本の読める店

読書日記(34)

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5月20日

早い時間に目が覚めて、どうもすっきりと目が覚めたのを感知したため起きることにした。それは朝の集中力の高い時間にこれまでやっていた書き書きの仕事というか仕事でもなんでもないのだけど小説を書くぞという自分に課したあれをやる、1時間とか早起きしてそういうことをおこなうそういう習慣を付けてみるのはどうだろう、朝が集中力が高いという話は人づてに聞いたことがあるだけで朝なんて眠いだけだと思っていたのだけど高いというので、であるならばいいのではないか、これまでは営業中の暇な時間であったり、あるいは休みの日は完全にそれに取り組む感じになっていたり、していて、なんというか時間の使い方が正しくない、余白がどこにもない、そんな感覚がここ二ヶ月くらいだろうか、続いていて、あまりよくないような気になっていたのでどうにかしたかった、昨日だって半休ではなく仕事の時間に完全になっていた、あまりそういう働き続けることはよくないような気がしてきた、閉店後の時間に試したこともあったがそれは体が完全に疲れている状態は頭は本当に見事なまでに働かないということを突き付けられただけに終わった、だから早起きしてやるということを試してみるのもまた一興ではないかとそう思っていたため、期せずして図らずも早く目が覚めたこの日にその習慣を始めてみるのもまたよいのではないかと思って起きた、起き上がって時間を見に行ったら6時過ぎだった。さすがに早すぎた! 3時間ちょっとしか寝ていないことになって、これでは一日がもつわけがなかった、それでやめることにして二度寝を試みたところどうにか眠りにつくことができた、と、妙な静けさを感じて目を開けて手を伸ばしてiPhoneを取って時間を見ると11時を回っていた! いつもは10時には起きるので1時間の寝坊だった。早起き習慣どころではなかったwwwと思って大慌てで慌てて大急ぎで急いで八百屋とスーパー行って店に着いて11時50分、間に合った、いや本当は12時に米が炊けていないとなのにそれはできなかった、早炊きで12時30分に炊けるようにした、まあそれで構わなかった。

「大切さと痛みが正確に比例している。ある意味、だからこそ痛みをじっと味わいつづけられるのだと思う」最初、この言葉の後段に私は釘を踏むような違和感を覚えた。不必要なほどのマゾヒズム、と思えた。だが、いまは真実を含んでいるとわかる。仮に痛みを味わうという言い方が正確でなくても、その痛みはもはや無益な痛みではない。痛みは、忘れていないことの証拠だ。痛みは記憶を味わい深くし、愛を証明する。「どうでもいいことなら、もともと痛みなんてない」 ジュリアン・バーンズ『人生の段階』(p.140)

『人生の段階』を読み終えた。生きていれば
と打っていたらとてもゆっくりでこれはバジェットに乗らないなと思っていたら18時から一気に忙しくなってゆうゆうと達成したのでたいへんめでたかったのでことほいだ。そして猛烈に疲れた。閉店して朦朧としながらハートランドを飲んで、ふぁふぁふぁふぁーと指が打ったところでトーキング・ヘッズの『Pyscoeooreokeilleerrr」を思い出したのでYouTubeで見たところやはりとてもよくて、それから「This Must Be The Place」と「Once In A Lifetime」を見た。『Stop Making Sense』のやつを見た。僕はこの2曲が大好き過ぎて本当に大好きで、見ているあいだ顔が本当にニコニコとほころんでというかニコニコと笑っていた。本当に好きだ。なんて親密でなんてチャーミングでなんて自由な、高度に洗練された自由な、演奏というか振る舞いなんだろうか。コーラスガール2人の素としか思えない笑顔とか動きとか、デヴィッド・バーンの奇矯で解放された動きとか、見ているだけで本当にうれしい幸せな心地になる。
『場所』を読み始めた。

これまでずっとうすうす感づいていた自分の欠点が容赦ない視線に晒され、いつになくこれを厳しく吟味せねばならなくなった。こうした突飛な状況で自分が無力なのは、かなりの程度まで、日常的な出来事に対してもやはり無力だからなのだ。 マリオ・レブレーロ『場所』(p.39)

5月21日

ヘリコプターのようなところからだったのか落下する男があって途中でパラシュートであるとかが開くような気配はない。それをしばらく見たのち彼は地面に墜落することがわかり僕は何かでその墜落する地点に向かった。これから墜落する。先回りする必要がある。墜落までは10分も15分も掛かるようだから間に合う。会場に着くと待合室には人がたくさんいて何かを待っていた、悲しみに満ちているとか悲嘆に暮れているとかそういうふうでもなかった、たぶん淡々としていた。順番が来たので待合室になっている建物から外に出るとワゴンか救急車があって、そのドアのガラスを隔てた向こうに敷地の外の道路に沿った塀があってその一番高いところまで大きな血のしぶきが飛んでいて、だから車体が目隠しになってくれたおかげでバラバラになっているのか潰れたようになっているのかの遺骸を見ずに済んだ、確認はその血しぶきで完了だった。「そうです」僕にあらわれた感情は悲しみだったか、取り返しのつかないことになったというか後戻りはきかないというかもとに戻すことはもうできない、というものだったか。落ちて死んだのが誰なのかはわからなかった。暗い時間だったのは確かだった。
夜、通りを歩いていた。先ほどの塀沿いの道だろうか。もう少し広い片側一車線ずつある道のような気がした。飲食店が並んでいた、どの店も大きな構えをしていた、チェーン店ではなく個人店のように思った。大きな構えというのは建物がどれも天井がものすごく高い、縦長に大きいという感じで、とても気持ちのよさそうな作りだった。たくさんの人でにぎわっていた。うどん屋か居酒屋のどちらかだった。道路に面した、だから店のファサードの高いところの少し高いところから一段こちら側に出っ張っているところがあって、出っ張りは少しずつ高いところに斜めに向かっていってそれが印象的だった。材木屋だったのか、少し行ったところで長い長い一枚板を購入しようとしている男があって、それを受け取って器用に持っていた。15メートルくらいはあった。10メートルくらいかもしれなかったし本当は5メートルくらいなのかもしれなかった。
やはり夜だった。僕は入り口のあたりにいた、交番みたいな作りの建物の入口のあたりにいた。向こうに歩道橋があって歩道橋とこちらのあいだには歩道橋くらいの高さの街灯が一つあった。向こうは木々の葉。歩道橋の下り始める箇所に若者が三人いて、僕は入り口のところから大きめの声を出して彼らと話していた。彼らはとても友好的な態度だった。iPodを使ったことがあるのか、話の最後に彼らに聞いた。二十代前半の男の子たちはiPodと言ってどれだけ通じるのだろう、という意識調査みたいな感覚だった。知っているけれど使ったことはない、そんな答えだった気がする。僕は名前の知らない年下の人たちにどう話しかけたらいいかつかみあぐね、「君たちさ」と言った。「君たちさ、iPodって使ったことってありますか?」というのが僕の言い方だった。やはり夜で、背景は紺色や木々の葉の黒色で、彼らは街灯に染まってオレンジ色だった。そういう場面だった。

悄然あるいは憤然とした気分はわりとすぐに消えて夜は漫然と『場所』を読んで過ごした。なんとも不思議な手触りというか、RPGのような世界だった。RPGのような、というのは雑すぎるかもしれない。

5月22日

細野豊による訳者あとがき。

最後に付け加えたいことは、lla,lle,lli,llo,lluの人名等における片仮名表記についてである。元来リャ、リェ、リィ、リョ、リュと発音されていたところ、時間の経過とともにスペイン語圏の多くの地域において、llaを例に取れば、リャからィアへ、更にはジャへと変化していく傾向が見られる。しかし、1974年から98年までの間、通算12年に亘って訳者がスペイン語圏(ボリビア、メキシコなど)に滞在した経験などからいえば、アルゼンチン以外の国々ではジャはいまだに大勢を占めてはいない。よって、この小説においてもアルゼンチン人が話す場面以外においては、伝統的な発音表記、リャを採用することにした。ただし、著者の父方の名字Castellanosについては、「自分の名前をいろいろな読み方で表記しないでほしい」との著者の強い要望を尊重して、やむをえず、すでに邦訳が出版されている『崩壊』(2009年、現代企画室)の表記に倣いカステジャーノスとした。 オラシオ・カステジャーノス・モヤ『無分別』(p.162,163)

スポナビライブのアプリにて朝ダルビッシュ有が先発していたレンジャース対タイガースの試合をいくらか見ていたところ、実況のアナウンサーが「カステヤーノス」と呼ぶ選手がタイガースにいた。そのあとに試合のことを伝える記事を読んだところ「カステラノス」と表記されていた。次にウィキペディアを見に行ったところ今度は「カステヤノス」となっていた。Nicholas A.Castellanos。出身はどこなんだろうと思って見るとアメリカ合衆国フロリダ州デイビー出身とのことだった。

いつもより2時間早く起きた。土曜日にし損ねて結局寝坊することになった早起きをして仕事をするということをやってみようと昨夜思ったので早めに寝ついて、あまりしっかり眠れなかったというかところどころで目が覚めていたのは「早起きをしないと」という意識からだったかもしれない。だとしたら、自分でやろうと思ったことに対してずいぶん真面目に反応していてなんというか頼もしい限り。ともあれ早起きができたためコーヒーを淹れて煙草を一本吸うと仕事に取り掛かった。2時間はもたなかったが1時間ちょっとのあいだ、はかどったと言えるのかわからないが、取り組んだ。朝は集中ができるという話に乗ってみた格好だが、本当だろうか。実感としては眠いだけだった。習慣になればまた違ったりするのかもしれない。習慣に、なるだろうか。週5日くらい、毎朝2時間を高い集中力でもし使えるのならば、それはなんというか、大きい。
それにしてもそれで思い出したのは村上春樹がピーター・キャットをやっていたときに閉店後にちょこちょこ書いていったのが『風の歌を聴け』だった、みたいな、たしかそうだと思うのだけど、何かで検索すれば出てきそうだが記憶だけでいいが、だった、みたいな、そういう話を読んだことがあるけれど、すごいなと思ったというかよく店の仕事のあとに書けるなと思ったというか、単純に頭が僕の場合はもう働かないなと思ったのだけど、だから村上春樹はきっと偉大だった。あるいは仕事のあとで集中力があまりもたなかったから『風の歌を聴け』みたいなわりと断章な形式になったという説はいかがだろうか。
なんで村上春樹を思い出しているかといえばやはりきっとあれだその「仕事」と称している小説の書き書きを、できあがったら群像の新人賞に出そうとしていることも関係しているのかもしれない。というかそうだろう。年齢もだいたい同じで村上春樹は30歳のときに群像新人文学賞を受賞している模様。僕は今31歳だっけか、まだ30だっけか、31かな、だった。だから大差なし。だからこれから追いつける。イスラエルでスピーチできる。だから村上春樹は夜に書き、阿久津隆は朝に書く。だから阿久津隆がフヅクエをやっていたときに開店前にちょこちょこ書いていったのが、なんというタイトルになるのだろうか、あの伝説のデビュー作だった、みたいな、たしかそうだと思うのだけど、何かで検索すれば出てきそうだが記憶だけでいいが、だった、みたいな、そういう話を読んだことがあるけれど、すごいなと思ったというかよく店の仕事の前に書けるなと思ったというか、単純に頭が僕の場合はまだ働かないと思ったのだけど、だから阿久津隆はきっと偉大だった。あるいは仕事の前で集中力があまりもたなかったから『 』みたいなわりと  な形式になったという説はいかがだろうか。

慣れない早起きのため昼過ぎくらいから頭がぼーっとしている。たしか仕込みであるとかをおこなっていた。まじめに取り組んでいて感心した。昨日の暑さで思い立って今年は水出しコーヒーを出そうということになったので昨夜注文したボダムの水出しコーヒー作るやつが発送され、珍しいことに到着は今日ではなく火曜ですらなく水曜の予定だそうで、ボダムはいったいどこから運ばれてくるのだろうか、と思っている。どこから運ばれてくるのだろうか。ボダムはどこで買われるのを待機していたのだろうか。ボアダム。
「ボアダムス」で検索しようとすると検索候補に「ボアダムス eye」「ボアダムス ヨシミ 結婚」「ボアダムス ヨシミ 再婚」「ボアダムス フジロック」「ボアダムス ヨシミ 離婚」と出てきた。ピーウィー。

マリオ・レブレーロの『場所』を読み終えた。最後、なんとも言われない乱雑な朽ち果てた部屋に光が差し込む様子がドノソの『別荘』を思い出させた。光が差し込んだかどうかは忘れた。埃がきらめきながら舞い上がって、床は水浸しになっていた。植物が繁茂し、もう少ししたら蛇であるとかの動物が勝手に動き回るようになるだろう。
次は何を読もう。なんとなく、もう一度『10:04』を読みたいような気が先週から起こっている。なんとなく行く前から諦めていた、どうせ読みたい本なんて見つからない、本は俺に囁きかけてはくれない、そう諦めていた先週の丸善で期せずしてジュリアン・バーンズとマリオ・レブレーロが「俺俺」と言ってきたから手に取ったものの、明日も同じようにことが運ぶとは思えない。だから、だからというか、それもあって、それもあってというか、なんだかまた読みたいから、『10:04』をもう一度読むような気がしている。そう書いているうちにそうはならないような気も起きてくる。何を読もう。というか、明日は何が「俺俺」と声をあげてくれるだろうか。テジュ・コールの『オープン・シティ』はさっぱり続報がない。本当に続報がないかとクレスト・ブックスのページを見に行ったら、明日は『四人の交差点』と『終わりの感覚』を買うことになるんじゃないかという気が起きた。『四人の交差点』はフィンランドのなんとかかんとかさんの作品だそうで、お客さんで読まれている方がいて、表紙がきれいだなと思っていた、その同じ表紙が見当たったので、それは何か少し惹かれるような気がした。『終わりの感覚』はジュリアン・バーンズの前のやつみたいだったので、また読みたいような気が起きた。『四人の交差点』はだけど取らないかもしれない。僕はフィンランドよりもイギリスとかアメリカとかのほうがいい。できればアメリカ。

営業の終わりまで『ブルータス』を開いていた。「お金の、答え。」というのが特集タイトルだった。お金の、答え。そんなものがあるならば知りたい。目標がないというのは本当にいけない、とは思う。欲望と言い換えてもいい。お金に限った話では当然ないというか、お金の話ではまったくない。
夜は散髪をして散歩をした。散り散りだったということだった。いい花を目撃した。本は読まないで寝た。

5月23日

向こうはビル群のそびえる朝方の川べりで手すりにもたれかかって二度三度とキスをして女は「満足?」と自身の腰に手を当てて尋ねたその態度があんまり素敵でクリステン・スチュアートだった。誰だっけ誰だっけあの人だっけと思ってあとで調べたらやはりその人でオリヴィエ・アサイヤスの『アクトレス』で助手役ですばらしい演技をしていた俳優で、すっかり素晴らしかった。ウディ・アレンの『カフェ・ソサエティ』を見た。
何かで『ラ・ラ・ランド』の裏表だみたいな、記事のタイトルだけを事前知識として持って見に行ったわけだったけど、見事に、本当に、裏表というか同じ話だった。ちょっと図られたんじゃないかというくらいに同じ幹のまわりを回っていて回り方はまったく別だった。
それにしてもラストが本当に素晴らしかった。なんというか、ジェシー・アイゼンバーグのどっしりと捉えられた顔を見ながら、そしてそのあとのどっしりと捉えられたクリステン・スチュアートの顔を見ながら、僕は「オーバーラップせよ!オーバーラップせよ!」と思っていたらまさにオーバーラップをしたそれはジャン・ヴィゴの『アタラント号』だったし、ラリユー兄弟の『運命のつくりかた』だったし、『私たちの宣戦布告』だった。そして、というか前後するけれどもニューイヤーパーティーの新年おめでとうを見ながら僕は「流れろ!流れろ!蛍の光!」と思っていたらまさに「蛍の光」というか「オールド・ラング・サイン」というらしい、スコットランド民謡らしいあの曲が流れてそれはテオ・アンゲロプロスのなんだっけか、『ユリシーズの瞳』だったろうか、あの素晴らしい素晴らしい素晴らしい場面、素晴らしく幸せでそれから素晴らしく悲しい残酷な場面だった。とにかくラストが素晴らしかった。なんという美しい終わり方なのだろうか。ジェシー・アイゼンバーグの顔がこんなにも素晴らしく画面に定着するとは知らなかった。彼は動いていない方が様になるのかも、しれなかった。僕はそれまで特にそういうモードではなかったが最後のその5分ほどの場面で一気に極まって涙していた。泣くことは僕の映画楽しむサインとして大きな一つなので、うれしかった。泣くことが、できた!痛みを感じることが、できた!

えっ!ほんとに!うそでしょ!えっ!えっ!
xxxちゃんが、xxxちゃんを誘惑したの。そういう、事件がおきたの
うそ!
ほんと
えっ!
えっ!!
えっ!!!
制御不能
つきあってんの!
でっぷりしたお腹のおじさんと若い女。丁寧語、女は仕事のやり方の不満をめっちゃ言っていて完全に怒気を含んでいる。

えっ!こわいい〜〜〜
あ〜〜〜〜こわいよ〜〜〜〜こわい〜〜〜〜(泣き声
こわい〜〜〜(肩が震え始めた

妊娠させたらおかしいよね。妊娠、してませんしてません。今から別れろとも言えないじゃん
いつから!
4月28日だって
え!最近!
えー怖い〜〜〜怖いよ〜〜〜〜(頭を抱えた
なにが怖いの、何が怖いの
怖い〜〜〜〜

怖い〜〜〜
なにが怖いの(サンプリングみたい

手を握ったwww

休みだったので休みで11時に店に行くと撮影というのか取材というのかなんと形容したらいいのかよくわからないものを楽しい時間として過ごしたのちにバスに乗って渋谷に出るとおにぎりを途中で食べておいしかった、山手通りをゆきながらおにぎりを頬張っていた、モノリスみたいなあの塔はなんなのだろうか。何が収容されているのだろうか。
寸足らずのスボンを買う、という重大なタスクをこなすために渋谷区役所前でおりてそうしたら目と鼻の先にビームスがあったのでビームスに行った。ビームスは去年とおととしの春夏に履いていた寸足らずのズボンを買ったところだったので、同じ寸足らずのズボンがあったらそれを買おうと思って行った、コストの削減だった、考えるコストの。そうしたら同じようなものがあり、店員の方が親切にも話しかけてくだすったのでこれとこれを履いてみたいと具申して履かせていただき、それで、前に履いていたのとは違う緑色というのだったか、暗い緑色、の寸足らずのズボンを買った、10分でキメられて僕は洋服の買い物は本当にしたくないことなのでその心理的負担が10分で済んだのでたいへん満足した。よかった。会計の際にこれは、なんというものなんですか、とお尋ねしたところ、七分丈のタイトなチノパン、といったところですね、というようなことを教えてくだすった。ビームスの方は親切なのできっとまた行こうと思った。今日買ったやつが前買ったのが2年×2シーズン毎日履いたところ破れたように2年後に破れたらビームスにまたおもむく予定だ。
それから紀伊國屋書店に寄って昨日の夜の段階で『終わりの感覚』と『四人の交差点』を希望していたのが昨日の深夜の段階で國分功一郎の『中動態の世界 意志と責任の考古学』と高山宏『近代文化史入門』を希望していたのが東浩紀の『ゲンロン0 観光客の哲学』と木村俊介の『インタビュー』を買って10分で出た。タスクを二つ片付けた。映画まであと13分だったためどこかでハンドウォッシュを買う、それで一気に三つ片付ける、と思ったがどこに行ったらいいのかわからない——目の前にロフトがある、ロフトに行けばありそうだが——と思い、あとに譲ることにしたそれで映画館にあがった。そのあとは前述の通りだった。

映画が終わるとMIDIだったっけか、そんな名前の複合施設というのか百貨店というのかどちらでもないのか知らないがそこに入り上の階の生活雑貨の方にも行ってみようかとも思ったが面倒というか早く済ませたい気になり一階のコスメキッチンで前も買ったことのあるやつを買った。レジに持っていくと、メンバー登録をすると5%引きになりますとおっしゃるので「え、じゃあやってみます」と言いながらやろうとしたがメールのところでつまずいて、そういえば同じことをヒカリエの店舗でしたことがあったことを思い出した、「前も確かこれでできなかったんでした」と言った。さらに何かのカードを作ると2000円分の割引ができるからこのハンドウォッシュも500円くらいで買えることになりますよとおっしゃるので「え、じゃあ」と、これは先のメンバー登録をやる途上で答えたのだが、メンバー登録に挫折した僕はもう面倒になって「あ、なんか普通に買います」といって2500円くらいだったか、普通に買った。これでタスクが三つ片付いたため気分を晴れ晴れとさせていつものカフェに行って仕事をした。今日はきっちりとすることができた。前述の会話はそのカフェで見聞きしたもので、夢中になってメモを取った。女がひたすら何かの文句を言っていて聞いているおじさんもそれなりの強い口調で諭すように話していて、二人は同じ会社というよりは別の会社で、でも同じ案件に携わっている、くらいの感じのように見えた、と思ったら「えっ!えっ!」を連呼するようになったので何事かと思って、そうしたら最終的に手を繋いでいたから意味というか脈絡がまったくわからなくなった。

11時過ぎに電車に乗ろうとしたところ座るために後発の電車を待っている人たちがいてそこをすり抜けて乗りこもうとしていた女性がいて、すり抜けられた後発待ちの女性がその女性に肘打ちをする場面を目撃して愕然とした。肘打ちをした女性はもう一人の女性と一緒でだから二人組で、とても苛ついた顔をして肘打ちをして苛ついた顔をしながら二人で違う場所に移っていった。いったいなんなのだろうというか、何がそんなに彼女を苛つかせているのだろう。それを友人か同僚かわからないが他者のいる横でやれるということもまたなんなのだろう。信じられないものを見た気になったと同時にマリオ・レブレーロがとても面白かったような気になっていった。そうだったかもしれない。

5月24日

水曜日。平日。少し暇な休日くらいの数のお客さんが来られておどろいた。一瞬満席になったりして、なんなのかと思った。体感としてとても忙しいというものではなかったが数字としてはあまりに上々だった。暇だった昨日の倍以上の方が来られた。均してほしい。というのは贅沢すぎるあれだが、なんだったのだろうか。夜はいつものように暇だった。
明日から水出しコーヒーを出そうと思っていて今日ボダムの水出しコーヒーメイカーが届いたので先ほど挽いた豆を入れ水を入れ冷蔵庫に入れた。明日飲むのが楽しみだった。

読書日記をひとつづきにまとめて縦書きにしたものをPDF化した、それをいくらか読んでいたところいちばん昔でも8ヶ月前とか、8かな、7だろうか、わからなくなったが、その程度の過去だけどずいぶん昔のことを読んでいるようで面白かった。年明けに「平日も昼からフヅクエをやろうかと思いついた」であるとかが書かれていて、やっているよ、と言いたかった。フヅクエはしばらくはこの形でいくだろう。しばらくはというか、これ以上に何かいいものが浮かんだらもちろん何か変わるというか僕の性格上変えざるを得ないけれど、僕に何かの思いつきがやってこない限りはこの形でいくだろう。そう、5月の終わりの時点では思っているよ、と1月の自分に別に聞かせたくはないが、聞いたら「そうか」と言う。「変わっていくもんだよね」

翌日のことを考えるとおかずを減らすわけにはいかないという、そういう量になっていたために夕飯は日高屋で食べた。昨日は松屋で食べた。夜は『インタビュー』を読んだ。すぐに寝落ちした。翌朝は早起きをするつもりでいた。するとまた緊張したというか、焦りみたいなものだろう、うまく寝れなくて何度も目を覚ました。「あ、電気つけ忘れていました!」という夢をそういえば見た。カウンターの照明をつけ忘れていて店内が薄暗い、そういう状況の夢だった。

5月25日

先日友だちと飲んだときに「俺読書日記をなんらかの形で本にしたいんだよね〜あれめっちゃおもんない?」と話して「あれ一冊になって延々と続いてたらめっちゃ凶暴な感じでなんかやばない?」と話して、それは読んでみたいねということだったので「ちょっととりあえず縦書きにしてみるわ超楽しそう」と話して、昨日そうした。最初は今これを書いているUlysses上で全部をまとめた状態で表示してクリップボードにコピーしてワードの所定のスタイルにしたテンプレートに流し込んでPDF化すればいいかと思っていたのだが、それをやるとここではリンク用のタグとかも一緒に書かれていてそうすると無様になるということがわかったのでブログにアップされているものをコピーしてテキストエディタに貼りつけてを33回繰り返して、それを流し込んでPDF化した。それをなんとなしに読んでいたらどんどん楽しくなってしまい、これはもう少しきれいにしようと思って半角数字を漢数字にしたり全角にしたり、英字をやはり必要に応じて全角にしたりということを、なんでだかさっきから一時間以上ずっとやっている。それでやっと12月に入った。途方もない。果てがない。果てはある。

早起きをした。8時にアラームをセットしたが何度もスヌーズをして先延ばしにしてそれでも8時半くらいには起きて、それでコーヒーを飲んで仕事をした。少し進んだ。毎日これをやれたらとてもいいと思う。今日はそこまで眠気を感じていない、今は夕方だった。
ずっとその、半角数字を全角は漢数字にしたり、という作業をやっていった、のはしかしいったい、なんのためなのか、本当にバカらしい、と思いながら、ざっくりと視界が半角数字を捉えるような運動をずっと続けていたら目がシパシパしてきて、どうにか2016年の3ヶ月分を全部変更することができた。それから日付けの数字と書誌情報にスタイルを適用する作業をして、これで2016年の3ヶ月分は全部とってもきれいになった。たいへんうれしい。なにがうれしいのかわからない。しかしこうやって縦書きに変換していくことを考えると今も2016年と書かずに二〇一六年で行くべきなのではないか、と思ったりもしたがやはり横書きで二〇一六はけっこうしんどいところがあるというか完全にしんどいし字面としても態度としても気持ちが悪いから2016だろう。3ヶ月分、これとかは三ヶ月分でも横でもなんら問題なく読めるから、簡単なものは漢数字にしていくべきだろうか。しかし何がべきなのだろうか。ともあれしかし、横書きと縦書きで本当にフィットする表記は異なるものだなあという、実に素朴な発見をしていた今日だった、今日は変な疲れ方をした。

横になってから『インタビュー』を少し読んだ。ウイスキーを少し飲んだ。

5月26日

早起きはできなかったが朝の準備が簡単だったため40分ほど仕事というか小説を書いていた。なんとなく勝手に話したり動いたりし始めた感じがあってうれしい。と思っているとすぐに黙り込むのでまた最初から書き直す。そういうことを繰り返している。

忙しいでも暇でもない感じで淡々と時間が過ぎていった、ずっと何かしらのことをしていたら日が暮れていって、朝は雨だったしそれからも曇りだったので一日薄暗く嬉しいか悲しいかでいえば悲しい一日となっている。双肩が重い。双肩というととても頼りになりそうな感じがあるが、今日の俺の双肩は妙に疲れていて重い。
今週は本当に全然本を読んでいない。火曜日に二冊買ったが『インタビュー』をちょびちょび進めるというかつまむだけで、ぐっと読書に入り込むような感じにまったくなっていない。この状態がつまらない。本をがぶがぶと煽るように読みたい。
昨日の夜インスタグラムにフヅクエブックスで置いたジュリアン・バーンズの『人生の段階』の写真をあげて、そこにハッシュタグ「#julianbarnes」等をつけた。そうするとそれを踏むと世界中のジュリアン・バーンズの本が出てきて、ハングルやスペイン語やイタリア語やドイツ語やもちろん英語や、さまざまの言語の表紙が見られて面白い。デザインもいろいろと当然異なり、異なりながら少しわかるような感じも面白い。たぶん作家によっては「アメリカの人なのに最近は妙にフィンランドで読まれているのな、最近あたらしく出たのかな」みたいなこともありそうで、そういうのもとても面白そうだった。先日飲んだときに教わって、それでさっそくやってみた格好だった。そのときに見せてもらったのはアレホ・カルペンティエルのハッシュタグだった。
このなんというか一冊のあるいは一人の作家を通して世界となにかつながるというか何か触れ合うような感覚に惹かれたのはもしかしたら先週だったかの『10:04』と『ストーナー』に「僕この本すごい好きなんだよね〜」と言ってきて僕は「アイライクザベスト」と答えたあのやり取りを経たからかもしれない。そのときになんというか妙なうれしさがあった、それがよかった、それをオンラインに移してやってみた、そういうことかもしれない。いずれにせよなんというか、インスタグラムを使っていて今まででいちばん胸がときめいた出来事のような気がする。

水出しコーヒーは試行した結果お茶パックで作ることにした。ボダムを買ったのは完全に早計だった。僕はそういえばフレンチプレスで淹れたコーヒーはあまり好みじゃないんだった、というのを買って作ってみたあとで初めて思い至って愕然とした。本当になんというか、こうと思ったら制御できないというか立ち止まらないのは本当にダメだなと反省した出来事だった。なぜボダム一択だと思い込んだのだろうか。少し検索すればハリオでもなんでも出てきたし、そもそもお茶パックで試してからでもよかったはずなのに、「こうだ!」と思ってすぐにボダムをポチっていて結果がこうなのだから、バカみたいだった。ボダムを誰か買い取ってくれたらうれしかった。

夕方までコンスタントな感じだったのでこれはいけるかなと思っていたら夜にまったくぴったり止まってしまってバジェットには乗らないことになった。残り2時間。まず無理。変な週となった。平日は今月はまったくの閑散だった、惨憺だったのが、昨日おとといがおかしかった。おとといは明るい時間に来られていた方は「ずいぶん人が入っている店なんだね」となって、暗い時間に来られていた方は「この店は大丈夫かいな」となって、昨日は明るい時間に来られていた方は「この店は大丈夫かいな」となって、暗い時間に来られていた方は「この店は大丈夫かいな」となった。今日はコンスタントに人が少ない状態が続いていた、そのためやることがなくなったら木村俊介の『インタビュー』を読んでいた。

私が自分の仕事をするうえでの「ねらい」のようなものも生まれてきている。長い取材を中心にしてインタビューをして、声の感触も残してまとめることによって、音楽でいうならアメリカのラップがとくにこの二十五年間ほどのあいだにかなりパワフルに切り拓いてきた「時代性と、一回限りの勢いをこめた声のリアリティ」に近い領域を、この日本だからこそちがう道具を用いてまた別の価値を持つものとして深めていければいいな、という個人的な思いだ。 木村俊介『インタビュー』(p.65)

なんでこの本を取ったのだろうか。インタビューの考え方を知ることで聞き上手になりたい、とでも思ったのだろうか。思った気がする。
寝る前の時間でちまちま読んでいてここまでのところ静かでとても弱いかすかな声が発されている、丁寧に水滴で石を打つみたいな調子が鳴っている、そういう感じがある。なんというか、とても不思議な異質な読み慣れない日本語だなと思いながら読んでいる。テンポみたいなものに戸惑っている。その戸惑いも読み慣れなさもだんだん慣れてきたのか、それとも話されている話が単に響いたのか、次第に面白くなってきた、というかちょうど今は面白い。

疲れたので銭湯に行って体を休めながら考え事をして帰って金麦を飲んで『インタビュー』を読んですぐに寝た。まとまった時間読書したい。

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