fuzkue(フヅクエ) - 一人の時間をゆっくり過ごしていただくための静かな店

読書日記(30)

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4月22日

朝起きた瞬間から体が疲れていてバカかと思った。昨夜は銭湯に行って体をゆっくり休めたつもりだったが、そのあとラーメンをどこかで食べようと思っていたためそれで気が焦ってあまりゆっくり湯船に浸からなかった、それが原因かもしれない。あるいはラーメンが、僕はほとんどのラーメンは、というよりラーメンというものはおいしくいただけるものだと思っているのだけど珍しいことに食べながら「全然おいしくない」と思って食べた、そのせいかもしれない。ただ腹が膨れるだけで、なんとなく気分悪い思いをしながら食べていた。もちろん野球の記事を読みながら食べていた。長い間、私は早くから床につかなかった。

私は小説が私自身の眼から見て三つの使命を果たしてくれるよう要求することはできます。第一の使命は、私が自分の愛する人々を語ることを可能にしてくれることであって(サドのように。そうです、サドは小説とは愛する者を描くことにあるといっていました)、私が彼らを愛すると彼らにいうことではありません(それでは、まさに抒情的な試みとなってしまいます)。私は「小説」に、いわばエゴティスムの超克を期待しているのです。愛する者たちを語るということは、彼らが生きたのは(そして、多くの場合、苦しんだのは)《無駄》ではなかったことを証言することです。 ロラン・バルト『テクストの出口』(p.131)

昨夜はバルトを読んでいた、この「《長い間、私は早くから床についた》」と「人はつねに愛するものについて語りそこなう」を読んでいた。
今日から『ハッピーアワー』のイメージフォーラムでの上映が始まる。というか先ほど始まっただろう(今は13時34分)。愛する人々を語ること。彼らが生きたのは(そして多かれ少なかれ苦しんだのは)いささかも無駄ではなかったことを証言すること。今ごろ芙美は、あかりは、桜子は、純は、どうしているだろうか。フェリーには乗ったか。接岸されていた町はもう動いたか。

暇な、静かな、どんよりとした、おだやかな土曜日で日ハムは今日も負けているらしい。5回の時点で0-6で負けているらしい。日ハムが度し難い弱さで現在弱い。昨日は0−9で敗れて、その前日は4−8で負けた。9回にレアードのホームラン等で3点返したからまだマシなスコアに見えるがそれがなければ1−8で、1−8、0−9、0−6、と、ひじょうに弱いことになっている。ここに来て投手陣が毎日打ち込まれている。打線は相変わらず湿っているというよりはなんというかカラッカラに乾いている、乾ききっている、そんな感じがする。そう打っているあいだに0−9になっていた。でも大丈夫、日ハムはきっと大丈夫。そう信じるほかない。誰よりも野球を愛して、必死になってやるしかない。栗山監督が最近何度か言っていることで、愛の過剰が失語症的状態を選手にもたらし、語ることの無能フィアスコに直面した身体は言葉に規定された身体よりもずっと遠くまで跳ぶことができるだろう、ということだった。彼——つまり愛を語ろうとして言葉を常に中断される選手はそのとき彼自身にとっても思ってもみなかった力を発揮して、慌てふためきながら「主題が言語の限界を超えている……」とどうにかこうにかつぶやくことだろう。栗山監督が言っているのはそういうことだった。そういうことだったし、次の文章の「イタリア」をすべて「野球」に置き換えて読みなさいと、選手に訴えている。

イタリアは読みません。語りません。感嘆の声を挙げ、歌います。そこにイタリアの精髄があり、《本性ナチュレ》があるのです。だからこそ、イタリアはすばらしいのです。 ロラン・バルト『テクストの出口』(p.151)

遠く離れた東京でそれを聞いた一人の男が頷いていた。それは何を聞かれても「最高です」とだけ答えることを十年以上続けてきた男だった。彼は今季これまで17試合に出場し、打率.371、ホームラン5本、打点23という素晴らしい数字を残していた。

4月23日

完全にゆっくりした土曜日で雨が音を立てて降り出したのは夕方だった、もう今日は終わりだ、そう思ったところ夜にとんとこと来られていつもの5倍くらい疲れることになった。たぶん「もう終わりだ」と思って気が緩んでいたところに一気に張り詰めさせたから、というのもあるのだろう。張り詰めたといっても緊迫した心地になったわけではないが、そんな運動は予期していなかったそういう運動がおこなわれたことは確かだった。
アホほど疲れた夜、またバルトを読んでいた、昨日と同じところを読んでいた、ウイスキーを飲みながら読んでいて、そのまま眠った。
日曜日が始まって、起きてすぐに買い物に行った、すぐに仕事が始まった、一日に継ぎ目がないというか休む時間が寝ている間にしかないようなそんな感覚になる週末だった。それもよかろうとは思ったため開店してそれからしばらく必要なこと等をやると午後にはもうあとはただ反応するだけみたいな、要は準備はすべて整ったという状態になったためなんとなく読みたくなった本を棚から取ってきてペラペラしていた。この箇所が好きだったらしくて緑色のペンで囲まれていた。今も好きだった。

一秒一秒がただもう急いで去ってゆくのを示す人生の時計として、長編小説の登場人物の頭上に掛かっているのが、ページ数である。不安になって、ちらりとそれを見あげたことが一度もないような読者がいようか。 ヴァルター・ベンヤミン『ベンヤミン・コレクション〈3〉記憶への旅』(p.83)

静かな日曜日の午後だったしやたらに晴れていた。今は18.9℃だった。23℃だと思ったら意外に低かった。気分はよかったり悪かったりした。
14時までまったく暇で14時から一気にまったく暇でなくなった、なんだか

ライフをうまく積み上げられない。なんとなく物悲しい。ひっきりなしに煙草を吸いたくなる。

4月24日

度し難く悄然とした気持ちに朝からなっている。いや昨夜からそのまま続いている。いろいろなことを考えてしまう。余計ないろいろなことを考えてしまう。とても落ち込んでいる。なんのために生きているんだろうなとか、そういうことを考えてしまう。とても元気がない。さきほど気づいたがこの元気のなさ、極端な憂鬱は今とても読みたい本がないからということらしかった。バルトを読んでみたりベンヤミンを読んでみたり、昨日の閉店前の時間はノストスブックスでだいぶ前に買った海野弘『地下都市への旅』をペラペラとしていて、閉店したあとはつまらない酒を飲みながらゼーバルトの『土星の環』を開き、そのあと『移民たち』を開き、としていた。
今日も読みたい本がない。先日買った滝口悠生のやつは、なんでだか開くタイミングを逸している。僕は本を積むということをしないから間もなく読み始めるはずなのだけど、なんでだか逸している。短さもあるのだろうか。どのみちそう長い付き合いになるわけではない旅路みたいなものを、半端なタイミングで始めるのは忍びないというような、そういう気分もあるのかもしれない。しっかり読書の時間を取ったときに、いざ、というふうに始めたい、そういう気分もあるのかもしれない。
だから、今日も読みたい本がない。おそらく一日じゅう元気のないまま暮らすことになるのだろう。こんな暮らしにどんな意味があるというのだろうか。アホらしい。

僕は本を積むということをしない、と書いたが今、目の前に、だいたいが読み終えられたがまだ本棚に収められていない本が横向きに積み重ねられているのがある。下から『10:04』、『夜の谷を行く』、『百年の散歩』、その上の滝口悠生のやつは青山ブックセンターの白いカバーが付けられている、『自殺』、『なかなか暮れない夏の夕暮れ』、その上に透明のビニールに入れられた先日友人からお土産でいただいたVirginia Woolfのというか「เวอร์จิเนีย วูล์ฟ」のというかの『A Room of One's Own』というか『ห้องส่วนตัว』、『A Room of One's Own』は日本語だと「自分だけの部屋」「私だけの部屋」「自分ひとりの部屋」の三つのタイトルが付けられている長編エッセイらしいその本のタイ語版があって、その上に『それでも、読書をやめない理由』、『テクストの出口』とある。そろそろ本棚に収めないとと思うのだけど、いつもどこに差したらいいのかわからなくて困惑する。
เวอร์จิเนีย วูล์ฟの『ห้องส่วนตัว』はCandide Books&Cafeというところで買われたらしくてそのお店のwebにいってみるととても大きな木があってそのすぐうしろに低層の三角屋根の建物がひらべったく横たわっていて店先に椅子が出されていて、とにかく気持ちがよさそうな本屋さんで気持ちがいい場所で本を選べるなんて気持ちがいいだろうなと想像するだけで気持ちがいい。くだすった友人もとてもいい場所だったと言っていた。違うことを言っていたかもしれない。忘れたが好意的なことを言っていた。カンディード。ヴォルテールの『カンディード』は途中まで読んで、といってもたぶんだいぶ最初の方で離脱してそのまま放っておかれることになった本だった。店の名前にするくらいだからよほど好きなのだろうけれどウィキペディアを見ると「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」という楽天主義を風刺した、「18世紀の世界に存在した恐怖を陳列した小説でもある」ということで、勝手なタイのイメージだとむしろ楽天主義を肯定するような明るいものであってほしいような気が勝手にしたが、どういうつもりなのか。それにしても「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」というのはなんだかいい。この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である。これまでの二度はコピーしたものをペーストしたのだったが最後のは自分の手で打ってみた。この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である。ふむ。

なんとなく寒い。空調をどうしたらいいのかわからない。煮物を盛り付けていたら器を落として煮物が床にばらまかれた。食べ物を捨てることほど気持ちを冷たくさせる悲しくさせるものはない気がするという程度に冷たい悲しい気持ちになった。食べ物を捨てるのが本当に嫌いで、ものすごい嫌いだ。あたたかい気持ちになりたかったので野球のニュースを見た。巨人の森福が二軍降格という記事があった。これで陽岱鋼、山口、森福のFAで移籍してきた3選手全員が二軍だか三軍だかにいることになった。ずいぶんなことだった。二軍にはたぶんクルーズもギャレットもいて、他には誰だろうか、杉内、澤村、それから片岡と相川もそうか。いったい年俸総額はいくらになるのだろう、というメンツになっている。すごい。気持ちがまるであたたかくならなかった。今日はダルビッシュが8回2失点で勝利投手となったらしい。前田健太は今年は苦しんでいるらしい。田沢も苦しんでいるらしい。みんな一生懸命やっていらっしゃるのであろうから一生懸命やっていらっしゃる人たちはみんな報われてほしい。悲しい気持ちが晴れない。外はよく晴れているが俺には関係ない。15時49分現在お一人しか来られていない。とっくに帰られたのでここ2時間くらい誰もいない。やることもない。やりたいこともない。どうでもいいはてブのホッテントリの記事をだらだら読みながらホームパイを食べ続けている。圧倒的な気だるさと退屈のなかで生きている。

窓の外も室内の空気もだんだんと青っぽくなっていく。誰も来ないで、背中では冷蔵庫のファンがずっと鳴っている。「でも、まずは不安に折れないことだ。思考停止して嘘をついたり、楽な波に乗らないことだ」と開いた小説に書かれていた。不安に、折れないこと。不安とはしかしこの場合いったいなんなんだろう、とは思う。この場合というのは今の僕の場合ということだ。たとえば今日誰もお客さんが来なかったとして、そのときに僕の生活は困窮するのか。僕はそれでもう食べていけないようになるのか。と言われたらまったくそうでは当然ないわけだった。なにに対する不安なのだろうか。このような日が続けば、食べていけないようになる、ということだろうか。ではこのような日が何日続いたら食べていけなくなるのだろうか。いやそういうことではないのだろう。食べていけるとかいけないとかではなくて自分が世に問うているというか、どうだ、と言っているものを誰も欲望していない、その手応えのなさ、そういうものが虚しいということだろう。不安ではなく虚しいということだろう。それとて、今日だけの話じゃないか。虚しさは、そこそこの日曜日だった昨日の晩から貼り付いている。これは何に対する虚しさなのだろうか。ちゃんと考えてしまうと行ってはいけない場所に足を踏み入れることにもなりそうな気がするので考えるのはよすことにした。もう一杯コーヒーを淹れよう。その前にトイレに行こう。そのあとに外に出て煙草を吸おう。それから店に戻ってコーヒーをもう一杯淹れて、小説の続きを読もう。滝口悠生の『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』をけっきょく読み始めた。とても心地にフィットする感じがあっていい。まだ30ページくらいなのに、次も滝口悠生を読もう、と思っている。

あれから、いったいどれくらいの時が過ぎ去ったのだろうか。いま僕は、『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』を読み終えて「DeNA・須田幸太、防御率108・00からの逆襲に刮目せよ」という記事を読み終えたところだ。眠気に見舞われている。あたたかい風呂に入りたい。 夜になり何人かお客さんが来てくださり、彼ら彼女らは本を読んでいた、その姿を見て僕の心は落ち着き、安らいだ。落ち着き、安らぎながら先ほどまで読んでいた小説のことをぽんやりとした頭で考えるというよりは思っていた。いろいろな書店のブックカバーに巻かれた本が机にあった、それを何かを運んでいくときにちらっと見やったりして、落ち着き、安らいだ。落ち着き、安らぎながら先ほどまで読んでいた小説のことをぽんやりとした頭で思っていた。そこに書かれていた出来事や考え事に対してどうこうと考えるというよりはあんなことがあった、こんなことを言っていた、というそれをただ反芻していく作業という時間だった、それは心地のいいことだった。

ボールペンで書かれた荒々しい筆跡が大きくなったり小さくなったり、曲がり落ちたりしていた。変わらない房子の文字だった。時々文字の間にコーヒーのしみとか油じみがあって、それが強烈にその手紙を書いていた時間の房子の存在を感じさせた。房子がもうアメリカで死んでいて、この文字としみだけが残っているのだったらどうしよう、と思い、そう思うあたりでそれを思っていたのがいつのことだったのか、私の記憶が怪しくなる。十月に届いたはずの手紙を、あの東北の田んぼのなかで読んでいる気がしてくる。順を追って考えればそんなはずはないことがわかるのだが、順を追わずに考えるとそうだったとしか思えなくて、順番の方が間違っているのかもしれない気がしてくる。 滝口悠生『ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス』(p.19-20)

いくつかのやっておくべきことがあったが「全部明日の朝でいい」と放棄していたのだが夜の動きのなかで「どうせ暇なんだし、本も読み終えちゃってもう野球のニュースもはてブも見飽きたでしょ、それならいくらか手を動かして明日の朝を少しでも楽にした方がいいのでは」という気分に華麗に移り変わることができたために実行した。本当に偉い存在だと思う。
それで夜だ。店を閉まったら何を読もう。先ほど帰られた方が『ねじまき鳥クロニクル』の1巻が見当たらなかったんですがとおっしゃっていて、探してみますと言ったので探しがてら文庫本のコーナーを見回っていたところ、たぶん村上春樹の影響もあるのだろうけれどそういえば『1984年』を読んでいないよなあ、なんで持ってるんだっけ、しかもなんでか2冊ある、というところで、今日か昨日だったか、読んでいたブログでも言及されていてそれを見かけたのもあったか、トランプさんが大統領になってからしばしば名前があがるけれども、昨日は日本の国会のどうこうでどうこうというなかで言及されていて、昨日だったか今日だったか一昨日だったか、それを読んで僕は眉をひそめて「ほんと由々しいなあ」と思ったのだった、それでだから『1984年』は、読まれようとしているのだろうか。たしか買って、100ページくらいは読んだのだったろうか。なんだか面白い気分にならなくて離脱する、僕にとっては珍しいことが起きた、それが『1984年』だった。そういえばブコウスキーの『パルプ』も途中でやめている。たまに手にとってすべてを忘れたまま読み進めたりも、先月くらいはしていた気がするがしばらく触ってもいない。
触れてみると、今日のような日にうってつけの一節にぶつかった。

俺たちはさんざん待った。俺たちみんな。待つことが人を狂わせる大きな原因だってことくらい、医者は知らんのか?人はみな待って一生を過ごす。生きるために待ち、死ぬために待つ。トイレットペーパーを買うために並んで待つ。金をもらうために並んで待つ。金がなけりゃ、並ぶ列はもっと長くなる。眠るために待ち、目ざめるために待つ。結婚するために待ち、離婚するために待つ。雨が降るのを待ち雨が止むのを待つ。食べるために待ち、それからまた、食べるために待つ。頭のおかしい奴らと一緒に精神科医の待合室で待ち、自分もやっぱりおかしいんだろうかと思案する。 チャールズ・ブコウスキー『パルプ』(p.146-147)

4月25日

朝起きられなかった。もうちょっといいよね、もうちょっといいよね、と言ってだいぶ寝坊した、が、間に合った、セーフだった。夜遅くまでハリ・クンズルの『民のいない神』を読んでいたのが祟ったのかもしれないし、そんなに遅くまでだったわけではないから疲れが溜まっていたというだけかもしれないし、昨日の夜に一念発起していくらか仕込みというか朝やろうと思っていたことをちゃんと夜のうちにやったので安心していたというだけかもしれない。最後のやつが一番大きい気がする。つまり確信犯的に寝坊をした、と。
ところで『民のいない神』はなんでだか再読したい気分が常につきまとっていた小説で再読を始めたのだけど僕はいつだってなんでも忘れてしまうから初めて読むときのように面白い。厳密にはなんでも忘れてしまうわけではないし、このあとどういうことが起こっていくのかぼんやりと覚えている部分があったりするから、そうかこういう始まり方だったか、彼らはいつ登場するんだったか、等を思ったりしながら読んでいる、脳裏に最後であるとかの決定的なシーンみたいなものを薄ぼんやりと、記憶違いかもしれないその場面を浮かべながら、そこに向かって、というよりはそのイメージとともに、という感じで読んでいる。それにしても、どうせ手にとっても、と懸念していたが、面白い。グイグイ面白い。たぶん『10:04』を読んで木原善彦訳のものをまた読みたくなったのかもしれなくて、でもピンチョンだとハードすぎるし、というところで、べらぼうに面白かったし、というので『民のいない神』なわけだけど、面白い。このまま読み進めそうな気配がする。
「ハリ・クンズル」。「はりくんずる」だと「貼り訓ずる」という、「書」という感じの変換がなされたわけだけど、人名であるとかというのはどの程度の頻度というか回数なのか、どのくらい人に打たれ変換されたら覚え、変換されるようになるものなのだろうか。ハリ・クンズルが厳しいということに異を唱えているわけではなくて、ただの興味で、便ラーナー、トマス・ピンチョン、デニス・ジョンソン、ヴァージニア・ウルフ、ジャック・ケルアック、バルガス=リョサ、バルガスジョサ、アレ穂カルペンティエール、アレホ・カルペンティエル、滝口悠生、リチャード・パワーズ、ロベルト・ボラーニョ、ロベルト・ムージル、ウラジミール・ナボコフ、ウラジーミル・ソローキン、不安ホセさエール、便ファウンテン、ロジェグルニエ、ジョーゼフ・ヘラー、フアン・ルルフォ、ジョン・ファンテ、アンソニー・ドーア、ジョン・クラカワー、スティーヴン・ミルハウザー、ありえるドル不満、レイ・カーツワイル、ダニエルアラルコン……
羅列させるために思い出せる名前なんて僕には限られているので途中から読書の記録を見ながら名前を打っていった。

原稿みたいなものを書かないといけないのだが、上手に書ける気がしなくてなかなかやる気が起きない。今このキーボードを触っている指を4本、タッチパッドのところに持っていって右方向にスワイプしたらその原稿みたいなものを打っているところにいくわけで、こんなところにいないでそっちにいるべきだと思うのだけど、なかなかいけない。今日は夕方から非番で、店を出たらどこかカフェにでも行って取り組もうと思っているのだけど、今のうちから、まったく暇な、誰もいない、誰かがいようと暇ならば変わらず暇な、その状況のなかでちょっとでも書く努力、あるいはそれについて考える努力をしたらいいのではないか、とも思うのだけど、なんでだろうか、「よし」という状況を作らないとそこに向かえないようになっている。これはあまりいいことではなくて、そうすると書く状況というのは今日のような非番のつまり休みの日か、あるいは閉店後の夜中しかなくなってしまうからで、それよりも隙間というか谷間というか空白の、今日は特にそういう心地じゃないけれど昨日のような虚無的な気分になっているような無駄な、そういう時間を有効に使えるように慣らしていった方がいいのではないか。慣れの問題だとも思う、だからまず、この4本の指を、タッチパッド上に持っていき、右に、スワイプ、しなさいよと思うがせずにこのように打鍵が続けられている。右にスワイプする、勇気がわかない。3000字書いた。パソコンのスクリーンというのか、ミッションコントロールの上のところ、という言い方で合っているのかわからないけれど、上のところに出る画面を今4つだか5つ展開していて、最初がChromeとかを開くデスクトップ1で、そこから右に読書日記、原稿みたいなやつ、Excel、イラレと、だから5つか、5つあったのだけど、今日書いて明日も書く、書くぞ、みたいなところもあって順番を変えることにした、つまり読書日記と原稿みたいなやつの位置を交換した、そうすると、いや、そうするとなんなのだろうか。なんの効果があるのだろう。すぐにChromeとかLINEとかにいけて野球観戦や人とのコミュニケーションができるようになる、って、それは書くことの集中とどう関係あるのかというか、むしろよくないのではないか。なので戻した。と、戻したところで、やはり指4本を上スワイプでデスクトップ1の画面が見られる、すぐにそこにアクセスできることが判明したので気を散らすための手数は増えなかった。wifiを切ってしまうのが一番なのだろう。
「わいふぁい」で最初に変換されたのは「Wi-Fi」で、なんとなくこの表記は一生懸命すぎる感じがする気がして全部小文字というものを選んだのだが、「Wi-Fi」を見ると「-」が伸ばし棒みたいに思えるというのも手伝って、彼女がフランスに留学に行って帰ってきたら「ウィーフィー?」と言うようになったとかつて友だちが言っていたのを思い出す。なんとなくその話全体が好きだった。

今日の読書は15分か20分か電車に乗りながらの『民のいない神』がすべてで、ジャズというインド系アメリカ人のという言い方で正確なのか、の家族の話が始まった。そうだった、彼には疲れた妻と小さい子供がいて、そして彼らはモーテルに泊まっていた。そうだった、そして彼らは、砂漠に向かうはずだった。そうだった、そして彼らの、。そしてその物語はけっこうな息苦しさ重苦しさを伴うものだったのだ、それを思い出した。
夜に友だちに送ったメールというかメッセージの中で「忖度」という言葉を使って、それはここのところのニュースか何か、というよりはそういったニュース記事か何かにつくはてブのコメントで見かけて面白おかしく使われているのを知って、同じような用法で使ってみたのだけど、それで思い出したが僕は何年も前、いつごろのことだったのだろうか、忖度という言葉がどういった文脈だったのか好きで使っていた。今は思い出せない。それをどういう色合いで使っていたのか、忖度は大事ということだったのか、忖度させるのは卑劣だということだったのか、今は思い出せない。エバーノートに収まっている昔書いていたブログの記事を検索に掛けたらきっとわかるはずだし、今日はしないけれど明日にでも検索してみるのだろう。静かな部屋で、音楽もなにもない静かな部屋で、タイピング音がなんだか心地よく響いている。その音を聞いている。
ニュースといえば3億8千万事件はどうなったのだろうか。ニュースアプリ等を見る習慣がほぼないので、はてブにあがってこない限り最近起こっていることをあまり追えない。追えないという言い方はずるくて、ただ追っていないというだけなのだが。3億8千万の事件は発生したときにけっこうな興味を惹かれて、なによりも3億8千万円を現金で引き出すその業務内容が知りたい、と思ったのだった。それがなによりも面白かった。一人の社員が、たった一人で3億8千万円の現金を運んでいる、その様子が想像するになによりも不思議だった。強奪する側の話よりもずっと面白かった。その引き出された金の予定されていた用途はもう明らかにされているんだろうか。検索すればいいのだろう。明らかになっているのかなっていないかはそれでわかるはずだ。でも今はされない。明日にはされるだろうか。

4月26日

昨日の夜からケンドリック・ラマーの『Section 80』を繰り返し聞いている。新譜が出て何度か聞いたその影響というかで聞いているのだろうけれど、昨日の夜ふと流し始めて最初の曲、「Fuck Your Ethnicity」が知っていたのよりも何倍もいい曲で、びっくりして、それをもう一度聞いて、それからアルバム通して聞いて、終わるたびに頭から3度ほど聞いただろうか。そして今日も聞いている。すばらしく心地がいい。

周りの人に恵まれている 自分から作り出していく出会い 結果がついてくる 学びがありますね

今日はパソコンの前で手をキーボードに乗せることもほとんどせずただ画面を見つめている。見つめていれば、何かが見えてくるとでも思っているかのように。そうすると横の席の会話であるとかが聞こえてくる。面談だか面接だかをやっていた。スーツ姿の男性は香川県から出てきた。早稲田の学生だ。wantedlyがどうこうとその向かいに座る颯爽とした調子の女性が言っていた。matcherがどうこうとも言っていた。彼はかつて香川のギター屋さんに緊張しながら足を踏み入れた。とても怖い店主がやっている店だった。女性はよく笑ったし適切風のあいづちを打っていた。僕は画面を見つめながらそれを聞いていた。なんだかんだ、出会いは大切ですよね。はきはきとした淀みのない話し方をする女性。軽やかというではないが物怖じの特にない調子で話す男性。どちらとも仲良くなれた。そのため3人で飲みにいった。朝までしこたま飲んだ。

4月27日

昨日の夜は『タレンタイム』をもう一度見てきて、愛する人たちを肯定するその意思がみなぎった画面に、先週と同じような様子で僕は大泣きしていた。もうこんなのは声を出してしまってもかまわないのではないかな、という程度に悲しみがあった。もちろんそれは笑いの裏側にあったというか笑いに支えられていた。それが豊かさの根幹だった。
愛する人々を語ること。彼らが生きたのは(そして多かれ少なかれ苦しんだのは)いささかも無駄ではなかったことを証言すること。イメージフォーラムでは今週、『タレンタイム』と『ハッピーアワー』が同時に上映されている。『タレンタイム』も職業俳優ではない人たちの出演している映画らしく、例えば仲良しの男性教師二人は監督のヤスミン・アフマドの夫と二人の家の運転手ということで、愛する人たちの愛すべき姿を画面に定着させること、それがだから、1階と地下の両方のスクリーンで同時におこなわれている。信じられないような2作品が同じ場所で同時に上映されている。
そのため夜はマレーシア料理屋にまた行くことにして先週はランチだったのでミーゴレンを食べただけだったが夜だったのでオタオタという魚の練り物のやつとビーフレンダンというスターアニスとココナツミルクで煮込まれた肉のやつと空芯菜のブラチャン炒めという発酵した海老のペーストが使われている炒め物とカレー味のひき肉をもちもちした皮で包んだやつを食べた気がした。ビールを何杯か飲んだ気がした。

朝、店で仕込もうか仕込むまいかそれが問題であると思いながら考えにふけっていると腹が痛いような気になってトイレにこもることになった。それがいつまでたってもよくならないような感じがあり、開店時間になったので開店時間を遅らせる旨を書いた貼り紙をして、シャッターをおろし、トイレにこもっていた。それは長い小康状態の時間で、このままであれば特に問題はないがまた悪化したら営業中だといろいろ困る、というので開けるタイミングを決め兼ねた。ただそうやってトイレにこもっていることにも飽きたため開けることにした、それが12時40分ごろの話だった、それから今は17時ごろだが、これまでのところ無事に生きている。僕を支えてくれたたくさんの人たちに感謝したい。

今日もずっと書こうとしている。本に触れることもせずただただ書こうとしている。全然書けない。昨今の僕が取り組んでいるのはある企業の社内報とパンフレットのライティングの仕事で、ライティングとか言ってみたけれどそういったおそらく本来はプロのライターの方がやられるのであろう感じの仕事は今までやったことがなかったのだけど人の紹介で今回仕事をさせていただくことになって、提示された金額が僕が思っていたものよりも高かったこともあってほいほいと飛びついたのだけど、やってみたらとても大変だった。まったくはかどらなくて四苦八苦しながらやっている。ただそれでも初めてやる事柄というのは単純に新鮮でやっていて気分が面白いというのはあって、またやりたいかどうかは別としていい経験をしているような気にはなっている。

4月28日

そういえばと思って「MLB - スポーツナビ」をクリックすると8回を終えたところで1-0、ヤンキースが1点リードをしていた。田中将大はここまで3安打無四球という完璧な投球を見せていたようで、球数も90に達していなかった、これは9回もあるかもしれないと思いスポナビライブの中継を見に行くとヤンキースが2点を追加して3−0となり、そして最後の回のマウンドに田中が上がった。簡単に三者凡退で試合を締めた。
日本人がよその国でがんばっているという話を自分が好んでいることにときおり馬鹿らしさというか拭えないいろいろがあるものだなと思うのだけど、愛国心的なものなのかなんなのか、ともあれ立派な人が立派な舞台で立派な活躍をしているのを見るのはなんにしても心が楽しいのでかまわない。その立派な人に当たるのが日本人であればやはり親近感みたいなものが違うのだろう。なのでなんでもかまわない。

なんでもかまわない気分で僕はいたのだが、昨日「ライターのお仕事」のことを書いたところ、いま一緒にジンというのかリトルプレスというのかを作っている友人というか知人というかからなんでわざわざそんな嘘を書くのかと言われた。なんでわざわざそんな嘘を書くのだろうか。一ヶ月の稼働で20万円のフィーと言われた。であるとかの嘘をなんでわざわざ書くのか。その嘘は書かれていなかった。それでだから本当は最近いろいろと書いているのは友人というか知人というかと一緒にジンというのかリトルプレスというのかを作っていてそこで僕がいろいろと書くことになったためそういうことをしている。
ただ普段とは違う様子の文章なので書きあぐねているところがあり、シックハックしている。ただそれも、昨日もそうだったし今日もそうなのだけど、これまでは休日にやるという方法でやっていたところを、昨日もそうだったし今日もおおむねそうなのだけど、店に立っているときにそれについてずっと考え事をする、流れを考える、思いついたことをメモを取る、余裕があれば文章として書いていく、ということを、店に立っているときにやってしまえば、とても時間の使い方として有意義なんじゃないのか、ということだった、のでそれを、なんとなくできる気がしないでいたのだけど昨日もそうだったし今日もおおむねそうなのだけど、していたところとてもいい時間の使い方なんじゃないのか、ということになっている気がしていて、頭がずっと稼働しているというか、というか、これまでだったら暇な時間は本を読むなりこの日記を書くなりしていたところを、いやそれよりも何よりも「プロ野球 - スポーツナビ」を中心にウェブサイトめぐりをしていた不毛の時間を、考え事考え事といいながら考え事にあてられると、とてもいい時間の使い方になっているというか、店に立っている時間というのが12時間あるわけだけど12時間のうち12時間を全部有効に使えるというか、これまではお客さんが来られてオーダーが入って、ということがなくさらに仕込みもまるでない時間のかなり多くの割合がだらだらとした時間として流れていったのだけど、そのこれまでのだらだらの部分に考え事というタスクを注入してしまうと、おそろしいことにすべての時間が有効な時間になる、まさに流し込むのイメージで、12時間、全部が意味のある時間になる、とここまで書いて、とんでもないことをしていると思ったというか、そんなことは本当にやめた方がいいという気になったというか、12時間全部に何かを詰め込むなんて絶対に続かないからやめた方がいい、疲れるだけだからそんなことはしないほうがいい、そのような結論が出たのだが、それを一緒にジンというかリトルプレスというかを作っている友人というか知人というかに言ったところそれでもお前は書き続けなさいというお告げのような返信がやってきたのでそれには従わないことにした。ところでこれもまた嘘のような気がしてきた。なぜなら「なんでわざわざそんな嘘を書くのかと言われた」とあったが、昨日書かれた嘘はまだ公開されていない嘘だから、僕が書いた嘘をすでに読んだ人物がいるというのはどうにもありえない話のように思われるからなのだが、そういうものでもないのだろうか。

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