本の読める店

読書日記(61)

Entry diary61

11月25日

ほとんど毎週週末に来てくださっていた、9月に転勤で関西に行かれた、その方が来てくださった、開店直後の12時過ぎから17時くらいまでだったか、おられ、久しぶりに来たけれどもほんまにこんなええところはないなあ、という、ふうに思っていたりするかな、と勝手に思った彼の視点を織り込んで店の様子を眺めていると、というか感じていると、本当に、こんなにいいところはないよなあ、と思うようだった、なにか、感動するところがあった、本の読める店。

大きく切ったカブ、粗塩でしばらく塩漬けにした鶏、マッシュルーム、玉ねぎその他のスープ、それをホーローの容器に小分けにした、ストウブから、ホーローへ、そういうことをやっていたら「これではまるで丁寧な暮らしみたいじゃないか」と思って慄然とした。小分けにしていたところ、いくらかボリュームが足りない気がして、それで急遽、だいたい汁だけになったストウブにひよこ豆を投入し、しばらく煮て、それを加えた、そうしたらいいようになった気がした。それにしてもやさしいスープだった、前代未聞のやさしさなのではないかというスープだった、これは僕は大好きだと思った、数作しかないスーポグラフィのなかで、これはもしかしたら地味に滋味に突出した一作なのではないかと思った。喜びがあった。

オーダー等は落ち着いたあともそういうことをしていたことも手伝って閉店を迎えるまでのあいだほとんどの時間、立っていた、座っている時間は10分もなかったのではないか、それは言い過ぎか、それは疲れをもたらした、大きな喜びももたらした。

11月26日

日曜日に営業しながらパンを焼くことは可能か、というチャレンジが始まろうとしている。11時半から一次発酵が始まったから14時半になったら切り分けて丸めて、という動きになる、14時半、それはどういうことになっている時間か、それが問題だった。

問題なくつつがなく滞りなく焼くことができた。とはいえ完全に暇だったわけでもなく、夕方まではいい調子だった、昨日に続き、これはすばらしい週末になるのか、フヅクエ復活か、と思っていたら最後にお客さんが入ってこられたのは18時だった。どういうことだ。21時には誰もいなくなり、机のまわりを片付けたりしていた。余計なものがありすぎる。さっぱりした。しかし仕組みができたわけではないから、またすぐに元の通りになるだろう。看板を新しくした旨のブログを書き、それを更新した。先日書いてあとに更新することにしたブログもまたいくらか修正したりしていた。そういうことをしていると閉店の時間になった。閉店したあとは煙草を吸いながらビールを飲みながら、なんとなくさみしい気持ちでいた。すべての決定にさみしさがつきまとう、というのはなんの本で読んだ言葉だったか。
本を、読まない。それどころか持って帰ることを忘れてしまった。いろいろとやっていたら今度は日記を書く余白がない、と思ってパソコンを持って帰ってきたら、本をリュックに入れることを忘れた。どうしたのだろうか。No Music, No Matter、という、それは僕はかつて好きだったブログで見た好きな言葉で、大学生の頃に見た、読んでいた、凛としたブログだった、その言葉が僕もそうだと思う時期というのは訪れて、イヤホンをして大きな音で音楽を聞いてさまざまな妄念のようなもの、憤りのようなものを逃がす、そういうことが必要のない時期というのがあって、それは年々多くなっていって、それはまあ、よしとしようと思っていた、これがNo Book, No Matterになったらどうしようか、ということを今、「どうしたのだろうか」と打った瞬間に思い、背筋が凍った、僕から読書を抜いたら何が残る。なんていうのは大げさな心配だった、読まないようになることなんてない、今の僕はただの一年ごとにある店のことに取り憑かれるそういう時期というだけだ、一年ごとのことだ、風邪みたいなものだ、気にすることはなかった。
それにしてもかつて、僕が大学生のころははてなダイアリーが全盛だった、嘘だ、全盛かどうかは知らない、僕ははてなを使っていた、というだけだ、はてなには、凛とした、いいブログがいくつも落ちていた、それを拾っては眺めた、そういうことをしていたが今は、自分がWebでなにかを読む動線というのはどうしてもSNSであるとか経由になり、そうすると拾われないものが、目に入ってこないものが、たくさんたくさんある、だろう。夜、エゴサーチをしていたら流れ着いた先で美しい凛としたブログを見かけた、こういうものが読みたい、そうだろうか、わからないが、こういうものが世界のさまざまのところにあるということはなにか、助けのようなものになるというか、勇気のようなものをもたらしてくれるというか、ただ、いいことだと思った。人の人生。その断片。どこにも向けられていない、少なくともあかるい大きな声が発せられているところには向けられていない、小声の、静かな、凛としたもの、そういうものがあることはただ、いい。

本を読みたい。本を読みたくて、悲しい。と思って笑った。なんだこの感情は。

11月27日

途中で抜けて笹塚のダイソーに行くとクリスマスのことを歌っている日本の歌が続けて流れていて、その歌詞のなんというのかすごいすごさにこれを強制的に聞かせられながら働くというのは非常に酷なことだと思った、高校生の時にダイエーに入っているミスタードーナツでアルバイトをしていた、秋になるとダイエーホークスの応援歌がエンドレスリピートになる時期があった、応援感謝セール的な時期だった、ひどい感謝の表し方だった、それを思い出した。思い出したのは今で、そのときはただ辟易していた。誰の利益になるのか、クソみたいなものが生み出され続ける。
自転車でぷらぷらと、午後に走っていた。コーヒーを飲んでから戻ろうと思って行ってみたコーヒー屋さんは定休日で閉まっていたので戻った。戻ると何人かお客さんがおられ、いい様子だった、平日にしてはとてもコンスタントにそのあとも来られ、これはとてもいい月曜日になるのではないか、と思っていたら最後に来られた方が来られた時間は18時20分だった。20時には誰もいなくなったのだったか。
洗面所の水道が水漏れを起こしていて、一週間前はポタ、ポタ、だったものが昨日あたりはポタポタポタで、今日はつーーーーーーーだった、これは、と思って水道屋さんに電話をして、誰もいないしちょうどいいと思って電話をし、来てもらった、見てもらった、初めて見るタイプで開けてみないとわからない、開けると5000円掛かる、修理できるとなればさらに、見てみないとわからないが、パッキンの交換くらいであれば工賃は4000円くらいだ、あとは材料費が掛かる、そういう話だった、でもこれはパッキンではない可能性もある、水栓本体のなにか、入っているカートリッジのなにか、そういう可能性がある、等々教わり、ひとまずは元栓を閉めれば止まる、じゃあ、せっかく来ていただいたんですけど今日はなしで、ということにした。親切な方だった。そのあとは何かをしていた、何をしていたのだったか、フヅクエブックスのやつで『降伏の記録』を売ろうと思い、それでポップを作ったりしていた、すると23時によく来てくださる方が来られ、スープがおいしそうだったので、ということだった、最後の一食だった、なくなっていなくてよかった、最後がそういう終わり方でよかった、救われた。本は、今日も開かれなかった。そろそろ、このなんというか気持ちが常にせわしいようなモードは終わる、といい。

9月に注文したソファがやっと家に届いた、そのソファに座って酒を飲みながら『ピダハン』を読んでいた、ぐんぐんと面白かった。うれしかった。

11月28日

早い時間に店に行き、いくつかの仕込みをおこなった、ひきちゃんがやってきて、歓談をした、仕込みをおこない、水栓を買ったところに電話したところスピンドルを送ってくれるとのこと、ドライバーとモンキーレンチがあれば自分で交換できるとのこと、つまりお金を掛けずに直せることがわかってほっとした、電球が切れた、LEDの業者に電話をしたところ新しいのを送ってくれるとのこと、なにかと、そういう時期なのかもしれない。
仕込みをして、それからもしばらく店でなにか仕事めいたことをしていた、なにをしていたのだったか、けっきょく2時過ぎまで店にいて、それから出て中華料理屋さんで青椒肉絲の定食を食べた、家に帰り、ソファで本を読む、そういう楽しいことをして過ごそうと思った、ソファに寝そべった、『ピダハン』を開いた、30分も読まないうちに眠くなり、タオルケットをかぶると眠った、起きたら7時前だった、3時間以上寝ていた、損をした気になりながら新宿に出ると人がたくさんあった、椿屋珈琲店に入ってコーヒーを飲み、『ピダハン』を読んだ。隣の席の女が「球持ちがいい」と言っているように聞こえた。野球の話をしているのだろうか。それから斜向いの席で話している若い男二人は、かっこよさであるとか、そういう言葉を使ってなにか話をしていて、それは多分にエモさのあるものだった。それを僕は好ましく思った、エモさ、僕はまだそれを持っているか。
『ピダハン』。普遍的なもの、exteric。外部からはわかりにくいもの、esoteric。その対比を僕はおもしろく思って、いい二項だと思った。それから検索してみると、門外漢にも理解できる、通俗的な、大衆向きの、みたいなものに対して、秘儀、難解、みたいな意味が出ていて、一気につまらなくなった。普遍的なもの、外部からはわかりにくいもの、これがよかった。コーヒーを飲んで、煙草をいくらか吸った、時間になった、お多幸に向かった。
お多幸に着く前に友人が路上に立っているのを見て近づいていくとお多幸は定休日で閉まっているとのことだった、僕は、二週連続お多幸でおでんを食べるというのも愉快だろう、と思っていた、先週は椿屋珈琲店、お多幸、イーグル、だった、それが今週は椿屋珈琲店、お多幸、昴、そういう流れになるのだろうと思った、そういうことはいいことだと思っていた、それが定休だという。うかつだった。歌舞伎町のほうに歩いてみる。客寄せの人たちが相席屋を勧めてくる、相席屋、相席した人と何を話したらいいのか。ギラギラとしたネオンのあいだを歩きながら、友人の口から「ブレードランナー」という言葉が聞こえた瞬間に、そのネオンが全部すばらしく面白いものに変容した。その変容の瞬間を知っているのは僕だけだった。
TOHOシネマズやアパホテルの裏側の道は一気に静かだった、その道を歩きながら、不思議な安心と新鮮さを感じた、この角度でこの町を見たことは記憶になかったような気がした、ミラノ座の前の広場に出たとき、その景色はまるで組み替えられていて、また初めて見る景色だと思ってテンションが上がった、行ってみようといった店は30分後にはコースのお客さんが出るから入れる、ということだったので時間を潰すためにHUBに入ってビールを一杯飲んだ、野球の話をしていた。それから、思いのほかに遠くまで歩くことになって、けっきょく西新宿のほうだった、僕はてっきり西武線のあたりだと思ってみたら大ガードをくぐって向こうまで行くことになった、向かっていると西武線の駅の下のあたりで自転車に乗っている女が歩いている女を肘で小突いて罵倒していた、歩道における自転車乗りが歩行者を攻撃する言い分など持ち得るだろうか、と僕は思った、自転車の後ろには幼児が座っていた、殺伐とした気分だったのだろうと思った、西新宿のあたりは、いい様子だった。丸鶏が食べられるというるいすけというお店に入った、もう一人の友人が先に到着してビールを飲んでいた、この三人で飲むときはこのあたりの店になることが結果として多かったというか、前回はるいすけから本当にすぐのところだった、タカマル鮮魚店だった、その前もやはり近くのメキシコ料理屋さんだった、カーニバルハウスだった、るいすけにて、愉快に飲み食いをした。
パ・パ・パ・パブリッシュ。一定の強固な基盤を作り上げられたのならば、もうどんどんパブリッシュしていいんじゃないかと俺は思うんだよ、もう負けないと思うんですよ。わたしはそう言った。そう思う一方で僕は、ここのところの自分の行動にある種の行儀の良さみたいなものを感じているところがあるらしくて、それが僕個人の感情というか弱い、揺らぐ、ぐらぐらした、そういうものと乖離しないか、いくらか心配しているところがあるようだった。そうは言わなかった。

11月29日

特にやることもない日で『ピダハン』を読んでいたら読み終わった。そのあとオオヤミノルの『珈琲の建設』を読み始めたらこちらも読み終わった。驚いたことに、11月は『降伏の記録』を読み終えた11月6日以来なにも読み終えていなかったようで、おおいに驚いた。読み終えることに意味があるわけではないが、単純にこれは読んでいなかったことのわかりやすい表れだたっため、わかりやすく驚いた。

『珈琲の建設』は面白かった、パドラーズコーヒーのことを次のように言っているのがああ、そうだなあ、そういうことだなあ、と思った。パドラーズコーヒーは明るい健やかな顔をしながら強い芯のある感じがして僕はいつ行っても気持ちがよかった。

「消費者のあり方に憂いて新しいデザインをぶちかましたかっこいい人達」ではなくて、「もうお客さんのあり方には憂うことはないし、そのまま来てくれたらいいんだけどこっちは揺るがないよ。ということはお客さんがその店のデザインに組み込まれるよね」っていう安定感があるんだよね。だから見かけは今時のカフェだけど本質はいい喫茶店と同じ。 オオヤミノル『珈琲の建設』(p.18)

それからオオヤコーヒーのコーヒーの味についての説明が面白かった、飲みたくなった。

良い意味で言うと軽いし、悪い意味で言えば没個性的。膨らまないし、カップから上がる香りがほぼ無い。料理が出てきた時に鼻から匂いが入ってくるっていうのがあんまり好きじゃないの。いい気分がしないというか。ぱっと蓋を開けたらふわっと出汁の匂いが漂ってくるようなお吸い物とか、だいたいそういうものって冷めたら生臭くなるんだけど。口にしてから匂いが戻ってくるような、京都で言うところの「はんなり」という味があって、あっさりでもなく、薄いでもなく、「はんなり」としかいいようのない味なんだけど、それをコーヒーで表現するためには今自分の知っている限りでは鼻に入ってくる香りを抑えることしかない。「はんなり味」は器から鼻へ来る風味と反比例するから。 オオヤミノル『珈琲の建設』(p.68)

そのあと『波止場日記』を少し読んで、次に『ただ影だけ』を開いた。それは面白かった。苦しくもあった。なにか、腹を減らしきっていた者が目の前に広げられた料理を手当たり次第にガツガツと、飲み込むのも惜しいようなペースで口に運んでいくようなそういう感じだった。と、思ってみるとフアン・ホセ・サエールの『孤児』の、あまりにも食べたかった肉をひたすら食って、恍惚というよりはどこか苦しさのあるような表情で放心するインディオの姿を思い出した。エル・ドラード。

それにしても、今日はなにもしなかった。午後の早い時間からずっと本を読んだりして過ごして、終わった。ここ数日わりといい調子だったため、これは完全復活の兆しだろうか、と思って今日を迎えたところまったくそんなことはなかったようで、がっくりとしたし苦笑もして、最後はいくらかやさぐれた気持ちになった。
やさぐれた気持ちになったので髪を切るのはまた今度でいいかと思っていたところ、自転車をスイスイと漕いでいたらやっぱり今日やろう、すっきりしよう、そういういくらか前向きな心地になったので刈った。帰宅直後、それから風呂上がり、寝る前、ずっと『ただ影だけ』を読んでいた。

11月30日

11月が終わりだということがにわかには信じられなかった、明日まであると思っていた、11月。あわてて家賃を払いにいったりそういうことをしていた。特にやることもなかった。また週末に、仕込み等が一気に詰まりそうなそんな予感がした。
昼、特に作るものもなかった、特に投稿するものもなかった、しかしツイッターを毎日立派に使うぞと思っていた私は、「#ジンジャーシロップを仕込んだ」という、そういう投稿をツイッターにした、それは確かに嘘ではなかろう、しかし正確でもまたなかろう、正確には「#先週ジンジャーシロップを仕込んだ」だった。嘘まがいのことまでして、ツイートする、日々。愉快。

ありえないね、あの犬どものことだ、代わる代わる輪姦した挙句に殺して、兵営の中庭にあった共同墓地に埋めたのさ、ワスララ時代からウルカヌスはそんなことばかりしていたらしいじゃないか、仲間たちが一度死体を掘り起こそうとしたことがあったけど、手のつけようがなかったみたいだ、そりゃ、風船のように膨れ上がった死体や、炭で焼いたみたいに黒光りする死体、それにバラバラになった死体がごろごろ出てくるんだからね、トラクターで土を掘り返すたびに布の切れ端やら骨やら毛の落ちた頭やらが出てくる、乾いた女の髪、スカート、サンダル、モカシン、腐肉、出てくるのはそんなものばかり、姉さんもそうなったんだよ、間違いないさ。 セルヒオ・ラミレス『ただ影だけ』(p.204)

乾いた女の髪、スカート、サンダル、モカシン、腐肉、出てくるのはそんなものばかり、姉さんもそうなったんだよ、間違いないさ。小説を読んでいるなあと思う。ひとつのセンテンスでここまでたどり着く跳躍力みたいなものというか。とにかく美しい。

今、書誌情報にリンクをつけようとAmazonの『ただ影だけ』のページに行ったところ、「お客様は、2013/4/26にこの商品を注文しました。」と出ていることに気がついた。そうかAmazonで買ったのか、その頃、水声社は普通にAmazonに卸していたのか、いつそれをやめたのだったか、いやそれにしても、Amazonで買ったのか、なんでそうしたのだろうか、2013年4月。

夜、ゆっくりゆっくり風呂に入ってから『ただ影だけ』。すぐに眠くなったので寝た。

12月1日

12月になった。なにか、昨日、11月が終わりで、12月になる、と思ったときに、誕生日を迎えるであるとかそういう節目っぽいなにかよりもよほど強く、あと数時間で12月に、なる! と思ったのはなんだったのだろうか。あとひと月で2017年が終わる、ということ、それは2017年が終わることよりも決定的なことのように思える。なにが決定的なのかはまったくわからなかった。

特にやることもなかった。けっきょく完全復活の兆しかというのはなんでもなかった。昨日もおとといもこれまでと変わらないひどさでひどい日だった。数字をまとめてパシンとした、ひと月のあいだまったく追っていなかったが、体感どおりのひどさだった、10月とまったく同水準で、10月より一日営業日が少ないこともあってワーストの数字だった。ここが底だろうか。というか、11月は最後の週の数日間が「復調の兆しだろうか」といういい数字だったわけで、それがあってこれなのだから、それまでの25日間はもっとひどいペースだったわけだった。体感として知っていたが。ここが底だろうか。

「ここへマットレスと枕を持ってくる、この部屋から出るなよ」なぜあの規律の厳しいアメリカ軍がそんな男をほったらかしにしているんでしょう。/世間的には模範的な父親ですからね。/しかも勇猛果敢というわけですか、/ノルマンディー上陸作戦の成功で勲章まで貰っています。/外見と中身は違うものですね。
「必要ないよ、床で十分さ」イグナシオが言った。
緋色の光の向こうにチラマテのシルエットが突如葉を落としたように浮かび上がり、少しずつ震える波のように中庭へ差し込み始めた影が、次第に落ち着いて人々を闇のなかに包み込んでいく。 セルヒオ・ラミレス『ただ影だけ』(p.234)

わりと長い時間『ただ影だけ』を読んでいた。二つの時間が交互に高まりながら流れていって、最もテンションが強まった瞬間にパン!、と現在の静寂あるいは喧騒に突き落とされる。音楽、という感じで読んでいた、それは心地よい興奮をもたらした。やっぱり僕にはこれが必要だった、摂取しないと満たされなかった。
独裁者の側近だったその男を殺せと、人々は声を上げた。群衆はおろかでおそろしかった、革命家たちも権力の座につけば同じようにつまらないことをしていった。たくさんのつまらない矛盾が生じていく、その前夜だった。読んでいた。あと少しで読み終えそうだった。今晩にも終わる量かもしれないと思った。であるならば、読みたい、店が終わったらフグレンに行って読もうか、金曜ならば2時までのはずだ、酒飲んで本読む、そう考えると、ひどく楽しみな予定のような気がして楽しくなった。

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