宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店)

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7月5日(日)
少し雨が降っていて、蒸し暑くて、汗ばみながら、歩いて帰る。考え事をするにはちょうどよくて、といっても考えているのは主にNotionのことだったが。なか卯に寄ってご飯。『Number Web』を読みながら。それで帰って、シャワーを浴び、他のことをしようと思ってパソコンを開いたらまたNotionの気になるところをいじっていて、際限がないな、と思ってChromeを落とした。死に山死に山、と鼻歌まじりに本を取ろうとしたら、リュックの中にない。持って帰ってくるのを忘れた。なので寝床にすんと横になって、『傷を愛せるか』。読むとすぐに、静かな気持ちになる、「完璧なエッセイ」という言葉が浮かぶ。バリで案内人役を買って出ようとする青年と話していたら青年は自分の生活のことをとつとつと語りだした、寺院に行ったらついてきて、そして祈りを捧げてくれた。
誰かが自分のために祈ってくれるということがどれほど心を動かすものなのかを、わたしはそのとき初めて知った。日本でもお宮参りなどビジネス化された祈祷はたくさんある。けれども、頼んだわけでもお金を払うわけでもないのに、純粋に心からだれかに自分の幸せを願ってもらうということ、その事実と時間がどれほど「有り難い」ことか、そして勇気づけられることか、そのとき気づかされた。
トラウマを負った被害者が回復し、自立した生活を取り戻していく際に、「エンパワメント」が重要であるということはよく知られている。「エンパワメント」とは、その人が本来もっている力を思い出し、よみがえらせ、発揮することであって、だれかが外から力を与えることではない。けれども、忘れていた力を思い出し、自分をもう一度信じてみるためには、周囲の人びととのつながりが欠かせない。 宮地尚子『傷を愛せるか』(大月書店)p.45
フヅクエのことを考える。「祈る」も「勇気づける」も「エンパワメント」も、原稿のどこかに書いた言葉だった気がして、だからここはフヅクエのことが書かれている、と思って読む。フヅクエがしていることも祈ることだと思う。本を読む人たちのその時間の成就を祈り、勇気づけ、エンパワメントすること(エンパワーする? いつもわからなくなる。わからないなら使わなければいいのだが、この言葉特有のニュアンスがある気がして使いたがる)だと思っている。周囲の人びととの無言のつながりというかともにある感覚を通して、ひとりではあっても独りではない、ということを思い出すこと、読書というシンプルな行為のその体験をよりリッチなものにすること、そして読書がもっと楽しいものになることを、手伝うこと。
お祈りしながら寝た。
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