『インターステラー』あるいは待つことの途方もない無力さ

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interstellarという単語をごく最近、まったく関係ないところで耳にした。久しぶりにウディ・アレンの『マンハッタン』を見ていると、散歩の途中で大雨に襲われたアレンとダイアン・キートンが駆け込んだアメリカ自然史博物館内の地球宇宙ローズセンターでゆっくり歩きながら話しているくだりで、アレンが「I had a mad impulse to throw you down on the lunar surface and commit interstellar perversion.」と言ったのだった(もちろん聞き取れたりましてや覚えていたりなんかはしないのでこの台詞はググって見つけてきたやつだけど)。君を月の表面に投げ出して惑星間倒錯セックスをしたい、みたいな感じで字幕がついていたと思う。
それを聞いたこともあり、また、何人かの友人や友人じゃない人たちの激賞の声をインターネット上で見かけたこともあり、今日はクリストファー・ノーランの『インターステラー』を見てきた。
全編を通してマシュー・マコノヒーが一所懸命活躍していて、「がんばっているなあ!」と思いながら、壮大なスケールで描かれるあれこれにたいへん感動して大満足でした。
映画を見て教訓を得る必要なんて一つもないけれども、この映画の教訓があるとしたら、「待っていても仕方がないから率先して行動しようね」ということだろうか。
実際、この映画において待っている人たちは無用の存在としてことごとく画面から排除されるし、その排除が正当に思えるほどに彼らはどこまでも無力だ。
例えば車で父を待つマッケンジー・フォイ。車中で待っている姿が映されることはないし、いざ戻ってきた父が開口一番に彼女に伝えるのは停学処分になったということだ。なんという虚しさ。
それからNASAの人たち。農家の父娘がアグレッシブに行動を起こした結果、彼らは飛行士となりうる人材を迎え入れることができた。やってこなかったらいったいどうするつもりだったというのか。
そして1時間が地球とかの時間にして7年間になるという惑星に隊員たちが降りていった際に宇宙船か何かに残った彼。23年間も待って、「やあ」とか言って出迎えたけれども、あいつの研究か何かは進んだのだろうか。あるいは一人どこかの惑星で眠り頭をおかしくしたやつもいた。
そしてなんといっても地球に残されたNASAの面々。マコノヒーたちを送り出して数十年の歳月が流れたわけだけど、そのあいだにいったいどんな成果が上がったのか。
父譲りの有能さを持っていそうな気配のジェシカ・チャスティンとて、マイケル・ケインの臨終の謝罪を聞いて初めて「なんてこった!なんてこった!」と行動を始めるわけで、それまで彼女は、彼女たちはいったい何をやっていたのか。待っていてもろくなことは起きないという少女時代の車の教訓は何の役にも立っていない。
ただそのことを彼女も長い年月を掛けて学んだのか、「STAY」と懇願していた少女は老婆となり、病室にSTAYしようとする父に「行きなさい」という。彼は従う。(これはこの映画においてマコノヒーが女の要求を聞いた初めての瞬間なんじゃないか。)
そして男は再び宇宙へ飛び立つだろう。グダグダと待ちほうけるアン・ハサウェイの元へと。二人だけのinterstellar perversionを果たすために……
と、お客さん誰もいないなーとか思いながらも何をするわけでもなく、ただただぼけーっと待ちながら書いた。