本の読める店

読書日記(115)

Entry diary115

12月8日(土)

メニューに72万円みたいな数字が書かれていて、その日本酒を同席していた少し年上の男性が頼んでいて、すごいなと思った記憶があった、出たあとに言うと、あの銘柄は10万くらいするのは他の店でも全然あるからね、と言いながら持ち帰ったらしいその日本酒を瓶から直接飲んでいて、いや10万でもとんでもないけど72万円ですよ、と思いながら、特に何も返さなかった、居酒屋は駅の地下の構内みたいなところにあったらしく、そういう空間にいた。

朝、起きてから、なんとなく悄然としている、微妙な自己嫌悪のようなものにまとわりつかれている、自分は傲慢で横柄で、特になにもない、面白くもなんにもない、それでいて傲慢で横柄とかなんか最悪な感じがする、いくら面白かったとしても傲慢で横柄は避けたいところだけど、輪をかけて最悪な感じがする、という方向性の自己嫌悪だった、あくまで方向性で、そこまでは思っていない。
昨日文字起こしを終えて山口くんに送り、ということをやっていて、どうも、そこで起こされた自分の発言が、年上風を吹かせているような感じがあるような気がしたのか、それとも先日の忘年会のときのいくつかの自分の言動が、なんだか嫌な後味として残っているのか、合わせ技だとは思うけれど、なんとなく気が悄然とする。つまらない退屈な存在が、なんのつもりなんだろう、というような、方向性の。

『ヒロインズ』の訳者あとがきを読む。

従来的なジャンルにとらわれていないこともまた抵抗のひとつの形ではあろうが、あえて言うならこの本は「抗って書く」ということを全体として表明し、宣言しているマニフェストと言えるのかもしれない。(…)
私自身は本書を訳しながら、社会や周囲の環境が(そしてそれを内面化した自分自身が)「こうあるべき」とする姿のなかに、自分が消えてしまいそうになったことのあるすべての人たち、それに抗いながら生きるさまざまな「私」たちのことを思った。謝辞にあるザンブレノの発想を借りるなら、そんな「あらゆるジェンダーの私の姉妹たち」のもとに、この本が届いてくれることを願っている。 ケイト・ザンブレノ『ヒロインズ』(西山敦子訳、C.I.P.Books)p.405,406

抗って書く。読み、コーヒーを飲み、開け、コーヒーを淹れ、日記の推敲をしていた、珍しいことに予約のひとつもない土曜日だった、こういう日はどういうふうになるんだろう、と思って開けたら、誰も来なかった、1時まで誰も来なくて、これは珍しいことだった、おかげで日記の推敲の赤入れまでは一気に済んだ、赤入れをして、エディタ上で修正して、というのが段取りだった、でもこんな「おかげ」は望んでいなかった、さみしさわびしさが募った。2杯めのコーヒーも飲み終えてしまった。

一日暇で、一日むなしかった。むなしさに抗えなかった。

途中、昨日の夜から読み出した平出隆の『私のティーアガルテン行』を開いていた、開き、数行読めば、すっと気持ちが静かになるようだった、中学時代に数学にハマっていたという話の中で数学者の話の中で「不遇」という言葉が出てきたが、今まで考えたこともなかったけれど、「不遇」と「不幸」をほとんど一緒に僕はこれまで考えていたような気がした。不遇な人生を送った人は不幸だったと、考えていたような気がする。はたしてそうか。発表されるめども立たない、支援してくれる人もあらわれない、それは嬉しいことではないだろうけれど、人というか社会に求められもしないことをただやり続ける、ただ個人の欲望に従ってやり続け、やり通した人とも言える、それは、このうえなく幸せな人生だったかもしれない、没頭し、没頭し、没頭する、幸福な不遇を生きた人もきっといくらでもいただろう、そう初めて思った。

帰って、気持ちは沈んだままだった、平出隆を少し読み、それから久しぶりにプルーストを開いた、飲酒、飲酒。まだ劇場にいた。それはそうだ、範宙遊泳を見た日以来開いていなかったのだから、動くはずもない。ラ・ベルマ。それに感嘆する。いきいきと目に頭に流れ込んできた。久しぶりのプルーストというのはいいものだ、久しぶりだからいいのではなくいいところだったからいいのだろう、年末年始はプルーストを主に読むことにしようかとも思ったし、それはそれで疲れるかもしれないとも思った、年末になる。例年年越しは、これを読むぞ、というのを定めて、読もう、というふうにしていたが、今年はその欲求が薄いというか、そうじゃなくてもいいかなと思っている、いつもどおりに、そのとき読みたいものを読めばいいかなと思っている、考えは変わるかもしれない。

強く個性的な人物や作品と、美の観念とのあいだにある差は、それらの人物や作品がわれわれに感じさせるものと、恋愛や賞讃の観念そのものとのあいだにある差と同じほど大きい。だから、そうした人物や作品は認められにくい。ラ・ベルマを最初にきいたとき、私には快感がわからなかった(ジルベルトを愛していたとき、彼女に会うことに快感がわかなかったように)。私は内心でこういったのだ、「僕は彼女に感心していないのだな。」しかし、そうはいっても、そのとき私はこの女優の演技を深く知ろうとすることしか考えていなかった、私はそのことにしか執心していなかった。私は彼女の演技にふくまれているものをすべて受けとめるために私の思考をできるだけゆったりと開放しようとつとめていた。それこそまさしく、賞讃する、という行為なのだ、といまの私には納得が行くのであった。 マルセル・プルースト『失われた時を求めて〈4 第3篇〉ゲルマントのほう 1』(井上究一郎訳、筑摩書房)p.77

読む時間、書く時間、考える時間。

12月9日(日)

昨日が劇的に暇で、
「なんだ」
と思ったが、金曜日が妙に忙しかったことを考えると、数字をそれぞれ入れ替えたら順当というか歓迎すべき金土と言えるから、そう考えることにした、そう考えることにしたというか、そう考えたらちょうどいい、ということが判明したためそうした、そう考えたらちょうどいいというか、そういう考え方もある、という気づきを得たためそれに従った、従ったというか、特に昨日の暇で元気がなかったわけではないから、なんでもよかった、どうでもいい。「どうでもいい」は、言い過ぎというか実際の気分に対して過剰な投げやりさが出てしまう、特にどうとも感じていない。

日曜日、開店前、元気なし。ミュージックセイブミー。俺に元気をくれよと思い、ZAZEN BOYSを大きな音で流しながら準備。ミュージックセイブミー。「Asobi」を聞いた、まだまだ遊び足りない、女っぽい男っぽい女っぽい女は言った、だっけか、向井秀徳が見せ続けてくれる態度は完全に僕を救う。
そののち、最近はインスタグラムが興味がなくて投稿頻度も下がっていたが、投稿をしようと思い『すばる』と『ソトコト』の写真を撮って、ご活躍感ありますでしょう、という投稿をしようと思い、写真を撮っていた、『ソトコト』の表紙に「〜〜に出会う本屋ガイド」という白い丸に囲まれた茶色い文字があり、最初の2文字が読めなかった「宮城?」と思い、もう一段目を細めると、「営業?」となり、近づくと「言葉」だった。宮城、営業、言葉。たしかに、という2文字だった。
この数日の気持ちの不調は、いくつかある気がする、そのひとつが今回の『すばる』と『ソトコト』で、それが僕をいくらかアンバランスな気持ちにさせているような気がする、なんせこんな大きく取り上げられたのは初めてで、それが2誌同時なのだから、なにかを感じることは、しょうがないことだろう、このうぶな感じは、ありなうぶな感じだろう、最初のうちは雑誌であるとかで取り上げられるたびにいくらか「お〜」という気持ちと同時になにか変な自意識みたいなのが前に出るようなそういう気分があった気もするが、そういうことにも慣れてしまえばそういうことでそういうことになるようなことはなくなった、でも今回はそういうふうにいくらかなっている、なんせ立派な2つの雑誌で、フヅクエならまだしも、「阿久津隆」が11ページにも渡って取り上げられているというのは、おかしなもんでしょう。俺なんてなんでもなかったはずなのに、まったくなんでもなかったらきっと取り上げられるものではないだろう、だからきっとまったくなんでもないわけではないなにかになりつつあるのだろう。それは、揺らぐよね。そう思ったら、戸惑うよね。とは思う。妥当。
それからもうひとつふたつ、この不調の、そのひとつは『ヒロインズ』の影響だろう、抗って書く人の物語だった、なにか、響くところがあるのでしょう。あがいてあがいて、叫びながら書く人の物語、なにかあるよね、ストリートファイトを、繰り広げるよね。それがふたつめの候補。候補というか、混じり合っている。
そういうだから総じて、自意識みたいなものといくらか向き合うというか自意識みたいなものがいくらか意識に上がってくるそういうタイミングで、最後の三つめ、先週飲んでいるなかでふいに脈絡なくにわかに浮上した、文章を、俺個人を、課金対象とする、という考え。自意識と関係しないわけがないことだった。
でも不思議なもので、不思議というか、店というペルソナというかペルソナとは言わないのかな、店という鎧というか上着というか、そういうものの心強さみたいなものって、あるのだなということが、こういう個人で云々、個人の名前で云々、ということを考えてみると改めて、浮き彫りになって知れる。フヅクエという箱、人格を通してなにかを発信する、なにかを誰かに売りつける、そのときの心理的な障壁の低さ、一方で僕の名前で僕の僕を僕が僕と僕に僕で僕は僕が僕と僕に僕で僕を売る売ろうとするそれを考えたとき、いよいよもって裸だなと感じるこの感じ方。おかしなものだなと思う。おかしいというか、興味深い。それに、自分の文章を売る売ろうとする、そのときの心理的な障壁もまた違う、本を出した、それで得る金、連載をした、それで得る金、寄稿をした、それで得る金、そういう金を得る体験はしてきたはずだが、そのときはそれぞれに、あなたの文章いいから本にしようよと言ってくれる人、あなたの文章ナイスだから連載してよ、うちに原稿書いてよ、そう言ってくれる人がいるわけで、僕の文章の価値みたいなものを支えてくれる擁護してくれる人がいるわけだった、それが一方で僕の名前で僕の僕がと僕僕いいながら誰のしもべにもならんのだよと言いながら、やろうとすること、一人、自分の足で本当に立とうとすること、その怖さ、恥ずかしさ、そういうものがあるのだなと、これまた興味深い。どうするんだろうか、やるんだろうか、いろいろを天秤に掛けて、考えることになるだろう。

疲れた、忙しかった、疲れた、眠りたい、帰った、平出隆を一編読み、それからプルースト、やっと劇場は出た、何ページも折った、その折った箇所をいくつも引用したいなと思ったとき、「でもそんな時間はないな」と思っていて、ぞっとした。何に追われているんだ? ウイスキーを普段よりも多く飲んだ。

12月10日(月)

少し二日酔い的な起き心地。午前、取材、午後、営業。暗澹。鬱屈。悄然。

夕方、逃げるように店を出、山口くんに託し、出、ドトール。サンクチュアリ。ドトールかよ。と思わないでもない。おいしいコーヒーが飲みたい。全部が自分に敵対しているように感じるから、全部に敵対する気持ちになる。たとえば今そこで電話してる女。さっきからうろちょろしてる男たち。
めんどくさ。「さっきからうろちょろしてる男たち」は、最初は特になかったが、はじめに「女」と言ったので、これだけだとなんか性別による蔑視感出るかなと思って、男も加えとこ、というそういう男たちだった。なんていうの、ポリティカル・コレクトネス? アファーマティブ・アクション? どっち? どっちでもない? あそう。そう打っていたらスケボー持った男たちがいよいようろちょろ顔のわきをかすめるように速い速さで何度も歩いていくから、今だったら素直に言える。全部に敵対する気持ちになる。たとえば今そこで電話してる女。さっきからうろちょろしてる男たち。僕が立派な武術や喧嘩術を備えていて負ける気配がないことが確信できるそういう存在であるなら、ぶん殴りたいあるいは蹴り飛ばしたい。できない。

全体がくだらない。価値がない。僕の生が。これは「しもべのなま」と読む。

体も敵対してくる。手。あかぎれ。ハンドクリームを塗るようになったらよくなった、と思っていた矢先、この週末でまた壊れた。アトピーもよくない。結局というかそれが一番大きいのかもしれない。全部に影響を与えてはくる。

がんじがらめという感じがある。つまらない。イライラする。目をつむる。つむって、逃がそうとするが、逆効果、イライラが内面化されていく。平出隆を開く。読んでいると、そういえばこれまでも違和感というか「おや?」というか、「おや?」になる以前の、「なにか」みたいな感じがあったが、ルビが見慣れない振られ方をしていた、肩付きというやつだろうか、漢字が一文字でルビも一文字のとき、なんというか、乗数というのか、二乗とかのやつ、xの、二乗とかのやつ、ああいう位置にルビがついていて、たぶんわりと見慣れないタイプのルビだった、これはこれでなにか品のよさみたいな、なんだか凛とした感じがあっていいものだなと思った。読んでいると、すっと、いつでもすっと、気持ちが静まる優しくなる丸くなるようで、棘が取れるようで、とてもいい。

ドトールは寒い。あたたかくする理由もないのだろう。寒くなり、時間もそろそろだしというところで店に戻ると、山口くんが店番席に座って本を開いていた、蔦屋書店のブックカバー。『マーティン・イーデン』だろうか。その、本を山口くんが読んでいる、という様子を見たときに僕にとっさにやってきた気分は「お、いいじゃんいいじゃん」というもので、なんなんだろう、この感覚は、と思った。
7時、山口くんアウトで、外で、もうちょっと声をはっきり出したほうがいい、今の声だと、やっぱり注文とかもコソコソじゃないといけないのかなと思われかねない、どのくらいの声を出すことが許されているのかわからないと思う人もいるようなたぐいの店だからこそ、こちらの発話でその基準を知らせるというかある種のデモンストレーションの意味も大きくあるから、出したほうがいい、という有意義な指導をしていたところ、久しぶりの友人が上がってきて、お、どうもお久しぶりです、と言いながら、どうしてだか、山口くんはリーボックで、村下さんはアディダスねと、二人の上着のブランドを考えていた。

昨日の日記を読み返して、恥ずかしいなこれ、と思った。消したいなと思うのは久しぶりだった、なにかそれは、いいことのように思った。
どうもその課金の話は僕はなにか羞恥心があるらしかった、

10人、20人、30人、50人、100人、200人、300人、500人、1000人、1300人!

ふと、実際いったいどれくらいでどれくらいの利益になるんだろう、と思い、スプレッドシートで計算式を作って登録人数を入れ替えて数字を変えていく遊びをしだした、最後の1300人はもう、どうしてしかし最後が1300なんていう半端な数字なんだろうか、ともあれ、もう、とんでもない売上が立つことが発覚した。妄想の中ではいつでもたくさん稼げた。

ここのところだいぶダウナーだったのか、メールもいくつも返していないものがあった、

返した

「デジタルゲームのプログラミングと異なり、アナログゲームのルールの裁定は人が担う。ゲームのルールは絶対なものに成りえない。ゲームのルールは——法は、人が運用することが前提でないといけない。だから、その法は運用しやすいものでないといけない。しかも、法を犯しても罰を与える力がない以上、法に従う事が魅力的なものとならなければならない。思わず従ってみたくなるような法。自分を縛ってみたくなるような法とは、どういった法なのか。」

ジエン社の、『物の所有を学ぶ庭』を見に行ったときに曖昧な次回予告として書かれていたテキストで、胸躍るものだった。思わず従ってみたくなるような法。

帰宅後、最近の暗鬱について遊ちゃんに話す。それから、平出隆。いちいちが魅力的だった。歌の話。中学生のとき、遅刻したら歌をうたうことにしたらどうか、という案を提案した。

この案が可決されると、一日二日は、効果があるかの様子見としたはずであるが、すぐに私は、歌う歌を決めてから遅刻をするようになったものである。クラスメートにもだんだん、故意の遅刻が分るほどになったかもしれない。しかしそれは、私だけではなかった。毎朝、友だちの歌を楽しめる日々がはじまっていた。
或る朝、とうとう女先生まで、わたし遅刻しました、と自己申告する事態が起り、教室は沸き返った。私は彼女がなにを歌うのか、どう歌うのか、どきどきしながら、この企画の成功をひそかに喜んだ。
それは「ワシントン広場の夜は更けて」という歌だった。ヴィレッジ・ストンバーズの歌を、日本ではダークダックスやダニー飯田とパラダイスキングが歌った。女先生は才気煥発な文学少女のあとを隠さずにいて、なにをやってもあたりの空気を切るようなスタイルがあった。私ははらはらしながら、先生の歌いだすのを待ち、そして聴いた。 平出隆『私のティーアガルテン行』(紀伊國屋書店)p.110,111

それから中学校のときの文集の話。これがとにかく素敵だった。先生たちの、素敵な文彩。紙とペンの前に向かうとき、教師である前に一人の人間になる、そんなことがある時期、可能だったんだなと思った。ある時期なのか、ある場所でなのか。生徒たちの言葉もまた、瑞々しく、率直で、透明だった。プルースト、寝。今日も一杯分の過剰飲酒。

12月11日(火)

少し二日酔い的な起き心地。午前、取材。
静かな取材だった、その中で、常連さんとかもいて、と聞かれて、それはなぜだかよく聞かれる質問だった、聞かれるたびに、え、常連さん、そりゃ、常連さんって言葉を使っては僕は考えないんですけど、たびたび来てくださる方はもちろんいますよ、と要領を得ないまま答えるのだが、なんとなく今日は「それってよく聞かれるんですけどどういう意図の質問なんですか」と聞いてみたところ、一回だけ来る人ばっかりで成り立っている店もある、みたいなことだった、ああ、なるほど、そういう、一度行ったら気が済んで、消費しました、完了、という店なのかどうか、と問われていたということなのか、と知った。
ひきちゃんが途中で「朝ご飯買ってきていいですか」と言うのでいいよいいよ買っておいでと言うとセブンでサンドイッチを買ってきた、サンドイッチも今はいろいろな形があるのねと知った、セブンがやっぱりすごい、そう言ったひきちゃんは冷蔵庫の前で食べ始めて、少しすると小走りで客席のほうに出ていったと思ったら、真ん中のソファにぽんと座って、そこで食べることにしたらしかった。そうだね、座って食べたほうがうれしいよね、そういうことは大事にしたいねと思った。ちょうど取材の方もお出ししたカレーとコーヒーを席で食べているところで、僕はやることもなく、二人の女性がそれぞれにご飯を食べているなかに、いた。
そのカレーとコーヒー代で1700円をいただく。1700円。これを今日の俺の昼飯代とコーヒー代にしようか、と思ったら、昼飯とコーヒーがタダで手に入る、と思って愉快だった、と、ひきちゃんが今月の福利厚生本の山口くん所望の本を買ってきてくれていて、そのお金が1728円で、困った、どうしよう、取材で得た1700円は、どちらに充当すべきか、俺の飯代か、本代か、どうしよう、と思いながら決めかねながら本代の1728円を払おうとすると、ひきちゃんは、今日の演劇代の差し引きで、といって、1000円を渡してきた、僕はいよいよ混乱した、ということは僕は今日は、1700円と1000円を得た、2700円だ、ということは今日の僕の演劇代がこれでまかなえる、あるいはこれから本屋に行こうとしている、飯、コーヒー、本、その金額に充当することもできるかもしれない、どれが一番お得だろうかと考えながら、ひきちゃんとしばらく話し、今日は昨日のような開店からのラッシュみたいなことは起きず、人が入ってくる気配もなかった、曇っていて寒い日だった、店を出て、丸善ジュンク堂の方向に走っていった、走りながら、昼飯をどうしようか、魚力で定食を食べたい気もしたが、「食べる時間がない」という、おかしな考えによって却下された、時間とはなんなんだろうか、なにがないのだろうか、なか卯に入って野球の記事を読みながらうどんとかき揚げ丼を食べておいしかった、丸善ジュンク堂に入って、本を探した、なんとなく日本の小説を読みたい気があった、多和田葉子のあたらしいやつを取った、それから昨日ブログを読んでいよいよ読んでみたい気になった、それは多和田葉子との対談を告知する、でもそれだけでない、そういう記事だった、「私の志はそんなに可愛げないよ」、鋭い言葉だった、読みたくなった、温又柔の本を読もうかと思ったが、まだやめた、それで、今日は多和田葉子だけでいいと思っていたら、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』の戦後編が目に入ってきて、気になってはいたが、なんとなく読まないような気でいたが、ふと、その前編である『ニッポンの小説』を読んでいた夜のことを思い出した、どうしてだか読んでいる場面で思い出すのは新宿のサザンテラスのスタバの外の席で、なんであれはあの場所がそんなに印象に残っているのだろうか、とにかく猛烈に面白く読んでいて、猛烈に楽しく読むことをしたいと思った僕はそれが今日は買われる読まれる本なのかもしれないと思って取って、レジに向かって歩きながら、『ニッポンの小説』は『ニッポンの小説』であって、あるいは『さよなら、ニッポン』の前編であって、『日本文学盛衰史』の戦後編の前編ではないというか『日本文学盛衰史』の戦後編の前編は『日本文学盛衰史』だよなということに、当然のことに、気づいたが、引き返しは、しなかった。
レジで、hontoのポイントが200ポイントとかあるが使うかと問われ、3780円だったので180ポイントを使ってもらうことにした、すると180円が浮いたことになって、だからフグレンのコーヒーのおかわり代がタダになった、と思い、ええと、総じて考えるとどうなるんだろうか、1700円をもらって、1000円をもらって、それから昼飯は1000円くらいかと思っていたがなか卯で690円だったので310円が浮いたことになるから、1700+1000+310+180ということでよいか? であるならば3200円くらいで、フグレンのコーヒーが400円くらいだから、足せば3600円で今日出した本代の3600円はきれいに相殺されてタダということになる。合っているだろうか。

フグレンは今日は今日も混んでいた、ソファは空いていなかった、まるいテーブルに座った、コーヒーをいただき、パソコンを開き、日記を書いていた、しばらく書いたら書いたので、多和田葉子を開いた、一編、読んだ、面白かった、それから高橋源一郎を開いて、一編、もう一編、読んだ、面白い、shing02とサルトル、ちょっとなんだかこの勢いに怒涛にドキドキする感動する、大切なのは全面的アンガジュマン、大切なのは全面的アンガジュマン。

って、みんな首を振り、腕を突き上げて、アンガジュマン! アンガジュマン! って連呼するわけだけど、中には涙こぼしてるやつもいて、そんなところ死んだサルトルに見られたらどうしよう、むかついたらごめんサルトル、でもサルトルってエミネムと違ってけっこうふつうにいい人っぽいし、なんかじいちゃんに聞いたら、昔のパリの渋谷っぽいところのクラブに集まって一晩中騒いでたみたいだから、おれたちとたいして変わんないかもしれないし、全部誤解だとしてもいいじゃん、われわれが選ぶものはつねに善ってことで、 高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学篇』(講談社)p.54

全部誤解だとしてもいいじゃん。いいと、とても思うんだよね常々。貧しい痩せた正解より豊かな実りある誤解だと、常々思うんだよね。そっから飛ぶ、そっから飛んだほうがよほど面白い跳躍になると思うんだよね。多和田葉子と高橋源一郎を読んでいたら、なんだかなにかが書かれたがっているような気がしたが、もちろんそんなものはきっとなにもなかった、もちろん、もちろん? それはほんとうに「もちろん」なのか。短絡はしないほうがいい。

満足し、帰ることにした、出ると雨が降っていて、雨だ、と思った、帰り、今日の演劇である『ボードゲームと種の起源』のことを確認というか、見に行くと、これは「基本公演」というもので、来年5月にこまばアゴラ劇場で「拡張公演」がおこなわれるということが知れた、5月、駒場、あたたかくなり、あるいはもう暑かったりして、自転車で行くのだろうな、と思った。山手通りだか旧山手通りだかを走っている姿がもう、浮かんだ。
ソファに寝そべって高橋源一郎を続けた、武田泰淳の話、内田裕也の話、ツイッターの話。眠気がやってきて眠ると劇場らしきところにいて、階段を何度も行き来して、それから外の広場に出たりしていた。起きると遊ちゃんが帰ってきて、ダウンを買ったということだった、昨日ダウンの話をしていてダウンはいろいろあって面白い、いいやつはずいぶん立派な値段がする、そういうことを昨日言っていたら今日さっそくダウンを買った、セールをやっていたということだった、もうセールとかなんだ、といって驚いた、茶色い、あたたかそうな、軽い、ダウン。

家を出て、電車に乗った、電車はどんどん混んでいって、満員電車だった、多和田葉子の小説で電車に乗っていて、先頭の車両に乗っていた、運転士の動きや次から次へと前からやってくる景色を見ていた、気づいたら女性専用車両だった、気づいたら女になっていた、僕は最後尾の車両に乗っていた、遊ちゃんと話しながら、運転しない士の動きや後ろに流れていく景色というか空間を見ていた、駅について駅を離れると、明るいところから暗いところへ、見える見え方は切り替わっていった。
アーツ千代田3331は初めて行く場所だった、雨が降っていて、校庭みたいなところは高い木が何本もあった、入ると、入って廊下を歩くとひきちゃんの姿があった、やあ、と言って地下におりた、武田さんが来られなくなって、ご予約は4人ですねと言われ、一人来れなくなったんですけど、いや、払います、といったが、満席だったんですよね、次回からは連絡をくださいね、ということで、そうか、連絡をするべきだったんだな、と思いながら、次回とは、5月のことだろうか、と思いながら、まあ次回からは、と思いながら、いや払います、と言ったが、次回からは連絡を、ということだったので3人分のお金を払って入った、とんかつさんがいて、その隣が3つちょうど空いていたので、そこに腰掛けた、前回の公演と同様、始まる前から役者たちは舞台にいて、前回はチロルが勉強していた、たまに先生が来た、今回は4人が、座って、ボードゲームをやっていた、開演を待ちながら、いや、やっぱり払おう、と思って出て、やっぱり払いますよ、売上を損なわせたいわけではないから、ということを言うと、さっき当日で一人入ったので大丈夫だ、ということで、本当かな、まあ、それならいいか、と思って戻った。ゲームのルールが書かれているよ、ととんかつさんに教わって、読んでみた、読んでからいま目の前で舞台上でおこなわれているらしいゲームの様子を見たが、さっぱりわからないなと思い、思ってからとんかつさんに、ゲームの状況、もしかして追えてたりします? と聞いてみたところ、完全に把握しているとのことで、すげーなと思った。
で、始まり、演劇を見た。ずっと、面白かった。ずっと面白かった。全然なんの言葉にも対応しないような面白さでずっと面白がっていた。随所に、前作とも通い合うような、気持ちのいい、風通しのいい、やさしい、いい言葉があった。ドキドキするようなアンサンブルがあった。いい声があって、いい顔があった。大好き、と思って、終わって、トークだった、ゲームデザイナーの方と演出家の方が話していた、面白かった。ゲーム、法、儀式、見立て、演劇。
野球。
フヅクエ。

終わると、ひきちゃんがすたすた帰っていった、あれま、4人で俺、ボードゲームやりたかったな、コンビニでトランプ買って、なんか工夫したら、今日やられているゲーム、やれるかな、なんかやってみたいな、とさっきから思ってたんだよな、と思いながら、先々週の範宙遊泳を見たあとのすたすた帰っていった自分のことを思い出した。雨はまだ降っていて、湯島に、いいお店がある、たしか10時半くらいまでだからあまりゆっくりできないが、とんかつを食べながら一杯飲める、いいお店がある、ととんかつさんが言って、もうそれでしょう、というところで、そこに行った、入った瞬間にたしかにラストオーダーで、とんかつとふろふき大根と里芋を煮たやつと牡蠣のたたきであるとかを頼んだ、それからボードゲームの話とかをした。したというか、とんかつさんにいろいろ教わった。とんかつさんは、ボードゲームをつくる仕事もしているらしく、それを聞いてどうりでさっきすぐに理解していたわけだ、というのは腑に落ちたが、いまいちとんかつさんが何者なのかわからないというか、会うごとに、増殖というか変容というか、僕から見て、増殖というか変容というか、していく存在のようだった。それで、ほうほうほう、そうなのかー、面白いなー、と思いながら聞いていた。とんかつは、めちゃくちゃおいしかった。ビールを一杯と日本酒を一杯飲み、閉店時間になり、帰った。あとで調べたら「ますだ」というお店だった。また行きたい。

帰って、ひねり揚げを食べてウイスキーを飲んで、買ってきた上演台本を読んでいた、はじまりの複雑な、いきなりグワッとくるあの場面とか、あれなんだったんだろう、と思っていたが、読んだら、なるほどというか、やっぱりわかんない、と思って、読んでいて、やっぱりよかった。

12月12日(水)

暇。暇で、店の案内書きの新調作業をInDesignでおこなったりしていた、夕方までお一人しか来られなかった、まったく暇で、昨日も暇だったらしかった、まったく暇で、どうしたものかなと思いながら暮らしていた、夕方山口くんイン。それで、誰もいなかったからいくらかおしゃべりしたのち、いなくなることにして、ドトールに行くことにした。階段を下りるとちょうど床屋のおかあさんがいて、どこかに行こうとしているのだろうか、とにかく一緒に並んで歩きながら、話していた、昨日テレビで六本木の文喫のことをやっていたそうで、あなたのところと一緒ねえ、でもあなたが先でしょ、先見の明ねえ、もう何年になるんだっけ、じゃあ阿久津さんも5つ歳をとったわけだ、私はね、もう歳は取らないの、折り返したから、等々。公園の前のあたりで別れて、僕は果物屋に入って煙草を買った。
文喫は行ってみたい、仕事柄というか仕組み柄、気になる、想像がつかない、だから体験してみたい、そう思っている、なんだか妙に早く行ってみたい感じがあるのだが、最初は混んでいるだろうか、もう少し経ってからのほうがいいだろうか、どうなんだろうか。店は、できたてで行くものではない、できたてで行ってもいいことはない、というのが僕は基本的な考え方だが、それも個人店だったらの話だろうか、ちゃんとした資本が入っているところだったらその限りではないだろうか、準備万端でスタートを切りそうに、思えるから、そうかもしれないとも思うし、それでも人間がいることだから、やっぱりいくらか時間が経ってからのほうがいいのかもしれないとも思うが、どうなんだろうか。

4時間、ドトールにいた、4時間以上か。だいたいの時間は高橋源一郎を読んでいた、寒かった、4時間、ドトールにいた。こういうときの妙な後ろめたさはなんなんだろうと思う、妙なうっすらとした後ろめたさがある。サボっているわけでもないのになんだかサボっているような気持ちになる。この時間をもっと単純に楽しめるようにならないといけない。山口くんが完全に一人で立てるようになるまでは、こういう時間をとにかく設けていくことになるだろう、だから、楽しめるようにならないといけないし、もっとあたたかい格好をしなければいけない。
9時になり閉店時間になり、戻ることにしたが、こういうとき、店に戻るというのはなんというか変なバツの悪さがあるものだった、戻ると、暇そうだった、伝票を見ると、暇ではあったが、お客さんはあったらしかった、これ全部つつがなくこなしたんだな、と思うと、いいじゃんいいじゃん、と思った。
戻ってからも、やることがないから、読書を続けた、そうしていると左手の親指が支える紙の厚みがどんどん薄くなっていって、だからつまり終わりが近づいていった、そんで、終わった。

寝る前、多和田葉子。短編集、昨日読んだひとつめも今日のふたつめも読んでいて「一筆書きみたいだ」という印象というか感触があって、そういうふうに感じることは珍しいことというか新鮮なことだった。

12月13日(木)

平日の緊張感のなさたるや、と思う、特に今週なんだか強くそう思う、ほとんど働いていないような感覚がある、暇だからだろうか。昨日もおとといも過剰に暇だった、今日も暇だろうか、今日は夜で閉める日だった、今週は、今週の休みを決めるときに、ちょっとゆっくりする時間がほしい、どこにも行かずにただゆっくり本を読んだり、机に座ったりしているそういう時間がほしい、と思って、木曜の夜は休もう、と決めたのだが、昨日の夜にドトールで4時間も過ごすということが発生し、だいぶ満たされたというかむしろ持て余しそうな感覚がある、僕は休めない男なのだろうか。

男。午後、誰も来ない、もう2時になるが誰も来ない、閉店まであと4時間だ、まずいだろうこれは。男。やることもないから本を読もうと、先日飲んでいるときに名前が出て、それはそれはと思ってポチって翌日に届いていた『止めたバットでツーベース』を取って、開いた、近藤唯之、スポーツライター、野球の記者、の話が書かれていた、男、男、男とは、男の生きざま、たくさんの男の字にぎょっとしながら、胸が苦しくなるような熱くなるような、読んだ。彼の紡ぐ男たちの物語は、多くのシンパを生むとともに多くのアンチを生み、「血の付着した手ぬぐいがポストに投函される」までに非難もされた。猛烈な書き手で、これまでに60冊以上の本を出している。

「俺は一から百を紡ぐが、ゼロからは一も紡げない。だから小説家にはなれないんだよ。そいつらは『近藤はまったくのゼロから描いている』って言うんだけどよ、ゼロからじゃない。どこかに一か二がある。そこから俺は物語を描く。あれは嘘だと言われると困っちゃうんだよな。嘘じゃない。いろんな要素を繋いでいって……まぁ、確かに都合のいい部分も物語としてあるんだけど、頭の中でストーリーを苦労して繋げているんだよ。その部分を面白いと思うか思わないか。本当のことをそのまま書いたらこんなに楽なことはないよ。事実を繋ぎ合わせて、面白い、ひとつの物語を作り出すんだからね」 村瀬秀信『止めたバットでツーベース 村瀬秀信 野球短編自撰集』(双葉社)p.23,24

どこかに一か二がある、というのがとてもいい。
奇妙な熱のある味わいのある野球の文章を書く人というと、人というとというか、近藤唯之の文章がどういうものなのかは知らないし、読んだ限りきっとまた違うなにかなのだろうなという感じはしたのだけど、あ、違う、途中で何度か出てきた「独特な語り口ゆえに無記名の記事でもすぐに近藤その人が書いたとわかる」みたいなそういう話で思い出したのだった、そこで思い出されたのが安倍昌彦の文章だった、「Number」を読んでいても筆者の欄を見なくても読みだしたらすぐに「あ、これは安倍さんだ」と思うあの文章はいったいなんなんだろう……とたまに思う、面白いとか面白くないとかを通り越して、「安倍さんだ」とだけ感じるあの感じはなんなんだろう……とたまに思う、すごく、体で書いている感じがあって、変なんだけど、変な感触なんだけど、しるしが刻まれているというのはもしかしたらそれだけで十分に、いやもしかしてそう感じているその感じだけでそれ自体が賞讃になっているの、かもしれない、し、そうじゃないのかもしれない。

2時半。扉が開いた、とうとう開いた、と思ったら牛乳屋さんだった。次は「ヤクルト弁当屋」という、巣鴨の弁当屋さんで、どうしてだか「ヤクルトの試合を全部放送します」という宣言をしている弁当屋さんだった、初めての取材から二年、ヤクルトが優勝を果たした。

セ・リーグ優勝が決まった10月2日、午後10時2分。延長11回裏2死一、三塁から雄平のライト線を破る劇的なサヨナラヒットで、14年ぶりとなる歓喜の瞬間は訪れた。
その時、西巣鴨つるやのカウンターに置かれたテレビの前には、優勝を祝うために創業以来はじめてという"5人"の人だかりができていた。
5人は優勝の瞬間、弾け飛んだ。誰からともなくバンザイ三唱をするなか、道行く人が「よかったね」と声をかけてきた。都電から降りて来たお客さんが「優勝おめでとう」と次々に伝えにきた。 町の人は皆、知っていたのだ。この店がなんだか知らないが、やたらヤクルトを熱心に応援しているということを。峯岸さんは、胸が熱くなった。5人にビールを振る舞うと、鶏の唐揚げをつまみに祝杯をあげる。
店頭のテレビは、ヒーローインタビューからニュース番組をはしごしてのビールかけ中継。そして最後のプロ野球ニュースまでを映し出した。午前0時過ぎ。はじめて日をまたいだこの店のテレビが、優勝の余韻を残したまま電源を落とす。それは、つるやが始まって以来、最も幸せな夜だった。 同前 p.39,40

なんか、泣いた。涙がこみあげてきた。

3時半。2時半過ぎにおひとり来られ、よかった。『すばる』を読んでいる。古井由吉のインタビューを読んでいたら古井由吉を猛烈に読みたくなった。以前人に教わったのはなんだったか、読書メーターをさかのぼって見てみたところ『野川』だった、古井由吉ならまずは『野川』だよ、という『野川』だったはずだ、読みたい、朝は、今日は猛烈に読みたくなったのは『日本語組版入門 その構造とアルゴリズム』という本だった、何を知りたいのかわからないというか知ってどうしたいのかがわからないが、読みたくなった。
それから野村由芽、柴崎友香、滝口悠生と、インタビュー、ルポルタージュ、ルポルタージュと読んでいき、次の山崎ナオコーラのルポルタージュコーナーだがインタビューでもあった、HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGEの店長の花田菜々子さんへのインタビューで、読んだ、最後、震えた。

山崎「花田さん個人の野望についてお聞きしてもいいですか?」
花田「先ほど言い忘れましたが、本がヒットしてとてもよかったことは、まとまったお金が手に入ったことです。書店員として普通に働いているだけでは、貯金をしたり、開業資金をためることは無理だとあきらめていました。それは職業上の理由だけでなく、貯金ができない性格上の問題もありますが……。ところが大金が手に入ると気づいたとき、自然と『自分の店をやるためのお金ができた』と思い、そこではじめて『どうも自分は、お金があったら自分のお店をやりたかったらしい』と知ることができました。今すぐではないですが、店をやるのではないかなと思います。そしてそれがゴールとも思えず、今回の『本を書く』という一件のように、いつも意外な出来事に直面して思わぬ方向に流れながら生きていきたいです。帰る場所や、一生を添い遂げる相手や、将来の約束、安定した生活がほしいとはやっぱりどうしても思えません。でも何年か後にはそういう気持ちになっていても面白いし、自由に泳ぐように生きていると感じられる時がいちばん幸せです。本のヒットは客観的に考えてまぐれだし、一発屋になれただけで十分幸せです。作家としてやっていくという覚悟や信念は今はないです。本屋として働く日々のことや、新しい家族のあり方などについて、次の本を書き始めてはいますが、その山を乗り越えたときにまたその場所から考えたいです」 すばる 2019年1月号』(集英社)p.63

『当てたバットでツーベース』に戻る、面白い、でも読書にも飽きた、すぐ飽和する、夜、文喫に行こうかと昨日から思っている、一人で行くのかと思いきや、一人でなく行きたいらしく、遊ちゃんを誘った、予定があるとのことだった、それからまた友だちを誘った、予定があるとのことだった、どうしようと思っている、読書にも飽きた、倦んだ、疲れた、ここのところ僕は「なにかを書きたい」という気持ちがくすぶっている、今日なんかはその最たるチャンスじゃないかと思う、むしろそういう時間を作るために先週、今日は夜は休みにすることにしたような記憶もある、その最たるチャンスを、すぐに飽きる、倦む、疲れる男は、俺は、積極的にそうじゃない時間にしたがっている。
けっきょく「なにかを書きたい」なんていうのはなにも書きたくないということだった、というか、プロセスではきっとなく、得たいのは結果なのだろう、「なにかを書きあげたあとの自分になりたい」という欲望なのではないか、本当にそうか、言い過ぎではないか、わからないが、今のこの自分の様子を見ていると苦労してなにかを書きたいなんていうことはこれっぽっちも欲望していないのだろうなと思う、それこそ、指の動かない、文字の埋められていない、白々と光る画面の前で、5分でさえ座っていられないのだろうなと、思う。
一人の時間を作りたい、孤独が怖い、飽きる、倦む、疲れる。うん、わかった、それじゃあどうしようもないね。

6時、閉店し、結局4人、よかった。1人で終わると思っていたので、よかった。6時、閉店し、『当てたバットでツーベース』の「ヤクルト芸術家」を最後まで読む。凄い。
気分が暗い、重い、外に出る気もしないし六本木に行く気なんてまったくしない、けれど出て、行くことにした、行っても行かなくても暗いんだったら行って、もしかしたら明るくなるかもしれないほうに賭けたほうがよかった、それで向かって、六本木なんてどれだけ久しぶりなんだろうかと思いながら町の中を歩いているとそれだけで、やっぱり引き返そうかな、行っても即帰りそう、みたいな気持ちになっていく、「本」の文字が見えてきた、文喫があった。入った。入場料を払って中に入って、人はそう多くなかった、席はたくさん空いていた、静かだった、コーヒーをいただき、暑かったのと重かったので上着とリュックを脱ごうと、ロッカーがあったのでそこに入れて、それから棚を眺めた、ふむふむ、ほうほう、と思って、古井由吉は『辻』と『槿』の2冊があって、『辻』を取った、いやその前に、マグカップ片手で本棚の前をうろうろしていても本を取れないことに気がつき、飲み干すとカップを返し、それからデザインの棚に行って、そこで、このお店にはあるんじゃないか、と思っていたらあった『日本語組版入門 その構造とアルゴリズム』を取って、それから近くにあったフォント見比べ辞典みたいな本を取って、それから文芸棚に戻って、『辻』を取った、近くにあった滝口悠生の『茄子の輝き』を取った、それで、ソファを見つけてそこに座った、向こうが大きな窓ガラスの気持ちのいいソファだった、ほどよく音楽が聞こえてきた、音の分散というか消散というか雲散というかの仕方は大きな空間の強さだった、『茄子の輝き』を開き、文字を見て、フォントの本を開き、これかなあ、あれかなあ、と見た、結果、「秀英明朝 M」であろうか、というところに落ち着いた、それから『辻』を開いて見ると、同じフォントに見えた。どうだろうか。それから、『日本語組版入門』を読み始めた。どうして、どうして俺はこれを読んでいるのだろうか、と思いながら、読んでいた、俺は今日これを買って帰るだろう、と思いながら、読んでいた。文喫、とてもいいと思っていたというか、楽しい、これはいい、とてもいい、と思った。1500円の入場料を払うことが、とてもいい、1500円の入場料が、「本と出会うための本屋。」というなんていうの、コピー? キャッチフレーズ? を成立させようとしてくる、そういうふうに作用してくる。というのは、僕は本屋に行ってもそんなに回遊とかをせずに、目指す棚に行って目指す本を、その周囲を、見る程度、という見方で、買って帰ることになるけれど、入場料というものを払ったことによって、まず「ゆっくり過ごす」という気分が明確にできて、じゃあ、せっかくだからゆっくり本棚いろいろ見ようかな、という気分が生まれた。結果的にはわりとというかまんま、古井由吉と『日本語組版入門』という、今日欲していた本を取ってくることにはなったが、いつもよりもずっと他の本を見ていたような気がする、そして、読むかな、読まないかな、どうかな、という本を、席についてじっくりとためつすがめつできるというのは、もしかしたら蔦屋書店とかもそういう感じで使われているのかもしれないが僕はしたことがなかったので、僕にとっては新鮮で、よかった。じゃあ買うかどうかというとなんだか別問題になってきて、それはそれで僕は自分の感情というか気分の推移をどう捉えたらいいのかはわからなかったけれど、はじめての感覚が面白かった。
僕にとってはたぶんなによりよかったのは、「本を読みに行く」という遊び方というかエンタテインメントというかレジャーというかを提案してくれているように思えるところだったかもしれない。今日は、あそこで、なんかめっちゃ本読もう、であるとか、読み行こうよ、であるとか、そういう行動の提案を、こういうちゃんとした資本のある感じの場所がしてくれるということが、これが何よりも素晴らしいことに思えた、僕はずっと、本にまつわる業界というかに感じていた、作る、売る、まではしてるけど、その先のさ、読むっていうの、どう考えてんの、ちゃんと考えたことあんの、読むって、本にとってめっちゃ大事なことだと思うんだけど、どこまで真剣に考えてる? という、そういうことを思っていたが、それを、やってくれている、と思った、なんかとても、いいことだと思った。単純に僕の仕事というかフヅクエにとっても、そういう流れが太いものになったら、おこぼれをいただけるので、サンキュー、という気分もあった。
途中でチョコレートのタルトをいただいた、カカオニブが乗っていて、とてもおいしかった。途中で、後ろのテーブルのたくさんある喫茶室スペースから女性二人のわりと声高な会話が聞こえてきて、これまでがとても静かだったことが知れた、「それだったらそれだったでいいんだよ、でもメールのひとつでもほしいじゃん、そう、でもさ」と彼女らのうちの一人が言っていた。

組版組版、ふーむ組版、と思ったのち、少しフラフラしたところ遠藤周作の日記の箱入りの本があって、取ってきた、少し読んだ、箱入りの本を小さい机に置いて、横にはコーヒーの入ったマグカップがあって、という状況は少し緊張のあるもので、これ、汚しちゃった場合ってどうなるんだろうなと思った、あとで調べたら本はすべて買い切りで仕入れているという情報があった、どうするんだろうな。全体に、売り物の本を好きなだけ読んでいい、という状態は、それは書店でもそうではあるのだけど、好きなだけ読んでいいし、好きなだけ読む環境が整っている、その状態は、僕はいくらか後ろめたさがあるらしかった、自分のものでもない本をこれだけしっかり読んでいるとだんだん自分のもののように思えてくるところがあって、危うくページを折りそうになったりしていたから、自分のもののように思えてくるところがあるらしかった。
遠藤周作はすぐに戻して、古井由吉を開いた、いきなりすごかった。

深夜に風が出る。一吹き山から降ろしたように始まり、長い短い間を置いて寄せる。寝床から耳を遣っていると、風につれてあたりが昔の土地へ還っていく。畑がひろがり、藪も林も風に走り、平たく均された土地がゆるやかな起伏を取り戻す。荒涼感が極まって、長いこと避けて来たが落着くべきところに落着いたような安堵が、ないでもない。しかしかりに土地が昔へ還ったとするなら、たかだか何十年来の新参者は落着くどころか、ここにいないことなる。居を求める若い夫婦はまだここを尋ねてもいない。この土地のことも知らずにいた。あるいはまだ互いに出会ってもいない。ここで育った子供たちは、生まれていない。風が長く吹きつのり、居ながらの不在感は、なまじ居ることの自明さよりも身に染みる。長年ここに居ついてしまったという感慨が、まだここに到り着いていないような怪しみへ、振れる。 古井由吉『』(新潮社)p.12,13

めちゃめちゃにかっこいい。しかしこれ、まだ買っていないぞ? まだ売り物だぞ? 売り物を撮っていいのか? ダメじゃないか? ダメなことをしてしまった。
10時を過ぎた、3時間が経った、コーヒーは3杯飲んだ、そろそろ帰ろうと思って、『日本語組版入門』を買おうと思っていたが古井由吉を開いたら、いや、組版とか俺、関係ないでしょやっぱり、というか、喫緊のなにかが生じたときに買えばいいでしょ、という気になったのでやめて、それでじゃあ古井由吉、と思っていたが、開いたら、いくらか読んだら、どうもそんな気にならない気になっていった、読み疲れていることが影響している気がした、なのでやめることにした、買わないんだな俺、と思った。この2冊は、もしこれだけ読める状況でなかったら僕は買っていた2冊だろう。出版社としてはどういう感覚なのだろう、というのは興味があった、普通の書店に比べて圧倒的に吟味してもらえるというのは、吟味されてしまうというのは、うれしいことだろうか、それとも、さっさと買ってほしいというところだろうか、さっさと買ってくれなんていうことはとてももう言えない状況だろうか。もちろん、吟味されるチャンスを得たからこそ買われた、という場面はいくらでも生じるだろう。よしあしということだろうか。
それで手元に置いていた4冊の本を棚に戻しにいって、デザインの棚の前には閲覧席という席があって、12席のうち5席がそのとき使われていて、そのうち4人がパソコンをカタカタしていた、本を戻して、ロッカーに荷物を取りに行った、そのロッカーの横の本棚をふと見ていたら、時間、時間、時間、時間の文字が並ぶコーナーで、見ると、吉田健一の『時間』があった、なにか目が合ったような気がして、開くと、こうあった。

冬の朝が晴れていれば起きて木の枝の枯れ葉が朝日という水のように流れるものに洗われているのを見ているうちに時間がたって行く。どの位の時間がたつかというのでなくてただ確実にたって行くので長いのでも短いのでもなくてそれが時間というものなのである。 吉田健一『時間』(講談社)p.7

買った。出会い。結局、普通の書店でするような出会い方で出会った格好になった。
帰る際、雑誌の棚がなんかあれ、動かせるってツイッターで、とお店の方に聞いてみたところ、そうなんです、見てみてください、ということで、遊んだ。僕はてっきりなんか大掛かりに開くのかと思っていたのだけど、そうでなく、ロッカーみたいになっていて、雑誌が面で置かれているところひとつひとつに取っ手があって、持ち上げると向こうに関連する感じの本が置かれている、というもので、それはこれはものすごく楽しいな、と思った。出た。
六本木を歩いた、人が、知らない顔の人たちがにぎやかに歩いていた。夕飯をどうしようかと思いながら、ケーキしか食べていなかった、思いながら、電車に乗り込み、駅に着き、夕飯をどうしようかと、暗い気持ちだった、なにか暗い気持ちだった、一方で、文喫は明るい気持ちにさせた、僕はこのお店がその「本と出会うための本屋」というコンセプトに向けて純度をどこまで上げていくのか、興味があった、もし上げていくのならば、それはものすごく素敵な強度のある空間になると思った、とにかくこういう場所ができたことはいいことだった、また行きたいと思って、お腹が痛くなってきた、きゅーっとお腹が痛く、吐き気方向の感覚が襲ってきた、ビールと夕飯のポテチを買おうとコンビニに入ろうとすると遊ちゃんがいて、やっほーやっほー、と手を振った、水を買いに来たところだった、それで、腹痛の話と文喫の話をしながら、帰宅した。
文喫の話と遊ちゃんの今日の出来事の話をしながら、少しずつお腹が痛いのが消えていった、ビールを飲んで、ビールをまた飲んだ。夕飯はどうしよう、ポテチという気分ではない、と思い、もう12時は過ぎていた、外に出て少し歩いて、あたたかいそばを食べてまた帰った。それで、吉田健一を少し読む。

我々が時計を見て朝の十時であるのを知るのは用向きの上での意味しか持たないが光線の具合で朝であると感じるのは我々が朝の世界にいるのを認めることで朝の十時であるのはそれを知るもの次第であっても朝であるのは世界が朝なのである。又それが夜であっても昼であってもこのことに変りはない。それは時間の、それもその刻々の流れが世界に招来するそうした状態で時計の針だけでなく鳥獣、草木、気圧その他この世にあるものの凡ての動き、経過、推移がその流れをなしている。又朝というようなのは総称であって朝になれば山川草木がその状態にあるのであり、それが人間であっても生物である限りその変化を受けることは免れない。これは我々の体が我々よりも先に知っていることでこの流れの外に出る時に我々は死ぬ。それ故にこれは我々が生きている感覚とも繋がっていて夜が明ければ我々は朝になったと思う。 同前 p.11,12

12月14日(金)

夜が明ければ我々は朝になったと思う。どれだけ寝ても朝は眠い。トイレで『Number』を開くと、平成の日本シリーズの勝った負けたのページで2001年の近鉄ヤクルトの戦いのところで、第一戦のスタメンの名前がすごかった、真中満、宮本慎也、稲葉篤紀、古田敦也、石井一久。監督、ヘッドコーチ、監督、監督、GM。その前年の2000年の巨人とダイエーの写真は優勝してグラウンドを練り歩く巨人の人たちで長嶋監督を先頭に、桑田、松井、高橋由伸とかが先頭集団、その後ろに元木や清水の姿が見える、みな、客席に手を振っている、その中で一人、長嶋の後ろをあるく清原だけが、長嶋の後頭部あたりに視線を据えて、なにか悄然としたような呆然としたような顔つきでいる、ぎょっとした。もしかしたらただ激しく感動しているのかもしれない。
そろそろ体をしゃっきりさせたい。今週はちょっと漫然とというかゆっくりすぎる。働くモードにしたい。ならない。開店までポヤポヤと暮らし、開け、ポヤポヤと働く。
働きたい働きたいと思うが働くことがない。せめてと思ってごぼうをささがきにした。やること終わり。外で煙草を吸うたびに吉田健一を開くが、ものっすごい面白い。プルーストの話が書かれていた。

夕方、山口くんと交代するような感じでまたドトールへ退避。退避であり待機であり、金曜の夜だ、忙しくなってくれ、山口くんが俺を呼ぶくらいになってくれないと、だから、呼んでくれ、山口くん、呼んでくれ、と思いながら、今週は日記が妙に長くなったので見直すの大変だろうなと思ったためもう印刷して、それの赤入れと修正の作業をしていた、特に書く時に長さを気にする自制するということはしてこなかったが先日Webをやってくれている友人が2万字問題解決策がわかったので直しておいた、とのことで、常識的な範囲内でなら無制限で書けるはず、とのことで、常識的な範囲ぜひ超えてみたい! と思った、前に2万字を超えたときに更新できませんのエラーが出る、それを直してくれたようだった、そのため山口くんの話も前回は3記事に分けたが今回は1記事で一気に作れて、今回も、今日までで2万3千字になっていたそれも、今までだったら分割しなくてはいけなくなったところだけど問題なく更新できるのだろう、その長い一週間分の日記を手直しというか赤入れと修正の作業をしていた。時間が掛かった。
それが終わったら今度は『GINZA』の連載の、来月分のものをもう書き始めた。今号分のゲラ確認が昨日とかにちょうどあったところで、だから多分まだ校了にもなっていない、そのタイミングで勝手に書き始めた、本当は「次はこれで書きたいのですが」と伺いを立てて、編集部が判断して、という段取りだが、これまで立てた伺いが斥けられたこともないし、次はこれで決まりでしょ、どう考えても他の人と被らないでしょ、と勝手に思っているがために。そうしたらひとまずのところ書けて、仕事熱心な男だった。

そのあとやっと本を開こうと、『時間』を開いたが、なんだかソワソワしながら読めるものではなかった、7時を過ぎて、夜になった、店は大丈夫なんだろうか、ヘルプは必要ないのだろうか、え、暇なの? と気になり、山口くんに「どんな感じ? 大丈夫? 忙しくない? 戻ろうか?」という鬱陶しいLINEをしたところだった、返信はなく、既読にもならない、ということは大丈夫ということでもあるし何かやる仕事はあるということでもあろう、ソワソワは消えない。
こういうときは吉田健一ではなくて野球だ、ということで『止めたバットでツーベース』を開いた、「ジントシオ」、これは長年ロッテの応援団長をつとめた、それから離れたり戻ったりしてから楽天の応援のプロデュースをしている方の話で、「ヤクルト芸術家」とも同じ非公式の応援者たちの苦闘が描かれている、「理想とするスタンドが作れた」という言葉が印象的だった。スタンドを作る。そのあとの「カープのセカイ」はカープを応援する坊さんたちの話で、これもめっぽう面白かった。「仏ってる」で笑った。途中で返信があり、「あ、少し忙しかったのですが、山は乗り越えた感じがします!」とあり、「すごーい! やるねー! 速くなったねえ! 立派!」と10秒で返し、30分後に「ギリギリ、どうにか、という感じでした!」とのことだった。5時間。今日は5時間近くか。ドトールさんありがとさん。

戻ると、客席はまばらだった、伝票を見ると、予想していたよりも多くお客さんがあったようで、え〜〜〜なにこれ山口くん一人でこれこなしたの〜〜〜! すごいじゃん〜〜〜!! と思ってうれしくなった。さすがにチーズケーキを焼くところまでは手が回らなかったようで、ボトムを作ろうとし始めたところ、あ、ボトム、と冷蔵庫を指さされ、開けて見るとそこにはたしかにチーズケーキのボトムがあった! すごい〜〜〜〜これもやってくれたのか!! と僕は、その成長というかこれはたしかに成長というやつだというやつに嬉しくなってニコニコした。あとで聞いたところによれば、途中で牛乳をこぼしてそこですべてが狂った、もうひとつミスったら阿久津さんを呼ぼうと決めて、そこからまた一段なんか集中できた、みたいなことだった。感涙だよ、と思った。 店にいれば、どうしても手伝いたくなる、手伝うというか一緒にやりたくなる、でもそれじゃあ意味がないので、というところでできるだけ、ぼーっと、していた、InDesignを触ったりして、それにいくらか没頭したりしていた、そうしたら、閉店した。

帰り、吉田健一。いつくらいの本なんだろうと思ったら、全然僕は知らないので見当もつかなかった、「プルウスト」とか書くから、「モオツァルト」みたいな感じで戦中戦後みたいな感じなのかと思ったら、1976年だった、没年は77年、と思ったら小林秀雄は1983年が没年だった、なにもわかっちゃいない。ずんずん、面白い。

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