本の読める店

読書日記(80)

Entry diary80

4月7日

風が強い日、時が素通り、静けさに耐えられない、という始まりだったろうか、定かではなかった。静かな始まりではあった、ここのところ久しくなかったような静かな、ゆっくりとした始まりだった、スープを煮ていた、原稿の直しをおこない、送った。
文章の枝葉を整えていく作業は、普段はしないもので、なにか新鮮な感覚があった、チョキチョキチョキ、あれ、切りすぎたかな、というような。この枝を、こちらに接ぎ木して、というような。

ゆっくりとした土曜日で、『残響のハーレム』をときおり開いていた。スタジオボイスでも話題に上がっていたというかコラージュされていた章だけれどもアリのパートはすごく面白かった。なにかとパワフルな人だった、無茶苦茶そうで、無茶苦茶のなかになにか筋が通っているようなそういう人物に見えた。「彼は、ひとつひとつの自分の経験を振り返り、自分のルール、自分の解釈、自分の世界を構築しながら、フェアネスを確保しようとする」とあった。フェアネスを確保しようとする。いい言葉だった。

夜、いい調子になった、結局、まったく悪くない土曜日になった。夜、朝に聞いていたシャムキャッツの曲が頭のなかに流れていた。朝に聞くシャムキャッツはとてもよかった。

寝る前、『夜のみだらな鳥』。どういう経緯でだったか全身から血が抜かれて体の80%を失ったあと、なんだかまともなというか、まともな昔語りが始まった、と思ったらまた館に舞い戻ってきた、寝た。

4月8日

またなんとなくアトピーの調子が悪い感じが続いているような気がしたというか、起きたときふとそう思って、これはアトピーの調子が悪い感じが続いているんだきっと、ということをふと思って、それから朝、開店の準備をしながらなんとなく暗かった。珍しくパン食だった、スープとパンとパンとパンとパンを食べた、食べながら「Number Web」の記事を読んでいたらヤクルトの小川監督のことが書かれていた、「開幕戦の朝のご飯が「からっと揚がったヒレカツに白かぶのみそ汁、白いご飯。いずれも「勝ち」「白星」を連想させる、勝負事にはうってつけの“勝負めし”」だったとのことだった、それは珍しいことだった、「小川監督は遠征先にもドリップパックのコーヒーを持参し、マグカップの上に広げて香りまで楽しむほどコーヒーを好む。だからこそ、小川家の朝食といえばパンが定番だった」からだ。一方の僕はいつだって「勝ち」「白星」を連想させるご飯と納豆が定番だった、今日は俺は小川監督の代わりにパンを食った、かつての、開幕戦の朝の小川監督の代わり、小川監督代行、それが今朝の俺、俺は匙でスープを口に運び、パンを浸したり浸さなかったりしながら食べた、うまかった、コーヒーを淹れたのはそのあとのことだった。
しばらくのあいだ、ドリップパックのコーヒーを持参する小川監督のコーヒーライフのことに思いを馳せた。ドリップパックは、僕は、いや待てよ、パックではなくドリップバッグではないのか。ドリップバッグは、どのくらいおいしいものなのだろうか、その、おいしいドリップバッグのコーヒーとは、どのくらいおいしいものなのだろうか。すごくちゃんとなにか鮮度みたいなものは保たれるものなのだろうか、飲まないからわからないが、もしかしたら十分にとてもおいしいのかもしれない、ならば、そのままでいいだろう。だがドリップバッグでコーヒーを淹れるということはお湯はあるということだから、これは監督室の話だ、監督室にミルその他を用意して、その場で豆を挽いてドリップしても、たいした手間の違いはないのではないか、どうか。

ゆっくりした日曜日。とうとうバジェットを割った。『残響のハーレム』を読み、疲れ、『Number 949号\#横浜優勝/ベイスターズが愛されるワケ。』を読んだ、ただただ面白かった、飯食って帰り、寝る前『夜のみだらな鳥』。 今、『残響のハーレム』も『夜のみだらな鳥』もどちらも面白く、どっちを読もう! という感じになっている、うれしい悩みみたいになっている。
『夜のみだらな鳥』を読みながら、3時、明日はカレーを作りたい、食べたい、ということばかりを考えていた、翌日のご飯を想像して楽しみになることがしばしばある、明朝はご飯と納豆だ! 楽しみだなあ! のような。

4月9日

起床後、スーパーに行き、いくらか材料を買い、戻り、ご飯を炊き、カレーを作り始めた、スパイスを温めているあいだに、玉ねぎと生姜とにんにくを切ってお椀に入れた、それから買ってきた薄切りの豚肉の上に、それぞれ適当に切った人参、長芋、しめじ、ピーマンを置いた、そのわきのあいたスペースにヘタを取ったミニトマトを10個くらい置いた、これで準備は完了というか、ほとんど出来上がったようなものだった、この、あとは順繰りに入れたりしていくだけ、調味していくだけ、待つだけ、みたいな状況ができると気持ちがいい、ひと仕事終えた感じがある。
コーヒーを淹れ、順繰りに入れたりなんやかんやしたりしながら、だいたいの時間を座って、本を読んで過ごしていた、『残響のハーレム』を読んでいた、コロンビア大学の敷地拡大にともなってなにかと再編というか町が暮らしが強奪されようとしていたり、アフリカン・アメリカン・ムスリムとアフリカ移民のムスリムたちとのあいだで緊張関係があったり、常になにかと厳しい状況の町のなかで、ハーレムのありようというか、コミュニティのありようというか、アフリカン・アメリカンの同胞たちの暮らしをよりよくしようとストラグルする人たちの姿が描かれている。どうしても学校の公教育から除け者にされがちな子どもたちに対してサマースクールを組織して、しかし主催者とそれを手伝う有志たちとのあいだでクルアーンの解釈を巡って対立して雲散してしまったり、しながら、そういう人たちの様子を読みながら、自分以外の、町の人たちの暮らしをつくり、維持し、向上させることに腐心する、という態度は、僕は持ったことがないし、迫力があると思った。『ルポ川崎』でもコミュニティセンターのようなものを、多国籍タウンの桜本でやっている人たちのことが描かれていた、迫力があった。カレーができあがり、「Number Web」の大谷の記事を読みながら食った、今日は投手として出場し7回、被安打1、無失点、12奪三振という快投をやってのけた、異常な物語になっている。

食後、佐伯胖『「わかり方」の探究 思索と行動の原点』を少し読んだ。

人の「理解」というものは、その人の作品である。作品はうずもれて、まわりの人の目にふれないかもしれない。しかし、そのことは、それが本来、作品であるという事実をいささかも歪めない。見るべき人が見たときにわかる(まさに「ともにわかる」)ことのできる作品なのである。「見るべき人」というのは、見ることのできる人、という意味である。
佐伯胖『 「わかり方」の探究 思索と行動の原点 』(小学館)p.10

最初の10ページくらいを読んだだけだけど、感動する。わかること、できること。『ブッチャーズ・クロッシング』を読みながら主人公のアンドリューズが「知りたい」と言って出ていった自然の中で彼が習得というか会得というか体得というか、慣れていくというか、疲れながら、慣れていくというか、そういうことをしていたそれを読みながら、知るとはこういうことなのかもしれない、わかるとは、ということを思っていたそれとなにか響き合うような気がした。そのあと先日ツイッターで見かけてなにか面白そうと思ってポチった、せんだいメディアテークの機関誌らしい『ミルフイユ』を開いた。「想起の方則」というのがこの号の特集名だった、そのタイトルに惹かれてポチった。

ふとしたとき、ある過ぎた日の出来事が思い出される。目前の景色がもつ質感のようなものに誘われて、身体の奥にしまわれていた感覚が、突如、心の前面にうわっと溢れ出す。場合によっては、身に覚えのないものまでもが、ないまぜに引きずり出されてしまうようで、知らないはずの感覚のあまりの生々しさに、戸惑う。たたき起こされた想いは、身体をすみずみまでかけめぐり、一時的ながらもそれに「わたし」全体が征服されてしまうことさえある。
それは、否応なく「わたし」が揺さぶり起こされているような状態で、実に赤裸々に、無防備に「わたしは生きている」ということそのものが陽にさらされ、証明される瞬間のようでもある。
ミルフイユ07 想起の方則』(赤々舎)p.12

巻頭の文章を読んだあと、酒井耕、濱口竜介、藤井光、清水建人の対談を読んだ、ヒリヒリした空気があって面白かった。するといくらか眠くなってきた、晴れた日だった、洗濯物は乾いた、子どもたちが外で遊ぶ声がした、タオルケットをかぶり、ソファに横になり、『夜のみだらな鳥』を開いた。

今、引用のところを打ちながら(先に本文というか、を書いて、ここに引用とわかるマーカーを置いておいて、あとから引用箇所を打った)、人の理解とは作品である、というところを打ちながら、滝口悠生の、あれはなんだったか、「楽器」だったか、をふと思い出した、作品らしい作品を作らなくなっていく人の話があった、体験それ自体が作品というような、という、それを思い出した、というか、と打ってから、想起想起と思って、次の印象箇所を打った。想起。想起は事故だった。

夜、店。
『残響のハーレム』の登場人物の一人であるマーシャルアーツの達人のかっちょいいおじさんであるアリが、誰がだったか忘れたが、あいつらにはハーレムに対する畏怖がないんだよ、と言っていた、畏怖と敬意がないと。畏怖、敬意、尊重、想像。手繰り寄せようとする意志。いや間違えた、歩み寄ろうとする意志だ。寄せるんでなくて寄るだ、全然違う。考え事をしていたら気持ちが疲れた。

4月10日

店、皮膚科、新大久保。上着を店に置いて自転車に乗って正解だった、はっきりと汗ばんだ、ハラルフード屋さんでスパイスを大量に買った、教わったカレー屋さんであるところの魯珈に行ってみようかとしたら、大行列だったので諦めた、店に戻り、スパイスを置き、帰った。うどんを茹でて大量に食べた、昼。

イメージフォーラム。今日からオンラインでチケットを買えるようになったらしかった。ユーロスペースもいくらか前にそうなったし、これでほとんどの映画館の座席確保がオンラインで済ませられるようになった、それは完全にいいことだった。あとはどこかあるのだろうか、K'sシネマとかは違ったろうか。それでイメージフォーラム、行く前にコーヒースタンドのザ・ローカルでコーヒーを買って、という言い方でいいのか、ローカルコーヒースタンドだろうか、でコーヒーをとにかく買って、行き、想田和弘『港町』を見た。
すごくよかった。牛窓。懐かしいというか、何度か行ったことのある町だった。岡山弁が聞こえてきた。懐かしい響きだった。おじいちゃんの所作はすごかったし、おばあちゃんの語りはすごかった。競りの場面もよかった。軒先のバーベキューみたいなところもよかった。ハイもローもありませんわ。笑った。
最後、早足のおばあちゃんの歩きを後ろから追っていくところが続いて、酔った、それにしても最後、おばあちゃんのありようはすごかった。老婆のこんなふうな孤独というか、必死さをうつしだした映画を今まで見たことがあっただろうか。というすごみがあった。
予告編で流れていた想田監督の次作『ザ・ビッグハウス』も見たかった。

フグレンで本を読んでから帰ろうかと思ったが、なんだか酔っ払った感じがあり、スーパーで買い物を済ませて直帰した。フィッシュカレーを作るという算段だった。
スパイスをあたため、玉ねぎとにんにくと生姜を炒め、野菜や魚を切った、人参を細切りにして塩もみし、ご飯を炊いた、そうしたら買ってきたビールを開けた。COEDOの伽羅の缶ビールがあったのでそれを買った、そうか伽羅はIPAだったのか、と思った、日々出しながら。それで玉ねぎがいい様子になったらしめじ、パプリカ、たけのこ、刻んだパクチーの茎というのか葉っぱじゃないほう、ミニトマト、を入れ、トマトが破れていい調子になったらカレーパウダーとカルダモンのパウダーを入れていくらか炒めた、カレーパウダーは昼に買ってきたものだった、カレー粉とはなんなのだろう、ガラムマサラとどう違うのだろう、と思ってなんとなく買ってみたのだった、それからココナツミルクと水を入れ、しばらく煮た。ビールをもう一本飲んだ、二本目は金麦だった。人参は水を絞って、クミンとオリーブオイルとビネガーと胡椒で和えた。鍋に鱈を入れ、少し煮た。塩で調味したらカレーができた。盛り付け、パクチーをまぶして、食べた。あまりにおいしいので、明日店で作ろうと思った。カレーパウダーは、辛かった。思った以上に辛かった。材料を見たら真っ先にチリパウダーと書いてあった、それから次がソルトだった、ソルトも入っているのか! それからおびただしい量のスパイス等が記載されていた、マンゴーの何かとか。カレー粉。アンコントローラブルなものだと思ったが、どうなのだろうか、個別に好きなものを入れたほうがいいような気もするし、使うにしても少しにしたほうがいいような気がした。

食後、ビールを飲みながら少しだけ散歩をし、それから『残響のハーレム』を読んだ、意外に一日休みの日というのは本を開かない傾向があるような気がした、エピローグが終わって、補論のようなものを読み出したところで眠くなり、寝た。12時にもなっていなかった。早寝。

4月11日

店、営業しながら、昨日思った、カレーを作ろうというそれを実行に移した。同じカレーをこしらえた。人参のラペも同じようにこしらえた。やることがだいたいなくなった。それで『残響のハーレム』を読んでいたら読み終えた。
そのあと少し原稿を見返していたら保坂和志の引用箇所にあたり、なんとなく再度原文を確認したい気がして本棚から取ってきて、開いた、そうしたら、読みたくなって、「キース・リチャーズはすごい」を読んだ。

『人気者で行こう』は中村橋のアパートでよくかけたから鳴るとあの部屋を思い出す、『プレーンソング』の部屋のように広いわけじゃない、入ってすぐに四畳か四畳半くらいのフローリングの部屋がありその向こうが六畳の畳の部屋だった、畳の部屋にベッドとステレオがありフローリングの台所の方に机と本棚を置いた、本棚といっても小さめのやつだ、それはコロつまりキャスター付きで深夜に本屋の前を通ったら何も載せてない状態で店の前に置いてあったからガラガラ引いて部屋まで持ってきた、それに置けない分は実家に持っていっていたが全体としてもたいした量じゃなかった、『プレーンソング』の前半をそこで書いた。
保坂和志『地鳴き、小鳥みたいな』(講談社)p.107,108

この小説はやっぱりすごくよかった、ずっとうねりの中に入っていたい感じがあった、この部分はしかし、そうだったか、なんでこの部分を書き写したのだろうか、読みながらキュンとなにかが刺激されたからだったが、刺激されたからだったが。中村橋。プレーンソング。ちょうどそんな話をしたばかりだった。いや、やはりグルーヴィーな気がした、読点、読点、につづいて『プレーンソング』の前半をそこで書いた、はすごく、グッとくる。バッ、と開ける。広がる。
そのあと、休日明けの体は重い、それなのか、肩がバカみたいに重くなる症状がまた出て、意味もなくヘトヘトの感じになった、今も気持ちが悪い、指と肩がつながっていないような、おぼつかない感じがある、あるいは指と肩がつながりすぎているような、あやうい感じがある。生きているだけで本当に疲れる。そのあと『ミルフイユ』を開いた。飴屋法水の文章を読んだ。

初めて彼らに会ったとき、10人の中で、ほとんどしゃべらない男の子がいた。2回目に会いに行った、朝、東京からのバスの中で、彼が、その男の子が、しゃべっている、姿、が見える。彼は、しゃべっている。誰に? もうひとり、僕が、家、という単語を口にしただけで、かすかに、目が充血している、別の男の子に向かって。
人は、見たものを、覚えていることができる。忘れることができる。
その眼の、充血を、散歩をしていたら、ふと、見た。しかし、問題は、踏まなければいけない手続きの階層の中では、それはやはり僕の言葉で、その階層の中では、彼らにとってもそういう類のものでしかなく、ないから、だから、はたして彼らが、彼が、口にしてくれるのかどうか、それは、やっぱり、わからない、いつもわからない、他人だから。
ミルフイユ07 想起の方則』(赤々舎)p.36

ここで出くわすとは思わなかった。人は、見たものを、覚えていることができる。忘れることができる。
いわきの高校生たちと作った演劇作品であるところの『ブルーシート』を見たのは秋の土曜日だったか日曜日だったかの午後で、そのとき週末の開店時間は16時だった、きっとどうにか間に合う時間だったのか、あるいはその日は開店を18時にずらしたのか、忘れたが、見に行った、そのときのことを思い出すと、思い出すのは演劇が終わって、会場だった学校のグラウンドから校門を通って出るところで、頭上にはたぶん、紅葉したものがたくさんあっただろう、それよりも学校の内側から見た公道であったり住宅街であったりの、なにか、これから外に出る、というその感覚を思い出す。その境界の感覚を強く思い出す。なぜだか。

原稿のチェックというか、をそのあとしていたところ、ROTH BART BARONを久しぶりに聞きたくなったため閉店後聞いた。冬、特に「氷河期#2(Monster)」と「bIg HOPe」の2曲を選んで、大きな大きな音で聞きながら、高ぶらせながらジムで走っていた、速度をグングンと上げて走ったりもした、そのことを、これらの音楽は思い出させた。あの時分にかかえていた鬱屈とした感情であるとか、そういうことをこれらは思い出させた。思い出してばかりだった、なんでも忘れてしまう、なんでも思い出してしまう。それにしてもなんなんだこの疲れは、と思って、はたと思い当たったというか、もしかして昨日自転車、新大久保まで行ってそれから青山のほうまで行ってという、その運動なのか!? と思ったら本当に運動不足だなあと思った、不足というか、不足もなにも運動をしていない、ジムを解約したのはいつだったか、今の営業時間になってからか、だからもう一年以上も走っていない、不足もなにも、していない、運動。
今、「bIg HOPe」の綴り方を調べるのにググっていたその検索結果のページに今、戻ったところ、「ROTH BART BARON "bIg HOPe" 2016.2.20 東京 恵比寿 LIQUIDROOM」というYouTubeのページが表示されていた、これはもしかしたら俺が見に行ったライブだろうか、Googleカレンダーを遡った、そうだった。あの夜ぼくは、ライブに、わあ、と思いながら、わあわあ!となっているオーディエンスを後ろから見ながら、なにか距離のようなものを感じていた。それを思い出した。みんな、わあわあ、と喜んだ顔をしながら、写真を撮ったりしていて、そのわあわあの興奮や喜びと、写真を撮る冷静さ。
それにしても、と、YouTubeのやつを見ながら思った、なんでわざわざ撮影してアップするのだろうか、なんというか、なぜせっかくすぐ目の前でミュージシャンたちが歌い、奏でているのに、おそらく撮っているときはある程度は注意を払わなければならないだろうからディスプレイを見ることになるのだろうけど、せっかく歌い、奏でているのに、わざわざ小さいディスプレイを通してそれを見ることを選ぶのだろうか、もったいないというか、あまりにももったいないというか、あまりにもなまの体験みたいなものを軽視しているというか、損ねているものについての

4月12日

面倒くさくなったのか書くのがやめられていた。代わりに俺が書こうか。いや、やはりやめておこう。

店、取材、その中で影響を受けた本は、という話があり、影響、ということでいえば間違いなく保坂和志の『小説の自由』だった、そのため本棚から取ってきてこれですねという話を、していたところ、読みたくなった、取材終わり、意想外に忙しい始まりだったので少し手伝い、辞し、家。
おとといのカレーをたらふくおいしく食べ、それから『夜のみだらな鳥』を開くも気分が違う気がし、『小説の自由』を読みたい気分らしく、開いた。頭から読むのは久しぶりだった、ずっと読んでいたかった。やはり、この一冊、だった。

前段落で「だんだん気が重くなってきて」と書いたのは、私小説やかつての日本文学が暗かったからではない。自分が何かを論じようとするための材料として小説を読むことの、一種の不毛さによって気が重くなったのだ。私は時評や書評委員の類をいままでやったことがなくて、書評や文庫本の解説も年に数本するだけで、基本的に、読みたいときに読みたい本しか読まず、読みかけの本でも飽きるとそこで簡単に投げ出してしまう。一見じつに不謹慎な読み方だが、本当は反対で本に対して敬意を払っているからだ。何らかの面白さやいわくいいがたさをそこに感じることのできない本を最後まで読み通すくらい本を馬鹿にした話はないだろう。課業と化してしまった読書は、その本に対して一種の蔑視を生み出す。
保坂和志『小説の自由』(新潮社)p.49

今年になって、通読にこだわる/をよろこぶ貧相な読書から脱したいと、ここまで生きてきたが、あらためて、そうなんだよなと思った、敬意を持って、喜びとともに、本と、ありたい。シンプルに、喜びとともに。と思っていた矢先に僕はその読書を裏切ってみたわけだった。本のことについて書く仕事を受けた。好奇心であるとかがまさったわけだった。ともあれやる以上、やるわけで、そのなかで、できるかぎり裏切りにならない形を見つけたい。

夜、店。ずっとやたら忙しい日だったらしかった、夜もそこそこで、やることはたくさんあり、忙しく働いた、いいことだった。帰宅後、今度は『夜のみだらな鳥』の気分になったらしく、読む。寝る。

4月13日

NUMABOOKSの事務所に行く前にスイッチコーヒーに行ってコーヒーを買う、ビルの陰で立って飲む、とてもおいしかった。電車が何度も目の前を通っていった。内沼晋太郎さんと打ち合わせ。ケラケラと笑った、とても楽しかった。なんだか妙に、とても、楽しかった。
帰宅し、自転車を取り、新宿に。いつも行くルートとは違うルートを通りたかった、そうした、気がついたら新宿が目の前にあった、突如、という現れ方だった。昼飯、ゴールデン街のなかのエピタフカレーに行った、エビのココナツカレーとポークビンダルーのあいがけを食べた、とてもおいしかった。食べたあと、しばらく汗をかいていた、汗をかきながら伊勢丹の地下に行き、うろうろした、とても楽しかった。まわりこむようなルートで、代田橋、杉並海の家に行った、展示を見た、いくらかヘラヘラとした顔をした、庭でコーヒーを飲んだ、庭がとても気持ちよかった。帰りがけに2階に上がってみると、お店だった、お店の方がなんとなくというか絶対に見覚えがある、フヅクエに来られたことある方だったろうか、と思っていたら、置いてある商品を見ていたらMicroWorksとあり、まいくろわーくすまいくろわーくす……というので思い出した、岡山のときに店でノックの帽子屋のノックさんと一緒に展示販売をしてくださったMicroWorksの海山さんだった、わあ、と思った。帰った。少し昼寝をした。浅い眠りだった。
店に行った。今日はうってかわって劇的に暇な日中だったようだった、予告通りクラムチャウダーが作られていた、味見をしたらとてもおいしかった。

夜もひたすらに暇だった。なんのやる気も起きず、一度もエンジンが掛からないまま、そのまま終わった、鱈のカレーを頼んでくだすった方が立て続けにあり、おいしい、と言ってくだすったのでうれしかった。トンプソンさんがきれいな写真を撮って投じてくれた鱈のカレーのお知らせツイートは、100を超すいいねがついた、これは、フヅクエというアカウントにおいてはまったく初めての数字ではないだろうか、みんな、鱈が本当に好きなんだな、と思った(すっとぼけ)。

そして今、いくらかのよろこびをもって、七時だということに気がつく。食事の用意をしなければならない。たらとソーセージの肉。このことを書くことによってソーセージやたらに対してある種の支配力を手に入れることはほんとうだと思う。
ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(神谷美恵子訳、岩波書店)p.518

一日不思議と本を開く気が起きなかったが、寝る前は『夜のみだらな鳥』。なんだかよくわからないまま、しかしそのつどなんでだか面白く、ずっと読んでいる。折り返し地点は過ぎて、ムディートは小さく、弱くなり、イネスは眠れず、しゃべり続ける。

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