fuzkue(フヅクエ) - 一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店

読書日記(48)

Entry diary48

8月26日

気がついたらソフトバンクと楽天とのあいだに8.5ものゲーム差ができていてびっくりした。せいぜい4ゲームくらいだろうと思っていたらこんなにも離れていた。

土曜日、曇り、実にゆっくりのスタート。カレーを仕込んだり1時間くらい一人でバタバタとしていたらバタバタし終わった。あとはお客さん頼み。バタバタさせてほしい。

させてはくれず、それでやることもなくなったのでミランダ・ジュライの『いちばんここに似合う人』をいくつか読んでいた。ニヤニヤしながらヒリヒリするようなそういう話ばかりで、口角が上がりそうになるのをいくらか抑えながら読んでいた。
夜になって忙しいというほどでもないけれども続くようなことがあり、そうしたらどうしたのか一気に疲れが体にあらわれた。途方もなく体が疲れ、今晩こそはエアコンのフィルター清掃をやるぞ、そのために昨日便利かなと思って短いホースをポチったのが今朝届いて、だからそれで快適にやるぞ、と思っていたが、今日もやめておこうと思っている。肩、腰、体全部が途方もなく疲れていて立ち上がりたくないような心地に9時の今、なっている。それでも今日は忙しい休日では全然なくて、バジェットには達しそうにない。なんでこんなに突然疲れたのか、戸惑うほどに疲労困憊している。

先週買った『POPEYE』を今日からトイレに置いた。本屋さん特集のやつだ。まだ僕は開いてもいない。表紙には「君の街から、本屋が消えたら大変だ!」「どんなに世の中変わっても、街の本屋を大切に!」とある。まだ開いてもいないが、トイレに置くのはやめようかという気に、トイレに入ったときになった。
これは、どういう特集なのだろうか。本屋が消えたら大変。それは僕も同意する。本屋が、というか僕にとって必要な本屋が消えたら大変。渋谷の丸善ジュンク堂と新宿の紀伊國屋書店が筆頭だろう。どちらかだけしか選べないと言われたら丸善ジュンク堂。で、僕はそれらが消えたら大変だ。困るし、なぜ困るかといえば普段行くからで、行ってそこで本を買うからで。消えたら大変だから行ってそこで買っているわけではなく、好きで便利で行っているからそこで買っている。消えたら大変だから、大切にしよう。という態度に僕は基本的にあまり賛成できない。なにごとも「ねば」は続かないと思っている。続けられるのはもっぱら欲望に動かされる場合のみだと思っている。だから、語られるべきは「本屋はこんなに楽しい」なんじゃないか。というか、本なんていう、すごく簡単に「ねば」っぽくなるものにさらに「ねば」のメッセージを付与したら、いよいよただただ面倒なものになってしまいそうで、それを憂慮する。もちろん、こんなのは浅はかな考えで大前提だろうから、その先の意図があるのだろうけれど。

8月27日

昨日は結局夜になったら驚いたことにエアコンのフィルター清掃をおこなっており、自分のやる気というか、やっちゃいたい気というか、そういうものに驚いた。済ませたら酒を飲んだら簡単に酔っ払った感じがあって帰ってシャワーを浴びたあとに自転車で町をぶらぶらと走っていた。ひとつの愉快な夜だったと僕は思っているがどうか。

今日は始まりからなんとなく気分のいい調子で、これは誰のうつわですかとお下げするときに聞かれて「八木橋昇です」と僕は答えたその、うつわの作家名をさらっと答えられる調子に浮かれたのかもしれない。どのうつわの作家名も覚えている店主、とかすごいなみたいな。でも僕が聞かれて即答できるのは八木橋昇と大谷桃子くらいで、あとはイイホシユミコと矢尾板さんとか、矢尾板さんは名前は覚えていない、洋白と真鍮のケーキフォークは西川美穂、スリップウェアは井上さん、たしか尚之さん、濃い緑の小鉢と平たい四角いケーキに使っている皿は吉田さん、紅茶のポットは松崎麗、そのくらいだろうか、ともあれ八木橋昇は僕はたぶんもっとも好みのうつわを作る作家でだから聞かれたら完全に即答できる筆頭で、この色がほんと好きなんですよね、「黒呉須」なんていう言葉すら出てくる。それがなんなのかはわからないが。塗る何か? だからそれで、食後のケーキも調子に乗って八木橋昇の皿で出して喜んでもらえて、来週二子玉川で個展があるそうで行ってみるとのことで、なんだかよいやりとりだった、それに限らずなんとなく心通うみたいな場面が続けてある気分のいいスタートで、それから今日は忙しい日曜日になった。でも昨日ほどは疲れはせず、夜になったらせっせと仕込みをして今は10時前で、あとはのんびり本でも読もうという、そういうところでコーヒーを淹れた。

帰り、短い鋭い笛の音がしたので見たら向こうの短い横断歩道の前にいた自転車の警官が斜めに道路を突っ切って渡った自転車に向けて放ったものらしく、笛を吹いたあとも警官は体をひねった状態でじっと自転車を見ていた。威嚇のつもりだろうか、個人的な怒りや苛立ちを感じる、法とかは関係なく、というところで、短い信号待ちの横断歩道はその警官がいたため誰も渡らずに、夜中で車の通りもないから普段だったら誰もが渡っていた。僕は警官の少し後ろにとまって信号が変わるのを待った。
変わったので渡ろうと漕ぎ始めたが警官はすぐには動き出さず、真夜中の交通の秩序が守られるのを監視してでもいるのだろうか、と思いながら横を通り信号を渡り大通りからそれた道に入っていったら、少ししたら後ろから間欠的に「ドサドサッ」という音がする、二回目くらいでそれが警官の自転車の荷台の音だとわかった。無線らしき音もかすかに聞える。わりと近い後ろで何度もドサドサッとしていて、途中で振り向いて見た。警官だった。しかし警官なのだろうか、本当に。ニセ警官で、この服装等はコスプレなのではないか、と僕は思った。変質者であり、それにしても質が変わった者、というのが危険で異常な者というような意味であっていいのか、変態もそうだが、変態という言葉のせいで蝶の変態 ——変態という言葉で合っているよな、と思って検索しようとしたら「町の変態」となったり、あるいは「超 変態」となったりして大変だ—— も、どこかで普段使われる変態の意味をまとってしまうように思えて、だから変態した、擬態した彼は今、僕を追っている。しかしなんのために、という問いへの答えがなかった。僕はタイヤの細い大きいなんだか速そうなロードバイク的な乗り物に乗る者であり、逃げようとしたらずっと勝算はあった、というか彼にとって勝算はきっとそう大きくなかったはずだ、そんな者をなぜ追うのか。追えると思うのか。なぜ、そこまでしなければならないのか。

夜は『富士日記』。中巻も終わりに近づいてきた。この日記は13年間の二拠点生活的な暮らし、住まいは赤坂のアパートで、そこから足繁く通う富士の山荘での出来事を書き綴り続けたものだという認識だが、中巻も終わりに近づいてきたつまり残り2/3ほどが読まれつつある段階で過ぎたのはまだ4年だ。これから山荘に行く頻度がどんどん減っていくということだろうか。何が起きてしまうのか。ということが読んでいてしばしば頭をよぎる。13年の、という情報を何かで、知ってしまって、知らなければよかった、と本当に思う。書いていたらいよいよ本当に知らなければよかったという思いが強まっていく。惜しいことをした。たしか一家のそのときの年齢を知りたくてウィキペディアで生年を確認しようとしたときに目に入ってきたのだったか。惜しいことをした。
ところで飼っていた犬の名はボコではなくポコだった。ずっとボコだと思って読んでいた。思い込みというのは強いものだ。半濁点がすべて濁点に見え続けていた。

午後三時近く、雨の中を、ドスンドスンと重たそうな音がする。窓ごしにみると野兎がテラスにきている。テラスに這い出ている山ぶどうの若葉と蔓を、おいしそうにゆっくりと食べている。丁度リスもきていたが、リスはびっくりしてパンのところまで行けず、山りんごの木に登ってすくんでいる。食べつくすと兎はゆっくりと溶岩の上を歩き(兎が跳ばないで歩くときは、実にのたのたと歩くのだ。はじめて見た)、隣りとの境のぶどうの葉に似たようなものを食べに行く。茎のところを食いちぎって、大きな葉っぱをくわえて、はしから、じぶじぶじぶじぶと悠然と食べ、半分位で急にやめる。次はちがう種類の葉っぱに眼移りし、匂いをセカセカとかいでから食べてみている。物音がすると葉の陰にひそむが逃げてゆかないで、じいっとしている。また出てきて食べる。松葉ボタンを食べつくしたので、テラスまで上ってきたらしい。兎ががさがさと去ってゆくと、リスは木からおりて、パンを食べた。兎はまだ痩せていて耳も小さい。黒い眼をしている。 武田百合子『富士日記(中)』(p.370)

ポコの死以降、動物に向けられる眼差しというか動物の描写に愛情というか、やさしいものを感じるというか、単純に描かれる動物の様子がかわいい。様子がかわいいと読んでいるだけで感じるのはきっと、見、書く態度のなかに愛情というかやさしいものがあるからだと思う。

8月28日

昨日インスタに現在出しているジンの写真を投稿してハッシュタグに「#craftgin」と入れたのは少し恥ずかしかった。クラフト・ジン。それで今朝そのハッシュタグの中を見ていたら世界中のいろいろなクラフトジンの写真が上がっていて愉快で、気になったものを検索してみると日本では買えなそうだと残念と思って、ということをやっていたら「LONEWOLF」というやつを見かけて、見たらスコットランドのビールのあれであるブリュードッグが作っているジンということだった、それを見た瞬間に明日はブリュードッグの人の本でも買って読んでみようかな、という気が起きた。去年の秋くらいに出たやつだと思う。調べたら『ビジネス・フォー・パンクス』というタイトルだそうだ。

暇。眠い。濃くコーヒーを淹れた。明日は健康診断と生命保険の契約の予定がある。どちらもとても心躍る予定だ。その二つの予定のせいで一日の予定がギクシャクする。生命保険は新宿で、健康診断は初台。近いのだけれどもなんとなく行って戻ってという感じが気に食わない、と思って、健康診断の病院は別に初台に決められているわけではない、どこに行ってもいい、だから生命保険の近くの病院を探せばいいではないか、と思い立ち、なんて自分はいろいろな思い込みに支配されて生きているのだろうと思う。それでさっそく受診票のようなものの、病院リストを取り出して、取り出した瞬間に、そうだ、我は渋谷区なんだった、新宿は新宿区だ、ということを理解した。初台はもっとも新宿寄りの渋谷区である。いやそんなことはない。代々木であるとかも渋谷区だ。というか高島屋とかですら渋谷区だ。南新宿駅はだいぶ渋谷区だ。ニュウマンは渋谷区だ。と思って確認したらニュウマンは「新宿4丁目」ということだった。ともあれ代々木だ。代々木の病院はたくさんリストされている。それらのどれかに行ったら、動線的になんとなく損しないような気になれるのではないか、と思った。が、結局初台の病院に行くだろう。内藤病院に。場所や、診察時間を、調べるのが、面倒で、それで内藤病院にそのまま行くだろう。つまり明日は生命保険は新宿で、健康診断は初台。
なんとなく、13時の生命保険がまずあり、午後の診療時間になってから、夕方とかに健康診断、と思っていた。夜は夜で予定があるから、あいだにあるのは14時から16時程度か、と思っていた。シネマカリテで『戦争のはらわた』をやっているらしく、サム・ペキンパー、なんとなく久しぶりに映画を見たい気もしたけれど、それだと厳しいと思っていた、が、午前中に健康診断を終えたらどうか。たとえば10時半に健康診断を受ける、そうしたら13時の新宿は余裕だろう。すると14時から19時くらいまで、使える時間は広がる。そうすると、16時40分の回で映画を見ることができる。そうすると14時から16時半まで、まだある。本屋に行ってブリュードッグ本を買って、どこかで読むなんていうのはどうだろうか。可能だ。
こちらが立てばあちらは立たないというのはそのとおりで、たまには時間を気にせずに好きなだけ眠る日にしようと思っていたのだった。それを思い出した。でも健康診断に午前中に行くとなると話が変わってくる。そういえば、皮膚科にも行きたい、ここ数日、なんだかステロイドを塗布したい気分がいくらかある。それも思い出した。そんなのはうんざりだ。病院、病院、生保。そんな休日は本当に嫌だ。どうしたらいいかと考えるが、回避するとしたら皮膚科だろう、皮膚科は来週に行けばいい。一週間はステロイドは我慢だ。保湿をしっかりすることでケアをしたい。こういうとき、週に一日しか自由に時間が使える日がない、病院とかですらもそこに当て込むしかない、そういう暮らし方は本当にダメなように感じる。これが、そうでない暮らし方だった場合はどうか。
健康診断はちょうどいい日に行って(いつでもいい)、皮膚科もちょうどいい日に行って(いつでもいい)、生命保険もちょうどいい日に行く(いつでもいい)。休日は、好きなだけ眠る、本屋に行って本を買う、どこかで読む、映画を見る、飲みに行く。余裕でできるというか時間が余るくらいだ。うつわ屋さんに行っていいうつわがないか見ようか。そういえばどこかのギャラリーでの写真の展示がいいとSNSで見かけた。近くに行ってみたかったカレー屋さんがあるからお昼はそこで。
なんとなくまっとうそうだ。でも僕は懸念している。そんなに時間があっても、埋められないのではないか。やりたいことなんてたいしてないのではないか。虚しいであるとかを簡単に言い出すのではないか。そういうことを懸念している。欲望はなにか、生まれるだろうか。それを懸念している。懸念しようがしまいが、今はどのみちこういう暮らしなのだが。
みんなよく暇にならずに生きているよなとは思う。毎日7時や8時で仕事を終えて、一日が終わるまでに4時間や5時間の埋めないといけない時間があって、週末はなんと二日間もまるまる休みになる。よくそれを埋めるだけのなにかがあるよな、ということはよく思う。今僕がそれだけ時間を与えられたら、どうしたらいいかわからないだろうと思う。それにお金がよくあるよなということも思う。僕は今は週一日しか、お金を使う日がないからなんというか回る感じがするけれど、これが毎日そういう機会があったら、大変だなと思う。何も考えずに使っていって何も残らないような暮らしになるか、「我慢」という言葉と付き合い続けるのか、どちらかだろうか。あるいは「身のほど」みたいなものを会得するということか。
そんなことを考えていたところ昨日ポチった『Number』が届いた。「甲子園ライバル伝説。」だった。受け取って取り出すとすぐにトイレに持っていき『POPEYE』を回収した。よかった。これで「この店の人も憂い顔のしたり顔でこの煽り文句に同調するたぐいの人なのかな」と思われる心配がなくなった。いやそうだろうか、今度は「この店の人も高校生を異常に酷使するような甲子園をうつくしいものとしてとらえているたぐいの人なのかな」と思われるリスクを負ったということかもしれない。つくづく面倒だ。自分が。

けさ、隣の家の人が庭の木をチェーンソーで刈りこむ音で目を覚ました。わたしが起きあがればお隣さんも刈るのをやめる、とわたしは頭のなかで思った。木はどんどんどんどん小さくなっていった。やがてちびた切株だけになって、それでもわたしが起きないので、お隣さんはしかたなく地面にもぐって根っこを刈りはじめ、それでもまだわたしは起きあがれなかった。とうとう根っこも尽きて、お隣さんが地中をどんどん掘り進みはじめたので、わたしは彼が地球を突っ切って中国に着いたら起きようと自分に言い聞かせた。(...) お隣さんが上海の道路をぐいぐい押し上げるころ、信じられないことに、お腹が減ってきた。体は勝手に生きたがっていた。彼はそのままぐんぐん上昇して木々を突き抜け、雲の中に入り、宇宙に飛び出して天の川を二つに切り裂き、星も塵も突っ切った。そして巨大な円軌道を描いて宇宙をぐるっと一周すると、ふたたび隣家の庭にすとんと着地した。カーテンを持ちあげて覗くと、お隣さんはスプリンクラーを出しているところだった。もう夕方だった。もしお隣さんがこっちを見たら、わたしは生きよう。こっちを見て、こっちを見て、こっちを見て。まるで自分の意志でそうしたかのように彼が目を上げ、わたしは手を振った。 ミランダ・ジュライ『いちばんここに似合う人』(p.175)

暇で、暇だったところミランダ・ジュライを読んでいったら読み終わった。ニヤニヤ読んでいたら気づいたらすごい茫漠とした悲しみのなかに浸かっているような気になって、でもこういう箇所で体から力が抜けるような少しの安堵というかやさしさがあって、というような低いところで感情がアップダウンするような短編集だった。

8月29日

おしっこおしっこ、と慌てながら病院に向かって「私は本日健康診断を受けたい身なのですが現在たいへん尿意を催しておりまず、まず採尿させてください!」と開口一番に言おうかと思ったがいくらか猶予がありそうだったため特に言い添えることはせずに受け付けをした。それで、だから前夜からそうしよう、それは楽しみである、というものであった「健康診断の待ち時間で『富士日記』を読む」ということをやろうと思ったがすぐに呼ばれて胸部のレントゲン、それから採尿へと進んだ。それからもわりにすぐに血圧測定、身長体重測定、心電図、腹囲測定、採血と続き、終わった。『富士日記』は10ページも進まなかったし全部で30分少しで終わった。一時間は掛かるかと思ったが30分ちょっとで済む。これなら仕事の前の時間でもいけるくらいだ。来年は休みの日に当て込まず働く日にしよう。忘れないようにここに書いておく。
そういえば当初僕は健康診断は夕方に受けようかと思っていたが一日のデザインをするなかでまるで妙案といったところで午前中に受けたわけだが、どうも健康診断の日はご飯を食べたりはしてはいけないみたいで、だから夕方に受けていたら僕はすっかり満腹のような状態で受診していることになった。だからたぶん午前中に受けるというのは妙案というよりは極めて通常の判断だったのだろうと知った。

それで早々と終えたのでフヅクエに寄って訓示を垂れてから新宿の方向に向かった。少し時間があったのでブックファーストに寄って『富士日記』の下巻を取り、会計はフロアごとということで、こういうときやっぱり渋谷の丸善ジュンク堂や新宿の紀伊國屋がいいと感じる。購入し、地下のビジネス書であるとかがあるフロアにおり、『ビジネス・フォー・パンクス』を探そうとしたが棚がどういう区分になっているのかもその本がどういう本なのかも見当もつかないので店員の方に調べていただいたところ、在庫なし。極めてこれは、想定外の事態だった。一日のプランは脆くも崩れた。とにかく、時間だ、となり保険ショップに行き、契約書等にサインをしたりする。なんともう一度なにかを取りに来なければならないという。たいへん大儀。
『POPEYE』に、載っていた、カレーを、いろいろ、食べたい、簡単な僕はそう思っているらしく、前日は雑誌を開いて新宿エリアの店を探した、すると歌舞伎町の方の店がいくつかあって、なんとなくそっちに足を伸ばすのも面倒で、それで見ていたら西新宿的なところで焼きカレーうどんなるものを食べられるようでそこに行くつもりでいたが、しかし『ビジネス・フォー・パンクス』を買いに紀伊國屋に行くという想定外の用事ができた、それに伴って、でも奥の方まで行くのも面倒で、紀伊國屋の地下のカレー屋さんがそういえばあったことを思い出しそちらに行った、カツカレーの大盛り。
それを食べてから上の、3階にあがり、検索するとF08の棚ということなのでそこを見ていた、プライシングの本が目にとまって、なんでだか興味を持った気がした、いくらか立ち読みをしていた。戻して、もう一度取って読んだりしていた。何かが気になったらしい。しかし目当ての本がどうも見当たらない、なんとなく目につきやすい装丁をしていそうな気が勝手にしていたが、目に入ってこない。店員の方がちょうどF08に用事があったようで目の前で何かされていたので、この棚だと思うんですけど、と伝えたところ、「あれ?」というリアクション。ここ、この場所に、と言って本と本の隙間を広げる、ここにあったはずなんですけれど、ちょっと調べてきます。なんというか、タイトルを伝えるだけでこういうやり取りになるのは気持ちがいいし頼りになると思った。いくらかして戻ってきてさっき売れちゃったみたいで、との由。
ぽっかりと、予定が狂った。僕はなんでだか、今日は『ビジネス・フォー・パンクス』を読んで夕方までの時間を過ごす気でいた。それがプランAで、プランBは用意していなかった。どうするか、とりあえず、まだ諦めない、そう思ってルミネのなかのブックファーストに電話で問い合わせてみる。在庫なし。渋谷に行く? いやそんなバカな。そういうわけでアマゾンでポチった。今日はどうするか考えた結果、滝口悠生の最初の作品集『寝相』を手に持っていた、そのあと金井美恵子の『カストロの尻』が目に入ったのでなんとなく取って最初のところを読んだら「今これはとてもぴったり来る気配かもしれない」と思って買うことにした。代役は決まった。
それで読むことにして ——時間はあと2時間半あった—— どこに入ろうと考えた。喫茶店がいいだろうか。でも先ほどのカレーがお腹にたくさんあるのか、なんなのか、そんなにコーヒーを飲みたい気分でもないし、おいしくもなんともないコーヒーをお腹に入れたい気分ではよりいっそうなかった。それにエアコンの効きまくったところにもいたくない気があった。屋上みたいなところでなんかダラダラしたいような、なんかそういう気があった。と、妙案を思いついた、公園だ、と思った。公園みたいなところ、どこかあるだろうか。西新宿のほうの、十二社神社みたいなところ、あそこだろうか、と思ってから、新宿御苑が至近だ、となった。これは移動の効率でいっても素晴らしいし妙案だなと思って新宿御苑に行った。入場料は200円だった。たいへんありがたい値段。ゲートを通ってなかに入るととても緑が目の前にあった、人は寂しくないがまったく多くない程度にいて、日本語以外の言語を話している人のほうが多いような感じだった、どのベンチに座ろうと思って進んでいくと、広い芝生のエリアが開けた、ものすごい開放感。ただ日陰がよいと思った、今度はレジャーシートを持って来たいと思いながら、それで日陰になっているベンチを見つけてそこに腰掛け、滝口悠生を開いた。3篇収録されているとのことで最初は「寝相」だった。
セミや虫の鳴き声が聞こえなくなる程度にたくさん響き続けていて、木漏れ日がページのうえでゆらゆらと踊り続けていて、足の甲が妙に痒く、それから手の指も痒く、ぽりぽりと掻き続けていた。風はほとんどなく、日陰で暑くはないと思っていたが次第にじっとりと暑くなっていって汗をかいた。30分くらい読んで、痒みと暑さがけっこう極まった気がしたので、痒みは暑さに起因しているような気もしたので、とても気持ちがよかった、今度はもう少し涼しくなったら、と思って御苑を出た。映画が始まるまでまだ一時間半くらいはあった。自転車を停める算段もしないといけないし、というところで、御苑の前からまっすぐ行くと南口とかの下に出る様子で、初めてその存在を知った駐輪場にとめた。目の前が線路とホームで、こちらを向いた人々が並んで電車を待っていた、電車が滑りこんできた。で、おいしいコーヒーを飲んで過ごしたいと思って、そうなるとこのあたりだとブルーボトルということになるのだろうか、そう思ってブルーボトルに入ったものの人があふれるようにいる、席からは実際あふれていた、空いている席はなかった、これは違うなと思って、ビールを飲ませるところに入ってビールを頼んだ。
そこで滝口悠生を引き続き読んでいた。今日事件起きまくり、とスタッフの女性がスタッフの男性に笑いながら言って、そのままどこかに電話を掛けていろいろと謝りの言葉を発し、ご不快な思いをさせてしまい本当に申し訳ございません、というような調子だった、次の瞬間に「ぽちって切られたーーーぽちって切られたーーー」と男性スタッフに向かって言って、次は入ってきた客にそれと同じ調子で「こんにちはーーー」と言った。こころ。と僕はこういう人を見ていると思う。こころ。いや、心を持て、とは思わないが、ないならないでいいけれどまるで心があるかのように振る舞えとは思うし、客である僕に聞こえているということに対する自覚がないということが本当にいけない。心とかなんとかではなく下手くそだと思うというか、頭を使っていないと思う。
それにしても心という言葉もずいぶんな曖昧さだ。
時間になったのでシネマカリテに入って映画を見た。サム・ペキンパーの『戦争のはらわた』だった、なんでだか上映開始少ししてからしばらくうとうとしていた、どんぱちの音が聞こえていたがうとうとしていた、十分か十五分くらいだろうか、でもそれからはちゃんと起きていられた、面白かった。
ソ連の戦車をやっつけるために戦車のタイヤのところに地雷をいくつか挟んで燃え上がらせるところ、それから工場のなかに戦車が突っ込んでくるところ、そこがなんだかものすごいと思った。鉄十字勲章。上映後に待ち合いのフロアに軍服の展示のよこに勲章の解説のパネルがあって、その情報量がすごかった、撮ったところでどうせ読みはしまいと思いながらも写真を撮っておいた。外に出れば暗かった。自転車に乗った。
そのあと夜が終わりに近づいたとき、一人になった僕は駅前の大通りと歩道を隔てるガードレールにもたれて「寝相」を開いた。街灯の明かりで十分だった。残り二、三ページだということはわかっていたので、家に帰る前に終わりにしようと思って開いた。とてもとてもいい作品だった。

やめてほしい、と竹春は思った。この家に、なつめに、怒りや攻撃的な感情を、持ち込まないでほしい。気づくか気づかないかのうちに、すべて穏やかに、ゆっくりと進めてほしい。急激な物事の変化や、あらゆる激しさを遠ざけたい。冷たさや、蔑みや、嫉妬や、焦りや、嘘を、なつめに近づけないでほしい。竹春はひとり居間の入り口に立って庭の騒ぎを見ながら、そう願っていた。(...) 竹春は自分の無力に絶望する。しかし同時に、そこから眺めていた庭の人々の光景や、大勢がいっぺんにあれこれしゃべっている声は、優しく懐かしく、竹春は自分はそれを見たり聞いたりするよりも、できればこのまま空気のなかに溶け込んで見えなくなって、その景色や音そのものになりたいと思った。そうやってなつめの毎日のまわりをぷかぷかと浮遊していたい。 滝口悠生『寝相』(p.75)

新宿御苑で、ビールを飲むところで、それから上映開始前の映画館の座席で、読んでいるあいだ何度も何度も「ここには〜〜〜がある」と思って、喜びながら読んでいたその〜〜〜がなんだったのかまるで思い出せない。豊かさ、ではない。それは僕は使いすぎる言葉だ。きらめき、でもない。でも近い気がする。ひらめき、ではない。かがやき、とかだろうか。ピンとこない。とにかく読んでいるあいだ、〜〜〜が、それがとにかくあった。とてもいい気分で、本をリュックにしまって自転車にまたがった。〜〜〜はなんだったろうかと考えながら横断歩道を渡り、暗くなった商店街のなかを漕いでいった。ぐんぐんと坂道をくだっていくと〜〜〜があった。

8月30日

煙草を吸っていると女が寄ってきてこのあたりに児童公園はないかと言う。町のことを知り尽くした男だと見込んでもらえたことにまず感謝の意を表し、それからそんなものは知らないと答えた。ただ、児童公園かどうかは知らないですが、そのラーメン屋の角を曲がってまっすぐいくと遊具があるような公園はたしかにある、そこがそれかもしれない、春になると、ブランコを包むように桜が咲くんです、と僕は言った。その公園ってこういう感じですか? とスマホの画面を見せてきて、それを見ながら「なぜ画像は出せても地図は出せないのだろう」とぼんやり違和を感じながらも、それは違う、それはそこではない、と僕は言った。地図は読めない人であるのかもしれない。それから僕もスマホを出し、グーグルマップで言われた公園の名前を入力した、入力しているあいだ、その公園で待ち合わせとかですか? と、おかしな愉快な気分になったので尋ねてみたところ(夜10時は過ぎていた)、モモンガが出ていっちゃって、ということだった。マップに出てきた公園はそれは僕の知らなかった場所にある公園だった。へ〜、モモンガ。ここの、そこを、そうお弁当屋さんのところ、折れて、少し行ったら右手に、いくとあるようです、地図を見せながらそう伝えた。すぐわかると思いますよきっと。彼女は礼をいうと公園のあるらしい方に向かっていった。モモンガに埋め込まれたGPSが指し示しているその公園に女は向かっていった。

朝、昨夜、ポチったテジュ・コールのというかTeju Coleのというか『Blind Spot』が届いた。写真とエッセイで、昨夜、それを持っている人を見、あ、俺も見てみたかったんだ、買ったところで英語読めんけど、と思ってポチったそれが届いた。これから『ビジネス・フォー・パンクス』も届くだろう。昨日を越してしまったら、もうそこまで読みたいのかどうかわからなくなった。そもそも、読みたくなった理由もブリュードッグの作っているクラフトジンの存在を知って、それでなんとなくそういえば、というだけだったそれを、そもそも昨日はなんでそんなに読みたかったのかもわからない。でも予想:読み始めたらすごく面白い気分になってぐいぐい読む。
ただ、困った状況になった。昨日はだから『富士日記』の下巻と滝口悠生と金井美恵子を買って、テジュ・コールをポチってブリュードッグのやつをポチって、つまりいま僕の眼前には富士日記、滝口悠生、金井美恵子、テジュ・コール、ブリュードッグ、その五つもの選択肢ができてしまったということだった、積ん読のようなことを僕はあまりしないタイプの人間なので、こういうことは珍しいことだった、二、三冊の並行でじゅうぶんというかめいっぱいだった。そういうわけであまり健全でない状況を作ってしまったかもしれない、と今、つまり昼、書きながら思っている。

暇。カレー仕込み。二編目の「わたしの小春日和」を読む。ほんととてもいい。滝口悠生の小説にはなんというか風通しのよさみたいなというか、なんだか気持ちのいい風がいつも吹いているような感じがある。大きな話が語られるわけではないけれど、日本の小説を読んでいてなんとなく感じがちだと僕が勝手に思っているのが小さい話の、話の小ささと関係するのかはわからないけれどいくらか窮屈な閉塞した気持ちなのだけど、滝口悠生の小説は大きな話が語られるわけではないけれど広々とした気持ちになる気持ちよさがある。とてもいい。と思いながら昨日、新宿で本を買ったあとにどこで読もうか考えていた時間を思い出して、そうだ、新宿の紀伊國屋書店の近くでフヅクエをやったらいいのではないか、という考えが浮かんできて、なんとなくそれが先ほどから頭のなかにずっと流れている。fuzkue shinjuku。そもそも空き物件とかなかなか見つからなそうだけれど、どのくらいの家賃相場なのだろうか、わからないが、あの近くにそういう場所があったらとても僕だったら重宝するなと思い、fuzkue shinjuku。なんか普通に流行りそう。どうか。ということを完全に暇な、さっきからずっと一人もお客さんのいない店内で、考えている。どうかもなにも、そんな金はどこにもない。どこにも? 金があるところには金はあるからどこにもないというわけではない。金があるところ。つまり銀行とか? 借りればいい。本当にやりたいか。それが問題だろう。本当にやりたい? たった今の気分でいえばやりたい。

それで、というわけでもないけれども届いたジェームズ・ワットの『ビジネス・フォー・パンクス』を読んでいる。「始めるのはビジネスじゃない。革命戦争だ」とか「頭を下げ、バーターでも裏技でもなんでも使え」とか「パンクなら、信念を曲げるな」とか、目次に並んでいるのはこういう調子の言葉で、僕は読みながら気がついたら「YES, I DO!! YES, I DO!!」と大声で連呼していた。「人の話は聞くな。アドバイスは無視しろ」「あ、ちょっと待ってくださいね、メモメモ。人の話は聞くな、アドバイスは無視しろ、っと。はい、無視します!」
それはそうと

会社を始めるとすぐ、何もわかっていない連中が決まって「出口戦略は?」などと尋ねてくる。出口なんてものは、最初から本気じゃない役立たずたちが考えることだ。情熱を注いだ最高の自信作ができたのに、目先の金のために他人に権利を譲り渡すなど、想像しただけで吐き気がする。 ジェームズ・ワット『ビジネス・フォー・パンクス』(p.56)

こうあって、笑ったというか、僕は起業家でもなんでもないので、のでなのか、とにかく出口戦略的な話を聞くといつも感覚がよくわからんなあと思っていた。起業した人やしようとしている人がバイアウトの話とかをすると、あれ、売っちゃうんだ! みたいな、非常に素朴なのは承知しているのだけど「めっちゃこれやりたい」と思って始めることを最初から育てて売り払うみたいな前提で考えている人たちは、良い悪いではなく考え方が僕の感じとは全然違うのだろうなと思っていて、でもそういう考えを一蹴するような言葉に出会ったことがなかったのでここを読んで笑ったというか何かを思った。

8月31日

午前中に天気予報を見ると土曜日の午前8時まで雨マークが途切れなく続いていて今は木曜日の午後3時で雨はやんだ。
とはいえあのあたりに個人の店がまずほとんど見当たらないということは物件取得費等が高すぎてとても手が出ないからだろうかと思い、調べてみたところ新宿三丁目、2階、38平米、家賃86万+共益費10万+看板掲載料10万、保証金700万、たぶん別途居抜きの譲渡料、という物件が出てきた。なお調べていて驚いたのが新宿三丁目という住所は、いわゆる「はいはい新宿三丁目ね」といったイメージのあたりは東の端っこであり、靖国通りをまっすぐいって線路のところが西端になるようだ。下辺の端は東が都立新宿高校あたり、西が駅、という感じで、だから紀伊國屋書店であるとかあのあたりは三丁目どまんなかということらしかった。
もうひとつ三丁目で出てきたのは地下一階、36平米、家賃40万、保証金500万。ずいぶん家賃が違うものだ。「保証人不要プラン有」とか書いてあるしこれはなんか怪しい物件とかなのかもしれない。
そういうわけでずいぶんな金額が掛かるものだなやはり、と思った。2,000万円くらい借り入れできたら作れるだろうか。誰か2,000万円くれないか。

被害者面をしないでくれ。メニューを読んでいなかったからびっくりした、と言われて、なんで読んでいないんですか、と言い返すことが僕にはできなかったのをあとで悔やんだ。まったくの無意味なこと、読む必要のないことしか書かれていないと判断されたということですよね、勝手に。それでそんな顔をするのはやめてくれ。そりゃ知らなかったらびっくりするかもしれないですけど、びっくりさせないために洗いざらいを書いているわけじゃないですか、事細かに。あなたはすべてを読まなかったんですよ、すべてを無視したんですよ、入り口の文言も読まず、webも読まず、メニューも読まず、すべてを読まなかったんですよ、だから今びっくりしているんですよ、もっぱらあなたがあなたのせいでびっくりしているんですよ。僕はそう言いたかった。最初から最後まで100%の無関心でいておいて、被害者面をしないでくれ。そう言いたかった。
と思っていたら驚いたことに@つきで「高いわ〜二度と行かないわ〜」というようなツイートが来て、来たので「あの・・・読んで納得されて帰られた方がいいんじゃないですか、って言いましたよね。それで大丈夫ですと言っておいてこういう場所で文句を言うっていうのはないんじゃないでしょうか。」「そもそもみなさんメニューを読んで仕組みを理解された上でお過ごしになるわけで。目の前にある説明を全部無視して最後に文句を書かれるというのは非常にフェアじゃないと思います。」と返したところブロックされた。ほんと文句言うなら理解してから言ってくれよと思う。無理解のまま無理解だということも理解せずに自身の無理解を露呈してなんの意味があるのかというかただただ極めて不快。
それにしてもブロックされるということを初めて経験した気がする。ブロック後新たにクソみたいな文句を書きこまないか個人アカウントの方で何度かリロードしてウォッチしている。不毛。ではある。では、というか、純粋に不毛だ。

ここのところ木曜日がわりに調子のいい日になることが多く、今日も夕方までにとんとこと来られたので今日もそれかなと思ったらぱったり止まったためブリュードッグ本を読んでいる。
中国にブリュードッグの偽物のバーができたときの対応 ——「概ねのところでは大変に誇らしく感じているということです。世界最大の国のどこかにあるコピー酒場で、自分のクラフトビールブランドの奇妙な物まねビールが売られているというのは「やったぜ」と言える出来事なのです」「あなたが偽マクドナルドや偽スターバックス、偽ナイキタウンではなく、偽ブリュードッグを常州市に建てることを選択したという事実は、率直に言って、私どもの目標が実現しようとしている証のように思えます」—— がけっこうすごいかっこいいなというかっこよさで痺れるみたいなところがあった。それから「BrewDogs」というテレビ番組の話、「ナスカーのサーキットでレースをしながら、時速160キロ超えのピックアップトラックに乗って醸造」であるとか「アラスカでは孤島に置き去りにされながら、水上飛行機の残骸を醸造装置の一部に使い、拾い集めてきた材料で醸造」であるとか、本当に体を張って無茶をやってるなというのがおかしく、かつ、すごいなと思いました。
そのあとさみしい気持ちになったのでテジュ・コールの『Blind Spot』をペラペラしていた。何が書かれているのかはもちろん、わからない。短いところを選んで読んでみようとしてみる。ラゴスのところ、右ページの写真は銀色の凸凹の、光が当たっていて室内は暗いそういう写真の左ページの3行の文章、書かれているのは「クリスマスの数日後、楽器は眠る、ラゴスの小学校のホールで。去ったのは生徒たちのノイズ。一年が終わっている。静寂は大気圏外のように轟く。」かっこいいななんか。もういっちょいってみようか。チボリだ。TIVOLI。チボリはどうやらニューヨーク州の、マンハッタンとかからハドソン川をずっとずっと北上したところにある町かなにかの名前のようだ。4行。「昨夜夕食の際、彼女は僕に言った、Rは彼のヴィジョンを失いつつある。私は仰天した。彼のすべての人々、とても若い、とてもいい、見ていると。本当に見ていて一番いいものの一つだ。「だからこそ彼はすごく働いている」彼女は言った。「だからこそ彼は全部を見ようとしている、手遅れになる前に全部を詰め込もうとしている」」右ページの写真はソファと壁と壁に掛けられた絵画。絵画は地面と水たまりと、いくらか生える木々と、向こうに双頭にそびえ立つ固そうな山。ソファの背もたれには花と思しきモチーフがいくつも縫われた布が掛けられている。バラ柄のクッションが置かれている。壁紙もバラの模様。壁に沿って二本伸びている細い配管も壁紙と同じ模様になっている。壁紙というものは配管にも巻けるものだったのか。

9月1日

昨夜未明、『富士日記』の中巻が読み終えられ、本日夕方、『ビジネス・フォー・パンクス』が読み終えられ、渋谷区の融資斡旋制度を調べたら「区の中小企業事業資金融資あっせん制度」というやつで融資金額2,000万円以内というものがあった。渋谷区でいいのだろうか、それともこの場合は新宿区だろうか。いずれにせよ似たような制度はあった。
開業のときもこれを利用して借りようとしたが、東京信用保証協会に信用してもらえず借りられなかったことを久しぶりに思い出した。なんとなく虫けらみたいな扱いを受けたような気がしたことを思い出した。二度と金を借りることなんてしないわと、願い下げだわと思ったことを思い出した。
40平米弱、フヅクエより少し狭い。メニューはフヅクエほど手広くはせず、コーヒー、紅茶、ビールも種類を絞り、お酒も種類を絞る。フードはカレーだけで定食はやらない。甘いものもチーズケーキだけでもいいかもしれない。そうすると冷蔵庫も今のようにコールドテーブルと縦型の二つを用意する必要もなくなるかもしれない。あれもいらないし、これもいらない。そうすると厨房は今よりもぐっと小さくてもいけるかもしれない。席の配置は箱の形にもよるけれども、同じ席数かもう少し増やすこともできるかもしれない。
本は、フヅクエに関しては「僕が買って読んできた本」という流れというか意味というかがあるから胸を張れるというか嘘がない、虚飾みたいなものがない気分でいられるけれど、そうじゃない本を無理に並べたら気持ちがたぶん悪い。意味というかストーリーがなければ多分気持ちが悪い。であるならば、空っぽの本棚を作って、「フヅクエ新宿のお客さんが読んできた本」というストーリーにしてお客さんの寄贈のものだけで作っていくというのも一つの手かもしれない。一人一冊というか、一人の人がすごいウェイトを占めるようなことになると違うから、一人が寄贈できる冊数は限定した方がいいかもしれない。寄贈の日付けと名前と何かコメントみたいなものがすべての本に貼られる。いつか千冊の本が並んだときに、その場所で過ごした千人による千冊だったらそれはけっこう物語だし歴史だと思う。
あるいは本はまったく置かないというのも一つのあり方かもしれない。そうしたら「ブックカフェ」と言われることもないだろうし、本の読める店に一冊も本が置かれていないという状況もまたむしろ潔いかっこよさがあるかもしれない。
というようなことをぼんやり考えながら働いていた。2,000万借りて、物件を借りて店にするまでに1,500万とか掛かって、そんなに掛からないかな、1,200万くらいかな、ランニングコストが毎月150万とか掛かって、とか考えると意味がわからないというか感覚がまったくわからないしそんなわからなすぎる手を打てるような人間では僕はないから僕にはやれない。でも、フヅクエが新宿のど真ん中にあったらそれは世界にとっていいこと、意味と意義のあること、世界の豊かさに寄与することだなとはとても思う。というようなことをぼんやり考えながら働いていた。

日付けが変わると雨はやんだ。寝る前は『富士日記』の下巻に突入した。

食堂の硝子拭き。夕焼でも虹でも花畑の花でもごはんを食べながらみられる西側の二枚の硝子戸は、ことさら念入りに磨く。主人はテラスで風に吹かれている。
「帝銀事件の平沢画伯が描いた絵で、日本髪結っためくらの女の人が鏡に向かっている絵見たことある? 『心眼』って題がついてるの。ずい分昔に一回しかみたことないけど忘れられないよ。あれ? この話、あたし前にもしたっけね。どういうわけか、硝子磨いたり鏡磨いたりするとき必ず思い出す。誰もいなければ一人で思い出しているだけだけど、そばに、とうちゃんがいるとついしゃべっちゃう」「もう何度もきいたぜ。しかし、まあ、しゃべりたきゃ、しゃべったってかまわんがね」。
「それで、また、この話をながくながくしゃべってしまった。 武田百合子『富士日記(下)』(p.12)

この夫婦はなんともいえないリズムで仲がよくて面白いし、武田百合子によって描かれる夫・武田泰淳の姿はぶっきらぼうで愛嬌があってかわいい。その描写に愛情を感じる。このいくらか後に泰淳が腹を下し、そのあと大岡昇平が腹を下すことがあり、持っていって一緒に食べた鱒寿司のせいなんじゃないか、と百合子は内心思うが言わないことにする場面があり、帰ったあとに泰淳が「大岡の下痢、本当は鱒ずしのせいかもしれないぞ。鱒ずしだと思っていると困るから、俺のはビールとクーラーだぞと何度も言ったんだ」と言う。
なんというか暮らしの様子を見ていると、原稿を持っていくのを忘れて一人で赤坂まで帰って往復するとか、夜中まで家にきた客の相手をした翌朝6時とかに家を出て運転するとか、夜にいきなり明朝帰るぞと泰淳が思い立って慌てて帰り支度をするとか、やっていることは大作家の過酷なアシスタント業でありマネージャー業という感じで、多分とてもハードだし、ただ静かで従順なだけの人だったら大変だったろうなと思うそういう仕事だけれども、忍従みたいな薄暗いものは感じられない。嫌なことには嫌だと言う感じがあるから、不満を溜めていくという様子もない。というのは日記から勝手に思うことで、実際にはどういうものなのかはわからないが。

今アマゾンのリンクを貼るために商品ページに行ったら帯に「13年」と書いてあるのか。それを見てしまったというだけかもしれない。そりゃ見るわ。と思った。知らなくていいよ13年なんて。今は1969年の夏だ。ここまで上中巻で5年。あと8年がこの一冊で一気に過ぎ去る。何が起きるのか。

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