本の読める店

読書日記(50)

Entry diary50

9月9日

注文していたグラスが届いて開けたら必要な大きさは10オンスではなくて13オンスくらいだったことがわかったというか、同じ失敗を二度した気がする。少し前も冷たいドリンク用に買い足したいとなったときに10オンスのグラスを買って、それがサイズ・質感ともにこれは違うなと思って自分で使う用になっている。同じことをやった。今回は質感はよかったがサイズで同じことをやった。13オンス、しかしそんな半端な数字だったか。14かもしれない。LSAというブランドのタンブラーが、よくて、買いたいのだけど前に買ったコンランショップに行ったら最近取り扱っていないということで、恐慌をきたし続けていたら夏が無事終わろうとしている。また来夏考えればいいか。

未曾有の暇さで、深刻な眠気に襲われていた。営業中に居眠りをしてしまうのではないかというような状態に陥った。タバコ屋のおばあちゃんスタイルで営業をしたいような気がした、つまりそれはどういうことか。コタツにでも入りながら、みたいなところだろうか、これが冬ならば、の話だが。それでコーヒーを淹れて眠気を飼いならしながら『ウォークス』を読んでいた。「愛は分類して目録に収めるようなものではない」というパンチラインがあった。初登攀であるとかの史上初的なものを目指すスポーツ的なものとしての登山の歴史が語られ、それとは別の登山もある、そういうことが語られるところでそう書かれていた。愛は分類して目録に収めるようなものではない。世界は情報ではない。私は情報ではない。眠気は飼い馴らせない。

そうしたら夕方にとことこと来られたことによってあと一歩でQS達成というところだったが惜しくも逃し、6回途中8被安打3四死球4失点(自責3)だった。後を継いだリリーフ陣もずるずると打たれてさらに2点を取られ、6回終了時点で0−6。ここから逆転するのはまず無理だろうとは思った。しかし後半に入ると急激な追い上げを見せる。7回に2点を返して反撃ののろしを上げると8回に一挙5点を取り逆転に成功。さらに9回にもソロホームランでダメ押しの1点を入れ、結局8−6で勝利を収めた。
疲れた。そして安堵&嬉しかった。よく働いた。
最後のお客さんが帰られて、そのときに掛かっていた曲がいいなと思ったらTara Jane O'NeilとDaniel Littletonのアルバムで、ペダルスティールみたいなギターの音が優しいやつで、森みたいなやつで、いいなと思ったらこれだったというパターンはしばしばある、こういう音楽をもっと聞きたいし知りたいと思うのだがどうやって探したらいいかわからない。『パターソン』の音楽がよくて、土っぽいドローンで、これはサントラを聞いてみたい、と思って昨夜検索してみたが「こんなの作中で掛かっていたっけ」というソウルとかブルースとかそういう感じの曲リストが出てきたばかりで、聞きたかったというかあの映画を見ているあいだに聞いていたと思っていたような曲はなかった。

9月10日

最寄りのコンビニであるセブンイレブンが改装工事で8月の終わりまで二週間以上閉めていて先日リニューアル後に初めて行ったらいろいろな場所や棚の配置が変わっているかと思っていたらレイアウトは変わらなくていろいろがきれいに明るいものに変わったというリニューアルで、元々のレイアウトはよほど綿密に考え抜かれたレイアウトなんだな、ということをそれで知らされる格好となった。ということを腹が減って、キムチを食べたい気がしてキムチをもし本当に食べたいと思い続けるならばコンビニに行くことになるぞ、と思ったいま思い出した。
今日は開店前に面談というかフヅクエで働きたいと言ってくださった方とコーヒー飲み飲みお話をした(これまでまったくなかったのに続けてそういう方が現れてうれしい。ケラケラと楽しいいい時間だった)。それから営業を始めて前半が忙しくてめっぽう疲れた。夜はすっからかんだった。昨日とは正反対の流れだった。夜になって9時を過ぎてから『ウォークス』を読んでいた。今は都市を歩くことが書かれている。ビールを飲みながらうろうろと延々と歩きたいというそんな気がいま湧いている。腹が減った。キムチを食べたい気がしている。とうとうDeNAと巨人のゲーム差がなくなった。どうなるか。

9月11日

結局きゅうりの漬物を豆板醤とごま油とちょっとのにんにくで和えることでキムチっぽくして食べたらアホほどおいしかったのが昨夜だった。ご飯は3杯食べた。それは特別なことではなかったが。
YouTuberのヒカル氏という人のことは今回の騒動があるまではまったく知らなくて今回の騒動のこともよく知らないのだけど日経なんとかでインタビュー記事が上がっていて今日読んだらオリックスの金子千尋に見えた。これは金子千尋だよ、と言われたらなんの疑いもなく信じた程度にそう見えた。それにYouTuber氏は年俸5億円ということで、稼いでいる金額も同じくらいらしかった。それを外で休憩しながら煙草を吸いながら読んでいて読み終えて階段を上がっているとなんだか自分が金持ちになったような気になんでだかなった。5億円くらい稼いだような気になんでだかなった。あの気分はなんだったのか。
夕方までに今日やるべきことが終わったので『ウォークス』を読んでいた。パリの遊歩の話が書かれている。
「この言葉「フラヌール」が人びとの口に上るようになったのは十九世紀初めのことに過ぎず、起源は判然としていない。プリシラ・パークハースト・ファーガソンが「古スカンジナヴィア語(浮かれてあちこち走りまわるという意のflana)」に由来するという一方、エリザベス・ウィルソンは次のように書いている」というので書かれているのは「十九世紀の辞典『ラルース』は、アイルランド語で「放蕩」を示す言葉から派生した可能性を挙げている」ということだった。遊歩といえばベンヤミンで、「ベンヤミンによれば、遊歩者が出現するのは十九世期の初頭、都市が巨大で複雑なものとなり、住人にとってさえ見慣れぬ存在となるという未曾有の時代のことだった」ということだった。

お腹が減ったときの間食のためのトーストのバリエーションを増やさないといけない気がしている。いけないなんていうことはないのだけど、違うものも食べたい。今はマヨネーズとチーズ、時にベーコン、そういうことになっている、それだけだ。他のものも食べたい。6時、誰もいない。6枚切りでのそれを2回食べた。
9時、なんとなく気分が冴えない晴れないつまらない。ほとんど誰も今日この店を必要としていない欲望していない、というやさぐれた気分になる。
『ウォークス』もけっきょくほとんど開かなかった。なにやってたのか。暗い。

9月12日

これまで入っていた生命保険を解約する前に解約返戻金であるとか運用のこれまでの成績みたいなものを見ていたら生命保険商品で資産形成をしている友だちのことを思い出してやっぱり、保障と資産形成はちゃんと切り分けた方がいいのではないかと思ったんだよね、なんでなら、ということを連絡したところ閉店時間の頃に返信があってそれから小一時間あれこれとLINEで白熱したやり取りをしていた、そのうちに僕はExcelで試算表のようなものを作って、「ほら!」ということをおこなっていた、それは次の日にも続けられて彼が加入している商品のパンフレットのスクショであるとかを送りながら不確かな知識で「その認識は間違っていると思う、なんでなら、ここにこのような表記があるから」というようなことを伝えたのは小雨の静かに降り続ける坂道を歩きながらのことだった。
暗い空がゴウッと鳴っており、懐かしい鳥の声が同じ場所から聞こえた。大宮に住んでいたころ、市民公園の方から聞こえた声と同じやつだった。新宿御苑は「国民公園」というものだと知ったのは先日のことでそれは僕をぎょっとさせた。

行き慣れない町に電車で行ったら家具屋さんで家具を見たり照明を見たりしていた。雨はやんで、煙草屋さんのところで煙草を吸っていたらiQOSのお試し部隊のような人たちが来たので試させてもらった、初めて吸った、熱かった。それで前からもっぱら興味本位で行ってみたいような気がなんとなくあったカフェのような店に入ってコーヒーを飲んだ。悪いところ至らないところよりもいいところに目を向けられる人間になりたい。
渋谷に戻って迷宮のような駅の道に改めて迷子になりながら地上にどうにかあがると見知らぬ景色が開けていた。あんな坂道はこれまで見たことがなかった。歩いたことはあった。
沖縄料理屋さんで沖縄料理を食べて泡盛を飲んだ、いい店だった、また行きたいと思った。また行きたいなと思ったということはいい店だった、という順序かもしれない。それから歩いて、歩いているうちにラブホテルや風俗であるとかがひしめくエリアに足を踏み入れていた、風俗もひしめいているのだろうか、あのあたりは店舗があるのだろうか、だから、踏み入れていた、それでミッケラーに入ってビールを飲んだ。マキアートメシアみたいな名前のなんだかすごい味のブラウンエールとポストモダンなんとかというなんだかすごい名前のIPAを飲んで、二日前だったか前日だったか、ブリュードッグが出しているジンが日本にも入ってくる、ということを酒屋さんのメールマガジンで知ったので即ポチった。
「ローンウルフ・ジン」というやつで、もともと9月28日に書いていたのだけれども書いていたとおりこのジンの存在を知ったのがきっかけというかスイッチみたいなところでブリュードッグの本を読んだ、そのジンだった、いいタイミングだった、買った、それを思い出したのはミッケラーのジンらしいボトルをお店の人が持っているのを見かけたからで以前一度仕入れたことがあってそれはおいしかったしラベルがかわいかった。前に、先月だったか、先月の初めだ、『密使と番人』を見る前に友だちとミッケラーでビールを飲みながら同じようなことを話していた、「今晩こそは」というような男や女にとってじゃあ二軒目はおいしいビールでも、といってここでビールを飲んで、というような場面はありうるだろうか、あまりにもホテルと近すぎて白々しくなりすぎるのではないか、どうなのか、そういうことを話していた、この日は二人で盛り上がって二人して欲情して「さあ、ホテルへ」というような男や女がホテルに向かって歩いているときにこの店の前を通ったらすごい、悲惨な気持ち、萎えさせられる気持ちになるのではないか、というようなことを話していた。コンクリート造りの縁側にまるでオーディエンスのように座った10人であるとかの人たちの眼差しのシャワーの中を、皮膚が露出したようなというか傷口が露出したようなというかそういうヒリヒリしてグラグラした状態の男や女が、ランウェイを歩くみたいな調子で通らねばならないその過酷さ。極めて個人的なというか二人組の中だけで作られ成立していたはずの欲情の心地が衆目に、社会のようなものにさらされる。まったく不要な冷静さのようなものを、観客から客観視されることによって自分のうちにも作られてしまうまったく不要な退屈な余計な客観視のようなものを強制されるその、なんだろう、虚しさではないが、なんだろう。俺がお前ならここで勝負を降りる。つまりビールはおいしかったし、寝る前に『富士日記』をほんの数ページ読んだ。

9月13日

休日の次の日はなんとなく疲れているしビルドアップする日というような気分があってカレーを煮込んでいる。
開店直後でまだ誰もいない店に生命保険会社の営業の方なのか「研修室」というところに属しているらしい若いおそらく新卒くらいの社員の方が来られてそれはおととい社内のボウリング大会の景品としてコーヒー豆を用意しろと先輩から指示されたため来られて今日はコーヒー豆の残量が怪しいので明日渡しますと伝えて昨日渡して昨日は僕は不在だったそのお礼のような格好だった、ボウリング大会は今晩とのことだった、そこで30秒だけアンケートをいいですか、となっていいので聞かれたことに答えたらそのあとに自転車保険をすすめられた、損害保険会社の代理店的なことも生命保険会社はやっているのか、と知った、それで一枚ペラの資料を渡されて、明日はおられますか、ということだったのでいますけどと苦笑すると感想を聞きたいだけなので、というのでさわやかに帰っていかれた、錦織圭に似ている溌剌とした方だった、そのあとたしかに自転車保険は入っておいた方がいいと思った、事故をして怪我を負わせてしまったようなときの賠償金の保障が1億円であるとか3億円であるとか、商品ごとにあって、そういった賠償金の事例で数千万円というのがいくらでもあるということだった、いただいた資料の商品は保険料270円とあった、調べたら楽天が損害保険の代理店をやっていて三井住友海上の商品のようで、それが170円というのがあってそれが最安っぽく、入るのも簡単そうだったのでそれに加入した、明日来られたら自転車保険の必要性を教えてくだすったことに対してお礼を言いたい。

わたしたちは皆で歩みを共にし、街路のすべてにその日の意味を響かせようとする。歩くことは祈りにも、性交にも、土地と交わることにも、瞑想にもなりうる。そしてデモや蜂起においては言葉を発することとなり、都市をゆく市民の足取りは多くの歴史を記してきた。こうした歩行は政治的・文化的な信念の身体による表明であり、公における表現の形式としてもっとも普遍的なもののひとつだ。(...)
身体の運動が発話の一形式となるとき、言葉と実践の区別、表象と行為の差は曖昧なものとなる。つまり行進はそれ自体が閾となる可能性を孕み、表象と象徴の圏域へ、そしてときに歴史の圏域へ向かういまひとつの歩行の形式となることができるのだ。 レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史 』 (p.366)

なんだかかっこいい。これまでの歴史のなかで何度も、人々が外に出て街路に集まって行進をしてきたことが書かれていた。ベルリンの壁が崩壊したとき、アレクサンダー広場に集まった100万人の人々のなかで「壁が開放された」というデマが生まれて流れてそれでわーっとなった群集がなだれ込み、それから初めて壁が壊されたのだそう。すごい。いつかどこかでなにかが起きるとき、僕はその場にはいないんだろうなとこういうときにいつも思うことを思った。

ビルドアップもなにも、一日ひじょうに緩慢とした感じで生きてしまった。本は少し読んだだけであとはずっといろいろ出口の見えない調べ物をしていた感じがするので目がつかれた。目と気持ちが。
寝る前『富士日記』。百合子が泰淳の服に食べていたちらし寿司をこぼしてしまうくだりがあり、それで泰淳が激怒する。「俺はこういうことが一番イヤだ」と言う。百合子は「ごめんなさい」と言って服についた米粒とかを取る。夫は怒りで体を震わせている。呼吸は荒くなっている。そういうくだりが読み始めたら最初にあり、そこからあまり読めなかったというか頭に入らなかった。人の怒りに触れるとドキドキするみたいなところがあるのかもしれなくてそれが発動されたのかもしれない。「えーーーそんなに怒らなくても!」と思った。

9月14日

昨日調べていたのはまたなんでだか資産形成系のなにかしらであり、それに伴って『ウォール街のランダム・ウォーカー』という本をポチった。これから届くだろう。
たぶん友だちの生保の話をしている数日のあいだになんだかまたむくむくと「投資とは……」という気持ちになっていったのだろう。先月友だちに言われたままにひふみ投信とごくごく少額のビットコイン積立を始めたというか申し込んでこれから今月であるとか来月であるとかから引き落としが始まるつまり俺の投資生活が始まるのだけど、ひふみ投信の方の本『投資バカの思考法』のレビューを見るとひふみ投信を買う人は情弱、みたいなことを書いている人がいて、これよりもいいパフォーマンスのものはいくらでもある、というように書いていて、情弱でも買える投資信託、いいじゃないか、と思った。投資成績が必ずしも抜きん出ているわけでもないのにカリスマと名乗るが実際は大したことないじゃないか、という書き方だったが、むしろ、僕のような情弱に買わせているからこそカリスマなんじゃないか、と思った。あれ、ひふみでよかったのかな。いやきっと大丈夫。きっと。まあ、情弱だからマジでわからんのだが。

それで僕が今知りたいのはこつこつ同額の積立を続けていくみたいな運用のときに、ドルコスト平均法とかそういうふうに言われるやつだと思うのだけど、リーマンショックのような大きななんか下落っていうのかそういうことが起きて、それを経たときにでも長々やっていればよい感じになるのか、ということで、そういう感じで検索していたら出てきたサイトで相談記事のようなものがあり、「お友達が毎月分配型投資信託の積み立てをしているとの事ですが、この投資法は、クレイジー以外の表現が見当たらないです。」という説明があってその下にフレデリック・ワイズマンの『クレイジーホース・パリ』のポスター画像が埋め込まれていた。まさかこんなところでワイズマンと会うとは思わなかったよ、と思った。

そういうわけで今日も暇だったので届いたので『ウォール街のランダム・ウォーカー』をさっそく開いて読んでいた。これまでのいろいろなバブルがどう出来上がってどう壊れたのかがとりあえず書かれていた。1950年代末、「公開株ブーム」という新規公開銘柄がたくさん売り出された時期があった。「新規公開銘柄はたいていの場合、その事業内容にかかわりなく「エレクトロニクス」という名詞をもじった社名を冠していたため、「トロニクス・ブーム」と呼ばれ」、だいぶ狂った様相を呈していたとのこと。以下はジャック・ドレイファスさんのコメントです。

これまで四〇年間、靴の紐を製造してきた堅実で小さな企業で、株価収益率六倍の会社があったとしよう。この会社の名前をシューレース・インコーポレーテッドからエレクトロニクス・アンド・シリコン・ファース・バーナーズ(Electronics and Silicon Furth-Burners)に変えたとしよう。今日の市場では「エレクトロニクス」と「シリコン」の組み合わせは株価収益率一五倍に値する。しかし、本当の鍵は「ファース・バーナーズ」という、誰にも理解できない言葉に隠されている。誰にもわからない言葉というのは、総合評価を倍増させる効果がある。ということは、靴紐製造事業そのものの株価収益率が六倍、エレクトロニクスとシリコンの名前で一五倍、合わせて二一倍の価値がある。これがさらにファース・バーナーズという名前のために倍になり、この新しい会社の株価収益率は四二倍に評価されるのである。 バートン・マルキール『ウォール街のランダム・ウォーカー〈原著第11版〉 ——株式投資の不滅の真理』(p.64)

店を出る前、まだ続いている友だちとのやり取りのなかで、平均年利5%といってもたとえばその期間の前半調子よくて後半調子悪かったりとか逆だったりだとかいろいろあると思うのだけど、というような疑問が出てきて、「言われてみたらたしかにそういうのってどうなるんだろう」と思って、オンラインですぐに見つかるようなものは平均を取って計算するものばかりだった印象で、あるのかもしれないけれども探す前にExcelを開いて試算できるシートのようなものを作って送りつけた。たいへん楽しかった。
寝る前も『富士日記』ではなく『ウォール街』を読んでいた。寝る前もというか、できれば寝ないでずっと読み続けていたい、という様子だった。

9月15日

店に着いてまずしたことはコーヒーを淹れてそれから『ウォール街』を開くことだった。いくらか読んでから仕込み等を始めた。店を開けて、やるべきことを片付けていって、それらが済んだら読むぞ、と思っていた。この感覚は珍しい、久しぶりの気がする。去年の秋にWebを改修していたとき、その少し前にメニューを全部イラレで作り直すぞとなってイラレをいじっていたとき、に似ている、つまりずっとそれに触れていたい、寝ても覚めてもそれに触れていたい、そういう心地がどうもあるような感じがある。不思議だ。よほど投資がしたいのだろうか。違う。投資がしたいのではなく、いや違うではないか、したいというか、この本はインデックスファンドというのかな、市場とかの何かとかに連動して、どうやって連動するのだろうというのは今のところ僕は知らない、連動して何かをしていくファンドに、コツコツ長期投資をするのが結局よいよ、ということを書いている、はずで、僕はたぶんそれを納得したいのだと思う。なぜなら、資産形成とかまったくわからないし投資とかまったくわからないけれどもそれを一番簡単なやり方でやって問題がないのならばそれが一番いいからだ、だから、「なるほど、それでいいのね」と思いたい。
今の僕の気分は早く始めなきゃ、というもので、だからこんなに読むことにもなんというか急いているのだろう、早く、早く、というか、なんで数年前に興味を持ったときに始めなかったのだろう、ということで、だから後年また後悔したいわけではないので早く始めなきゃ、というもので、やるかやらないでいえばやるでしょ、しかしやる選択を取るためにはなにか踏ん切りみたいなものがいる、というこの感覚はMVNOに乗り換えるときとなんだか似ているような気がする、なんとなくやったほうがいいとは思っていても、なにかがわからない、なにかが不安、なにかが面倒そう、なにかが怖い、そうやって毎月何千円も高い通信料を払い続けてきた、それと同じことな気がする、投資、なにかがわからない、なにかが不安、なにかが面倒そう、なにかが怖い、そうやって何万円何十万円も損というか得られたかもしれない機会を逸してきた。と思ったらこの機にちゃんとせにゃな、という気になんでか強くなっている。

それで早く読みたいなと思いながらお客さんはまったく来なくて、大丈夫かよこれと思いながら、この店マジで大丈夫かよ、と思いながら仕込みをあれこれやっていた、すると今村夏子の、『こちらあみ子』の、二編目だったか、たしか「ピクニック」というタイトルの小説のことを思い出した、「祝祭的」ということをたぶん考えていて、そこから出てきた、ピクニックは祝祭だった、しかしあれはなんと不気味な祝祭だったろうか、それから千絵ちゃんのことを思い出していた、滝口悠生の『茄子の輝き』を思い出していた、いややっぱり僕が思い出していたのは千絵ちゃんのことだ、島根で。それから「寝相」のおじいさんの、バッドなヴァイブスをここに持ち込まないでほしい、という祈りを思い出した。思い出していた。こうやってなにかのタイミングでふっと思い出される、記憶のひだのようなところに残っている、そういう小説はたぶんいい小説だと言ってしまっていいと思う。
それにしてもアホほど暇なんだがこれはほんとうに大丈夫なのだろうか。今月、平日がちょっと度し難いことになっている。度し難いというか許容しちゃまずそうというか。すごい。

ディケイド。それでだから変わらず度し難く暇なので『ウォール街』をダラダラ読んでいる。「ファンダメンタル主義者のお手並み拝見」という章で示された表が面白かった。「株式投信上位20ファンドのその後の成績」という表で、その年代のベストなパフォーマンスをあげた20ファンドの平均と、S&P500指数平均を比較したもので、70年代は19.0%だった立派な人たちの80年代は11.1%、一方でこの年代はS&P500ではなく全株式投信平均となっているのだけどこれだと10.4→11.7。つまりたしかに70年代はよかったけれど次のディケイドではS&P500を下回っている。80年代→90年代は18.0(14.1)→13.7 (14.9)。90年代→00年代は18.0(14.9)→-2.2(-0.9)といったところで、ここで言われてるのは立派なファンドもなかなか続けられないんだよね〜、ということのようだ。あ、そうか、これはそういうことを書いている本ということか、立派な投資家たちの立派なファンドにコツコツではなくあくまでインデックスななにかにコツコツが結局いい、ということか、ということはひふみ投信じゃないよ、という話か。「このように、たとえ過去の成績が申し分ないものだったとしても、特定のファンド、あるいはファンドマネジャーが一貫して市場平均を上回り続けることはできないのだ」 参った。困った。

劇的に暇なため仕込みも発生せずひたすら本を読むだけになった……。CAPM……。スマート・ベータ……。知っているべきなのか。

遅い時間に来られた方が丸善のビニール袋から出して読まれていたのは近藤聡乃の『A子さんの恋人』だった。どうやら今日発売の最新刊だった。しばらくすると読み終えられたらしく、机に置いて、取って表紙を眺めて、どこかを開いていくらか読んで、置いて、眺めて、開いて、ということを何度か繰り返されていた。というのを僕は「あれ? あれはA子さんの恋人かな? そうかな?」と思ってチラチラと見るという普段ならまずしないことをしていたから知ったのだが、そしてお客さんの過ごし方みたいなことをここで書くのはなんとなく好ましくないというか申し訳ない気がしてそういうことはしないのだが、するのだが、その閉じて眺めて開いての、あー、きっととてもよかったんだろうな、楽しみにしていた最新刊、とてもよかったんだろうな、と思ってなんだかうれしくなった。それで「あ!」と思い立ち、蔦屋書店に電話をしてみたらそもそもコミックの取り扱いが基本的にないのでないとは思っていたがなく、そうかと諦めようとしたところそうだ渋谷のツタヤって遅くまでやってそう、となって聞いてみたらあった。

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