある。
「彼は晩餐の残骸を酔った目で見回すと、「寝落ちする前に歯を磨かなきゃ」と思った。夜は歯磨き粉をつけないようにしていた。そのあと寝そべりながらウイスキーを飲む際に邪魔になるからだった。しかし実際には無意識で歯磨き粉をつけてしまうことがしばしばあり、口に入れて初めて気づき、悔いるのだった。この夜もそうだった。「いつも後悔しかない」。浮かんでくる過剰にネガティブな考えがほとんどなんの意味もなさないことは知っていたが、それを確認するためにも彼は「いつも後悔しかない」と口に出し、そして耳で聞き、笑いをこぼすのだった。「うっせーバカが、死んどけ」と彼は、言ったか思ったかした。」(同上)
「スティーヴンはみんなに見られて赤くなり、こういった。
――しないよ。
ウェルズはいった。
――おい、こいつはねるまえにおかあさんにキスしないんだって。
みんながまた笑った。」(P26−27)
ハンドクリームは塗り忘れた。