「そして今の僕はこのあり方を信じ切ってさえいる」と昨日書いたけど、あとで少し考えていたら「ほんとかよ?」と思ったというか、ぜったい嘘だね、と思った。
たぶん、現在への信任を強調しておくことによって、そのあとに続く「いつか起こるかもしれない変節の肯定」みたいな展開がより際立つみたいなそういうあれ、魂胆とかそういうやつだったんじゃないか、どうか。どっちでもいいけれど、信じ切ってなんかいない。
正しくは「このあり方を信じ切れたら最高なのでそうありたいと強く願っている」という感じだろうか。「このあり方でオッケーであってくれ、オッケーだと言ってくれ、世界…!」みたいな感じだろうか。そもそも「あり方」とか言っても漠然としたもので、いったい何を対象にして考えているのか自分でもわかりきってはいないのだけど。
なんにせよ、信じ切るというほど天真爛漫な思いで日々を暮らしているわけではないということで、この感じでいいのだろうかと悩んだり迷ったりして鬱屈とした気分を抱えながら「今日はひたすらに酒が進むぞ」みたいな夜もあるし、様々な強烈な音声を発する衝動に駆られる夜もあるし。生きている以上どの方々もみなそんなものであろうけれど。
で、閑話休題というか上の話は上の話で下の話は下の話なんだけど。
そういうなかで今日なんかはまったく無駄にとても早起きしてしまい、早すぎて昼くらいからすでに眠いので早起きも良し悪しなのだけど、午後は全部店の用事とは言え自転車でプラプラして、なんというかそういうのって気持ちいいなと、どこかからどこかへ動くのって。とか言って、それで店行って準備してたりしているといつにも増して爽やかな気分というか、健やかな気分というか、「なんか今日はいいことありそうだぞ♪」みたいな気分になるからすごくよくて。
でもふと気がついたのだけど、それはすでに起きていたのではないか?いいことがありそうと予感できること自体がいいことの実態として体験されていないか。いいことを予感させる爽やかで健やかな気分それ自体がすでにして十分な報いではないか。
いいことの発生を曖昧に未来に先送りさせるのではなく、たった今そう感じているそれ自体をいいこととしてもっと強く意識するべきではないか。
「あらゆることは人間にとって、まさしく、まさしくいま起こるのだ」
ちょうど今朝読んでいたボルヘスの『伝奇集』の中にこんな一節があった。
これまでの話と関係あるのかどうかまるでわからないけれども、というか絶対違うだろうけど、とにかくいま起こるってボルヘスさんも言ってるし、先日書いた消費と浪費の話ともちょっと関わっているような気がするのだけど、僕ももっといまこの足元で感じる喜びを意識しようと、ちゃんとそのつどいまを味わおうと、そう思った。つって。気持ちわる。我ながらというか我だからこそ気持ち悪い。この健やかさはすべて寝不足のせいであってほしい。でもこういう健やかメンタリティ多分わりとけっこう持っちゃってるんだよなあ普通に多分、知らないけど。
ボルヘスさんはこうも言っている。
「地上のどこかに、あの光を発する人間がいるのだ。地上のどこかに、あの光そのものである人間が存在しているのだ。」