『若い藝術家の肖像』を読む(25) P13、話者「ぼく」についての驚くべき事実

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話者「ぼく」について気になったというか、気にはもちろんなったけどどう気になるというか「ああ、「ぼく」なんですね」くらいの。「ああ今は「ぼく」で、あとからなんかどうせ話者きっと今のままじゃないだろうから大人というか青年になってというか、若い藝術家のとかいってさすがにこの「ぼく」のままというか幼い「ぼく」のままではいないだろう、それはさすがに若すぎだろうっていうか幼さだろうみたいなそういうのありますよね」ってそういう感じあって。だからきっと表記は変わらないかもしれないけど少なくともひらがなで話し続けるようなふうではないだろう僕になったり漢字使ったりするだろうっていうかそうじゃないと読み続けるのそうとうしんどいよねっていうかこれ600ページとかあるやつだよねってそれは思って、だからどちらかというと「うしもうもう」と「くいしんぼぼうや」が原文だとどうなってるんだろうっていう興味で先日Amazonで落としたやつを、Kindleにて拝見、ていうところで、Kindleアプリを開いたんですけどっていう話を今から書きます。
うしもうもうとかって言うけど英語っていうか原文だとなんなんだろうなっていうか、訳者であるところの丸谷才一はどういったところからこの文章をひとまず幼児言葉というか幼い言葉で訳すことにしたんだろうな、それはうしもうもうが関わってるのかなっていうかもしかしたらワンスアポンアタイムがその調子を惹起するものなのかな、だとしたらというかだとしなくてもいいんですけどワンスアポンアタイムでありむかしむかしでありの系譜であるとか歴史であるとか起源であるとかを調べてみてもいいのかな、でもそんなに寄り道するのも面倒かもなとか、そんなふうに思いつつ先日Amazonで落としたやつをKindleにてっていうかちょうどつい先日Mac版のアプリが使えるようになりましたーみたいなやつを見かけて「あ本当だ使えなかったのにこれなら読める」っていうので希望?みたいなの湧いたりっていうほど希望ってことでもないんですけどそういうのがあって、で、Mac版Kindleアプリをっていうかいちいちこれらってアルファベット使わないといけないのかなっていう疑問というか違和感というかっていうのは当然あるんだけどマック版キンドルアプリって、うわもっさりするなー一気にっていう、それもまた偽らざるっていうか偽る必要全然当然ないんですけど、あって、そういうやつ、違和っていうか、違和感を感じるっていうことを平然と言っちゃう人に出会うと一瞬「あ」とか思っちゃうんだけどでもそれって狭量というかそのくらいオッケーにしとかないとむしろ苦しいぞ俺が、みたいなところって十分承知してるからまあ違和感感じるでも全然なんかオッケーだよねって思うようにはけっこうそれはグッとこう、ハンドルをっていうか急ハンドルっていうかそれなり直角くらいのっていうかだいたい左折って、いや別にこれ右折でもいいんですけど右折だとやっぱり対向車とかっていうのが気になるっていうか左折だとしても横断する歩行者なり自転車なり気にしなきゃいけないからどっちにしても何かしら気にするから左折が優位ってことはないんけど右折なり左折ってやっぱり基本的に90度っていうか直角多いよねっていうのでだからそういう直角を曲がるぞ、なんならもっと曲がっちゃうぞ、くらいのハンドルの回し方して違和感を感じるを是とするみたいな言い聞かせっていうほど力みはないんですけどそういうのってややあって、できたら違和を感じるか違和感を覚えるって言ってくれたら俺なにも思わなくていいんだけどなっていうかそんなリクエストを他者にはできないなっていうか傲慢だぞみたいなところもやっぱりあって、っていうところでキンドルっていうかKindleアプリを開きましたっていう話を今から書くんですけど。
っていうところで開いたんだよね、Kindle、なんて書いてあんのかな原文、って。そしたらもう完全に愕然で、って俺うしもうもうとくいしんぼぼうや見に来ただけなのに、根底?みたいなところでひっくり返されるというかもう全部持っていかれたというか、主語「He」なんですよ。「I」じゃないんですよ。ぼくじゃなくて彼なんですよ。彼なんですよ。丸谷才一なんでそこ「ぼく」になったの…!っていうところでもう完全に度肝を抜かれたというか、もちろん考えあってのことだろうし別に僕はというか俺はこれを翻訳の正しさっていうか適切さみたいなものをジャッジしたいとは思っていないし英語中学生から高校一年生くらいのレベルくらいしかできないからそんなことそもそもできないんだけど、それにしたって、っていうところでめちゃくちゃ驚いちゃって、っていう話を今から書きますっていうか書きましたっていうことが今書かれたというか打たれたっていうのがあってっていうところで。
(というのがチェルフィッチュの『三月の5日間』を見た直後の完全にそのトーンの影響下で書かれた。DVDでの鑑賞含めもう10回くらいこの芝居を見ているんじゃないかと思うのだけど、言い過ぎたかもしれないけど、何度見てもおそろしいほどにアクチュアルでプレシャスで。超リアル日本語とか、実際いま模倣しようとしてやったけれども、それで岡田利規はもうそれをほぼ手放したけれども、チェルフィッチュのというか岡田利規のすごさって全然そんなところに要約されるものではまったくないんだよなっていうのはこれは10年前からそう思っていることだけれども、10年前は言い過ぎかな、いや言い過ぎじゃないかな、そう、とにかく、この演劇は僕には生きていく上で本当に必要と思える稀有な作品だ。稀有なんてかっこつけた言葉使いたくないような作品だ。要は大好きなんです大好きすぎて頭おかしくなりそうですっていう愛の告白をおこないたいということだ)