fuzkue(フヅクエ) - 一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店

読書日記(31)

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4月29日

11時10分プレイボールのドジャース対フィリーズの試合が始まったことに11時26分に気がついて中継を見に行くと前田健太が2イニング目のマウンドに立っていてまだ点は取られていなかったし球数も少なかった。調子よく立ち上がったらしかった。なんとかという名前の打率のいいバッターに対して初球、キャッチャーが外角低めに構えるとボールはまるでミットに吸い寄せられないように右打者のインコース、高さは真ん中あたりに放られた。見逃しでストライクだった。2球目はインコースの要求に対して外角低めに外れた。前田だけ違う時間を生きているようなそんな2球だった。それからファウルだとかボールだとかがあったのち、高めに構えたキャッチャーの、今度は要求通りの高さに投げ込まれたフォーシームが空振りを奪い、その回は終わった。たしかそんな感じだった。それから店が始まって、1時頃だったか2時頃だったか、どうしているかなと思ってスコアをみると6回2失点90球というところだった。素晴らしかった。「ケンタ、どうしたい」と監督が聞くと前田は「生きたいです」と答えた。すぐに「行きたいですの間違いです」と通訳を介して監督に伝えた。今回の登板はかなり最後のチャンスの感じがあった、これまでの前田は散々だった。今日ダメだったら降格か何かになっていたはずだった。前田自身、どうしたらいいのかわからないようなコメントをしていた。全然感じはよくないのですが、明日は結果を残さないといけない、たしかそんなことを言っていた。これだけ後ろ向きで正直なコメントというのもあまり見たことがないような気がした。それで迎えた今日だった——
そのあとにまたスコアを見に行くと、なんと7回もマウンドに上がり、そして0に抑えた。途中で2塁打を打たれたのでピンチをがっちり抑えた、という感じだったのだろう。7回102球とか、2失点。まったくすばらしい結果だった。僕はなんというか、たいへん感動してしまった。 メカニックというけれど、本当になんかこう繊細ななにかがなされているんだろうなと、と先日ダルビッシュに関する記事を読んで思ったことを思い出した。

実は、15日のブルペンでは、またエンゼルス戦とは違う感覚を試した。これが、「すごい良かった」そうだが、17日の試合後に本人が言うには、そこに落とし穴があった。 「ブルペンが良すぎたという話をしましたが、そのブルペンはこれまで自分が投げている感じとはかなり違って、そういう感じであまり投げたことがないから、大丈夫かなっていうのがあった」 そしてこう続けている。 「試合前に(ブルペンで)投げたけど良くなくて、最終的にエンゼルス戦のやつに戻したんですけど、前回のブルペンが今までとは感覚が違いすぎて、前回のブルペンで頭をそういう方向に使いすぎたから、その前のエンゼルス戦とは全然違うわけじゃないですか。そこが頭の中ですごい混乱していたのかな」 ダルビッシュの捨てる勇気成功体験にとらわれない思考法 - スポーツナビ

この「エンゼルス戦のやつに戻した」というところが僕の中ですごく新鮮なフレーズで、身体の動きの細かな違いをしっかりバージョン管理している感じが、なんか面白かった。webのリニューアル作業のためにgit hubを秋のころに使っていて最近はまったく触れていないのですっかり忘れたのだけど「git hub化する身体」というところだった。git hubがなんなのかというのはいまだによくわかっていないのだが。

先週の分を更新するので誤字脱字のチェックで読み返していたところ先週の土日月あたりに著しく消沈している様子が書かれていておかしかった。後半の方はそんなことはすっかり忘れているようだったし、また、前半で営業中に小説の執筆を進めることがどうしてもできない、と書かれていた次の日かその次の日かには営業中にとにかく進めていく、ということが、やはり進めることができないと書いたことなど忘れたかのように書かれていておかしかった。なんでもかんでもすぐに忘れながら生きている、それはいいことかもしれなかった。
僕はいま土曜日のただなかにおりずっと暇だったが席は大方いつのまにか埋まっていって、またどこかの瞬間からほどけるように空いていくのだろう。先週読んだ滝口悠生の『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』はとてもよかった、とてもよかったというか、そこで見た景色であるとか出来事であるとかをこれから先まるで自分に起こった出来事の記憶みたいにうっすらと思い出すことがありそうな、そういうことだった。去年読んだ『死んでいない者』もすごくよくて、それで他の作品もきっとと思って取ってみたわけだけど一年前に一冊読んだそれしか知らない作家でも文章の手触りみたいなものがやはり通じているのか読み始めた途端に『死んでいない者』の感触を思い出したそういう文章だった。そのことを今、パソコンの縁のすぐ上に横たわったその小説を見て思い出した。その上には内沼晋太郎の『本の未来をつくる仕事/仕事の未来をつくる本』があった。昨日思い立って少し読んでいたところだった。明るいこの本が僕はとても好きだったことを思い出した。その上に青山ブックセンターのカバーを掛けられた『民のいない神』が置かれている。夜な夜な、少しずつ読んでいる。常に面白い。

8時ごろだったか、満席になった。満席になって、お一人来られた。僕は満席である旨を伝え、外に一緒に出てから「空いたらご連絡するとかはできますけど」といういつものことを言っていた、ご連絡先をうかがい、中に戻った、すると、一人帰られようとしている方がいた、僕はその方にちょっと待ってくださいと伝え、外に出、きょろきょろすると先ほどの方がおられたので駆け寄り、空きました、と伝えてまた店に戻った。そのため再び満席の状態が維持された。満席のなか、お一人来られた。僕は満席である旨を伝え、外に一緒に出てから「空いたらご連絡するとかはできますけど」といういつものことを言っていた、その方はまた今度にしますと言って帰っていった、中に戻った、すると、お客さんが「僕もう帰りますよ」と教えてくださった、それが何かに促された感じの判断ではないかを確認し、そうじゃないということだったので僕はその方にちょっと待ってくださいと伝え、外に出、きょろきょろすると先ほどの方がおられたので駆け寄り、公園の道に入っていったので公園の道に入り、その方を追い抜いた、僕は駆け続け、公園が終わると歩きだした。
幅の狭い道に出た。右手には木々が昼は緑なのであろう黒色でときおり立っている街灯に照らされていた。茂っている葉の向こうに川が流れているらしくたしかに水の音が静かに鳴っている。それがずっと向こうまで続いていて、途中でふいに左側が広くなった。工事中の道路が音もなく横たわっていて、ガードレールくらいの高さに渡されている鉄パイプを跨げばそちら側に行くことができたためにそうした。広い黒い道路は後ろも前もなにも走行していなくてずっと向こうからずっと向こうまでずっと続いてそうに見えた。靴の裏が感じる質感が変にマットでソフトで、指で触ってみると普段歩いているアスファルトの感触と変わらなかった。工事中の道路は左半分に腰くらいの高さのコンクリートだかなんだかが設えられていて、台形になっていたら一段違いの道路になる様子が想像できたが、片側だけがその高さで作られていた、もう片側はもっと低い高さだった。変な防波堤みたいだった。その上を僕は歩いて、道を挟んで見えるのは住宅街で、まさかここに道路ができるとは思っていなかった施主たちは川のある緑道に向かってテラスや縁側を作っていた。これからはそこで茶を飲みながら走行していく車を眺めることになった。
向こうにオレンジ色の街灯が見えて工事中の道路に沿ってずっとあった緑道が途切れると、高速道路の真下に出た。高速道路の真下は車道にはなっていなくて整備されていない感じの砂利道が、人が通れる幅だけ開けられたフェンスの向こうに広がっていた。そこを歩いた。どれだけの数の車が上を走っていたのか、持続音として聞こえてくる走行音はあたりの静けさをむしろ強化する、際立たせるような響き方をしていた。砂利道の終わりのあたりで右手がぼんやりと明るくなった。それは屋根のある駐輪場でぎっしりと自転車が置かれており時間が止まったような不思議な静謐さをたたえていた。それはマンションの駐輪場で見上げると10階建てほどの建物が空をつぶしていて、廊下と階段の照明が全体をぼんやりとしたオレンジに彩っていた。光をぼんやりとさせていたのは周囲をぐるりと足場が覆っていたためで、足場は僕は見たことがこれまでなかったような細かい作りをしていた。足場というと縦横だけで構築されているイメージがあるのだけどそれは斜めにも渡されていて、それが景色が細かく刻まれているような印象をもたらしていた。そこを抜けると高速道路の真下にフェンスに囲まれたフットサルコートがあったり、どん詰まりの壁にグラフィティが描かれたりしていて、そこは砂利ではなく舗装された広場のようになっておりスケボーをするにはうってつけのように思われた、というのはグラフィティを見たから働いた連想でしかなかったが。その広場の壁で高速道路下のつながりは終わっているようで左はカーブを描く道路が通り、右には団地があった。団地には公園があった。真ん中になだらかな人工の山があり、そこを上がった。団地のどの部屋もあかりを灯してはおらず、公園にも人は一人もいなかった。ここまでずっと、誰ともすれ違わなかった。ただ公園は昼の名残りなのか子供の遊び声のようなものが弱く反響し続けていて、幼いときのいくつかの記憶がはっきりとした輪郭を伴って思い出された。
そのまま公営住宅街のような、いくつもの団地らしい建物にはまされた小道を歩いていくと見知った道にぶつかって、もう少しいくと初台の緑道公園に出た。公園のベンチにも人はおらず、抜けて出た駅前の通りもやはり人は見当たらなかった。店に駆け足で戻るとお客さんはすでに全員帰られたようで、薄明るい店内には人々の過ごした静かな時間の形跡のようなものが、ちょうど足首ぐらいの高さのところに漂っていた。

4月30日

朝からすごいものを見た。「MLB - スポーツナビ」を開くと今日はダルビッシュが投げていることがわかり、スポナビライブのアプリで中継を見に行った、4-2でレンジャーズが勝っていた6回表だった、無死1,2塁のピンチだった、球数は100球を超えていた。プホルスから三振を奪い、1死1,2塁となった、それから四球を出して満塁になった、どうも3人のランナー全員が四球によって出してしまったもののようだった、110球を超えていた、僕は見ながら状況もピンチだけど、それ以上に球数こそがどんどん迫ってくるリミットとして切迫感を与えてくるものだと感じていた。いつ降ろされてもまったく不思議ではない、というか、監督の判断として降ろさないといけない、というものにどんどんなっていく。アナウンサーの言葉も球数について言っているらしいものが増えていくし、ベンチにいる監督の姿が何度も映される。そして次のバッターが内野のファウルフライで倒れた。122球。なんと。続投だった。球場も驚いていた。歓声が轟音のようになっていった。監督が映される。アナウンサーは「make decision」と何度か発した。監督はコーチと話をしてからペットボトルから水を飲んで笑みを浮かべて水を吐き出した。そしてダルビッシュは迎えた打者を3球でセカンドゴロに打ち取ってピンチを切り抜けた。大歓声が沸き起こる。ベンチに戻るダルビッシュ。熱烈な歓迎。ダルビッシュは「もーほんともー俺バカ!」というようなきまりの悪そうなようにも勝手に見える顔つきでハイタッチをしながらベンチのなかを進んでいった。125球。それはダルビッシュがひたすら自分で作った——状況にしても球数にしても——ピンチを自分でなんとかする、そういう場面だった。球威は最後まで衰えず、力強いボールがミットに行き続けた。僕はそれを見た。そういう朝だった。

夜は疲れ切っていた。頭がまったくぼんやりしていて酒を何杯か飲んだらやっといくらかクリアになった。回ってきたマリファナを何口か吸って、それからマー・ジョウニーとクラーク・デイヴィスが先導する祈祷を一緒に唱えた。しかし、母船までたどり着いた者は驚くべき経験をする。そこで浴びる光線によって精神は活性化する。青い光線、緑の光線、紫の光線、そして高次元のあらゆるコミュニケーションを伝達する原始光線。体の細胞が再生される。あなた方は二百年生きるだろう。二百年。その言葉をつぶやいた瞬間に僕は自分の人生がアトピーとともにしかない、というか、僕はアトピーとともにある人生しか生きることができない、ということになぜか思い至り、悲しさではないが、惜しさのようなもの、アトピーのない人生というものを生きることをしてみたかったというような、なんともいえない気持ちになった。しかし続けた。
恐れるな!

彼らは道路の脇に作られた小さな駐車場に車を置き、ラージをベビーカーに乗せて、岩に向かって歩きだした。地面はでこぼこしていて、子供の乗ったベビーカーはやけに重かった。リサはベビーカーをジャズに任せた。ジャズはシシュポスになった気分で、眠った息子を押した。道は溝を越え、穏やかな上り坂になった。所々にクレオソートブッシュがあった。靴の下の砂利の音と、ベビーカーのベアリングがきしむ音以外は何も聞こえなかった。ジャズは意識の隅でかすかながら高周波の音を聞いた気がして、空に飛行機雲を探した。晴れたセラミックブルーの空には高い所に完璧な円盤形のレンズ雲が浮かんでいた。ふわふわの宇宙船みたいだ。彼は肉眼でそれを見ようとしてサングラスを外し、光の壁に打たれた。世界が真っ白になった。あらゆる色彩が強烈な陽光によって漂白されていた——リサの緑色のホルタートップも、ベビーカーの赤いナイロン製のフードも。まるで露出過度の写真の中を歩いているみたいだった。 ハリ・クンズル『民のいない神』(p.183)

5月1日

夢を見た。町にいた。
それしか覚えていなかった。手応えはなにかあったが、それを言葉にするすべを僕は持たなかった。全身が疲れていた。昨日の夜は『民のいない神』を読みながら金麦とウイスキーを交互に飲み続けていた。夜になると施設のあかりは全部落とされるが、無数に設置されたテントの中を明るくさせることは禁じられていないためまったく不便はない。トイレや喫煙のためにテントの外に出るとぼんやりとした光がどこまでも広がっていていつも気分がよかった。
『民のいない神』は引き続きすごく面白くて、営業中も暇な時間にそういえば開いていた。ラージがいなくなり、今度は1870年に戻って男がピナクル・ロックに囲まれて息絶えたところで昨日は本を閉じた。もう一杯ウイスキーを飲んで体を眠りのなかに落とすべく寝袋からボトルに手を伸ばそうとしたとき、ドーンが音も立てずにテントの中に入ってきた。ボトルを拾い上げ、直接ひと口飲んだ、それから俺に手渡した。どこかのテントでBig Boiの『Vicious Lies and Dangerous Rumors』が流されているらしく、小さな音がここまで届いてきた。すぐにそれがBig Boiだとわかったのはちょうど今朝俺も聞いていたからで、久しぶりに聞くそのアルバムは全体を通してとてもよかった。おかげで朝から気分よく生きることができた、だからすぐにわかった。
ドーンは寝袋のなかに体をねじこんできた。音も立てなければ言葉も発さなかった。彼女の体は冷たく、肌がざわざわと粟立っていた。それはどれだけ時間が経ってもどれだけファックしても変わらなかった。ドーンは俺の体にぴったりと腕を回したまま寝入り、ときどき言葉になっていない寝言をつぶやいていた。光の子ライト・ワーカー、そう言っているように聞こえるものが何度かあった。俺はドーンの腕を振りほどいて肩を揺すって起こすと自分のテントに帰って寝るように言った。ドーンはそれを嫌がった。何かに怯えているような顔をした。何か問題があるのか?そう尋ねると言葉を濁したが、そのまま帰した。施設からドーンがいなくなった、そのことを知ったのはずっと後になってからだった。

まったくバカなことをやっていた。体が肩から全部重くて疲れがまったく残っていたため一生懸命仕込み等をやって夕方前には落ち着いて、お客さんも少ないし、というところでまた小説を書こうとしていた。僕は今10月末が締め切りの群像の新人賞にでも応募しようと思って小説を先月とかから書き始めたところで、群像は250枚上限なので250枚くらいがんばって小説を書こうというところで、目標を定めないと何もやらないからいろいろな段階に締め切りを設けて一生懸命取り組むために自分にそれを課してちゃんとおこなうように監視しているので、それでなんだかヒイヒイ言いながら暮らしているのだけど、それをだから今日もやろうとしていた。
書くのは先日購入したUlyssesで書いていて、横書きだしフォントもゴシック——ヒラギノ角ゴシックW3——にしているのだけど、書く分にはなんだかこれが今の僕には性に合っているのでこれがいいのだけど、たまに書いていることのあれやこれやが散らばってどうしていいかわからなくなって章ごと俯瞰したいようなときがあって、そういうときになんとなく縦書きで明朝体にしたPDFの形で見たくて、そういうときこれまでは「クイック書き出し」で.txtのファイルに書き出して開いてコピーして、雛形にしているwordのファイルを複製してリネームしてそこにテキストを流し込んで、名前を変えて保存でPDFにする、ということをしていた。それをもう少しなんというか効率的にできないだろうか、と考えたところ、ブログに使う用に写真の横幅を800pxにする作業をさせるのにAutomatorというアプリなのかなんなのかを使ってそういうワークフローだかなんだかを実行させているのを思い出し、それでできないだろうか、というところで画策し始めた。それで2時間ほどあれこれやっていたところ、
・command+6+enter(クリップボードにコピー)
・雛形ファイルを「text2docx.app」にドラッグ(雛形ファイルを複製、リネームし、wordを開き、コピーしたテキストを流し込み、保存して閉じる)
・作成されたファイルを「docx2pdf.app」にドラッグ(wordファイルをPDF化し、wordを終了させる)
以上の3工程で済むようになった。本当だったら下の2つは一気にできたらよかったのだけど、PDF化する作業でAppleScriptを実行というのをやっていてその中身が拾ってきたやつでまったく意味もわからずただコピペしているだけで、これの意味がわかれば一気に走らせるみたいなこともできるのだろうけど、わからないので無理くりやろうとしたらエラーが出たので、2段階に分けた。気持ちがよかった。いや本当の本当であればクイック書き出しでPDFに書き出せるのだけど、縦書きに、気持ちのいい見え方で書き出す方法がわからないというのと、マークダウンがなんちゃらのなんちゃらなのか、空白行を認識してくれない、詰まってしまう、それについてどうやったら対処できるのかわからない、というのがあって、それでこういうことになっている。ともあれ気持ちよかった。そうしていたら夜が更けていって、書く気なんかはとっくに失せて、9時には誰もいなくなって、経理をやっていた、経理をやったあと昨日の夜中になぜかトイレで「そういえば」と思い出してAmazonでポチって届いた本を読んでいた。これはオラシオ・カステジャーノス・モヤの大好きというか僕にとってエポックだった『無分別』の題材になっているグアテマラのマヤ民族虐殺についての報告書の、たしか抜粋だったと思う、ずっと読んでみたいと思っていたのだがずっと買っていなかった、それがなぜか、昨夜トイレでポチられた、それを読んでいた。「REMHI(レミー)」と呼ばれる、「人権侵害被害者の証言を収集した「歴史的記憶の回復プロジェクト」がどのように進められたのか、のところにこうあった。

全国のカトリック司教区が協力する形で、「アニマドーレス」(animadores de reconciliacion)と呼ばれる650人の調査員が紛争犠牲者の聞き取り調査を担った。アニマドレースとは、「勇気づける人々」、「働きかける人々」を意味し、文化や言語、恐怖の体験を紛争犠牲者と共有する、村々の志願者のなかから養成された。アニマドーレス自身が犠牲者であったケースも少なくない。 歴史的記憶の回復プロジェクト編『グアテマラ 虐殺の記憶―真実と和解を求めて』(p.11-12)

2番めだけ「アニマドレース」となっているのは誤植だろうか、ともあれ、学者であるとかでなく村々の志願者が聞き取り調査をおこなったということに心動かされるというかゾクゾクするところがあったのだけど、animadoresの意味がとても素敵だった。勇気づける人々、働きかける人々。働きかけることは、そうか、勇気づけることなのか、と、なんだかとてもぐっとくるというかゾクゾクするところがあった。
まったく暇なままに一日が終わり、白白とした光の下に出て『民のいない神』を開いていた、するとページを抑えるために突っ張った両手の親指がやけに黄色く見えて、肌が黄色くなる症状、黄疸とか?と思って不安になった。デイトンが嘘をついて先住民の男が追い詰められようとしている。俺は昔の人間の走り方を心得た。どんどんとズブズブと面白い。金麦ではなくサントリーのブリュワーズなんとかというシリーズらしいビールを買ってみて、飲みながら、興奮しながら、夜が更けていった。声が聞こえていた。その声が言っていることはどうやら恐れるな!ということらしかった。砂が中央に吸い寄せられていくように眠気の穴のなかに落ちていったら闇になった。

5月2日

起きたら1時近くだった。夏だった。買い出しをして店に寄って、それから最近いつも行くカフェのような店に行って6時間くらいのあいだ座る、ということをおこなっていた。
夜、『民のいない神』を読んで、それから寝る前、『グアテマラ 虐殺の記憶』を読んだ。それが休日だった。

5月3日

5連休の始まり。それなりにビビっているところがあり、普段の週末くらいの感じがもし5日続くのだとしたら非常にありがたいと同時にけっこうヒイヒイ言うことになるだろうなというところで恐れているし、暇な日が5日間続くのだとしたらそれはきっと楽ではあるだろうけどいろいろと悄然としちゃうなというところで恐れている。どちらに転んだ場合を想定しても恐れているということだった。その立ち上がりは極めてゆっくりなものになった。後者に転ぶのだろうか。まだ、5日間60時間のうち2時間しか経っていないところなので、四の五の六の七のいっても始まらないというか始まったばかりだった。

「土曜日が暮れる頃、もう人の姿は見られず、人のいなくなった家々はみな悲しんでいました。」
5連休の初日は今年で一番暇な休日として過ぎ、終わった。途中は『グアテマラ 虐殺の記憶』を読んでいた。家々はみな悲しんでいました。僕は途中で悲しくなりながら、終わりの頃にうれしいことが続けてあったためうれしい一日として済ませることにした。1971年、施設は破壊され、ドーンの暮らしは壊れていった、その37年後、その町に暮らすイラク人の少女は米軍基地に伯父と向かった。彼らは2ヶ月間、イラク派兵を控えた兵士の訓練として模造されたイラクの町でイラク人の役を演じる仕事に就こうとしていた。少女の父親はイラクで殺された。少女に割り振られた役柄は父親を殺された少女というものだった。ウイスキーをがぶがぶと飲み込むと眠りのなかに引きずられていって、朝まで覚えている夢を見てそのあと忘れた。明け方、肩の重さで目を覚まして目をつむりながらストレッチをしてもう一度眠った。疲れが溜まっているのかもしれないと思ったのち、昨日がとても暇な日で、その前日が休日だったことを思い出し、呆れた。ライフをうまく積み上げられない。

5月4日

昨日以上にゆっくりしたスタートだったためゴールデンウィークは暇ということに決定することにして他のことをしようとしていたところ3時くらいからとことこ来られて結果的にちゃんといい日になったのでシンプルに喜んだ。日ハムがロッテに3連勝した。加藤が前回の登板に続いてすばらしい投球を見せたようで、それから淺間が打ったようでうれしい。淺間にすごい活躍してほしい。淺間の咆哮する感じがすごい好き。淺間が好きだ。浅間大基。まだ20歳か。何年も前から見ている気がするから22歳くらいにはなっているかと思ったがまだ20歳か。3年後くらいには完全な主軸になっていてほしい。なぜなら活躍して咆哮する淺間の姿を何度でも見たいからだ。

5月5日

朝思いついたことがあってExcelをいじっていた。そうすると数字がはじき出された。昨日の夜も思いついたことがあってExcelをいじっていた。そうすると数字がはじき出された。自分がどうしていきたいのかわからない。どうしていきたい。どうやって行きたい、なのか、どうやって生きたい、なのか、なぜ生きたい、なのか。

光の子が生きて帰ってきた。それを私は暗視スコープで見た。

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