読書日記(22)

2017.03.04
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#2月25日 オープン戦が始まったらしかった、それをプロ野球-スポーツナビのページをクリックした際に知った、何を求めてブックマークバーに置いてあるそれをクリックしたのかわからなかった、何を求めて、それはもう決まっている、何か愉快な出来事だ、土曜日だ。 私は今土曜日だ。10時半ごろに「なんとなく無視していたというか現実を直視しないようにしていたけれど、カレー、今日仕込まないとまずいよね」ということを直視したため大急ぎでカレーの材料を買ってきて仕込みを始めてどうにか開店までにスパイスをあたため始められた、今は背中のほうでくつくつと煮込まれている。あとは時間の問題なので僕はのんきだ。しかし焦った。焦りながら勢いよくスパイスを準備していたところマスタードシードをばらまいて、焦ることはこういう愉快な出来事を生むのでやめられない、とはそのときは思わなかった、呆れと怒りが発生した。お客さんは誰も来ない。 15分くらいが経って、そのあいだにメールを打ったり何かをしていた、そのあいだに2回、プロ野球のページをクリックした、病気みたいなものだった、考えなければいけないことがあるがまったく考える気が起こらないで困っている。
初めて週末の日にスタッフであるところのひきちゃんがシフトに入ることに行きがかり上の理由でなったため夕方にバトンタッチしたところ新宿に出た。時間があったので書店に寄ってそれから薬局に寄ってそれから喫茶店に入って本を読もうと思っていたところ週末の町の人のたくさんの様子にわりとすぐに食らってげんなりして、書店に入ったがたくさん本が売られているのを見ただけで人がいっぱいあったので気持ち悪くなって出て、薬局に入ろうとしたけれどレジに人が並んでいるのを見て気持ち悪くなって引き返して、喫茶店、ルノアールに入ろうとしたところ人が待っているのを見て踵を返し、同じことをコメダでもおこない、そのあと珈琲茶館集に入れたため珈琲茶館集に入った。週末はフヅクエで働いているのがいちばんだなと思った。
坂口恭平を読んでいた。隣の隣の席の男女が村上春樹を腐していた。文章が難しすぎて読みたくない、ハルキストも小難しい話し方をするからほんと嫌い、と男は吐き捨てるように言った。村上春樹をどうこうというよりは何かを簡単に唾棄してしまえるその姿勢が、なんというか怖いことだなと思った。僕も簡単に唾棄している気がするが。それにしても村上春樹は本当にすごいというか新作が出るだけでこれだけちゃんとニュースというか出来事になるのだからすごかった、紀伊國屋書店の入り口のところでも山のように積まれていた、山のようにというか書物で山を作りましたみたいなことになっていた、なんであれ本が無駄に傷まなければいいと思う。男は続けて、あいきゅーはちよん…とため息をつくように言って、女はあー、いち、きゅう、はち、よん、みたいなやつだよね、と言った。そうそう、あいきゅーはちよん…と男はため息をつくように言った。全然坂口恭平を読む頭は起動しないままで時間になったので出て、歌舞伎町のあたりをうろうろ歩いていたところ空が次第次第に暗くなっていった、新宿と高円寺で酒を飲んで帰ってよく笑った。
##2月26日 昨日は開店から2時近くまでだから2時間近く人っ子一人来なかったのだが今日は開店から1時間たたずに満席にいったんなって、傾向なんて何もないと思った、現在は5時半でもう半分も埋まっていない、静かで、僕はこうやって打鍵をしているわけだったし一気呵成でのそれなのか妙に疲れたし眠くなっている。うまくいかないことのほうがずっと多い。
夜坂口恭平。昨日も読んでいて感じたのだけどちゃんと自分をその周波数みたいなところに持っていくというか何かが揃わないとうまく踊れない。言葉の粒音の粒が自分とは関係のないところに降っていく感じがする、俺の見上げた空は晴天でぽっかりあいている。いい場所にいい姿勢で立たないと聞こえないしステップを踏めない。それは、とてもいいことのような気がする。
##2月27日 信頼、などというものがいつから醸成されていたのかまったくわからなかったけれどFacebookで友だちというか大学の後輩というか同級生というかが『騎士団長殺し』を称賛というかとにかく楽しく読み切ったということを書いていてそれを読んだらふいに俺もそれ読もうかなという気が起きた。彼と村上春樹が意外だったというのはあるけれど、でも彼の読書の嗜好みたいなもの、あれ、嗜好でいいのだったか、志向?指向?全然わからなくなった、趣味みたいな意味だから嗜好でいいのか、彼の読書の好みみたいなものをそもそも知らない気がするのだけど、なんとなく勝手に信頼しても外れないような気がしているのは不思議で、まったく知らないけれど、なんとなく彼がそう書くことによって僕は村上春樹が開けた。もともと僕は高校生は村上春樹だったしそれは大学生になって少しすると高校生のときに「ハリウッドとかよりもヌーヴェル―ヴァーグでしょ期」になるのと同じような感じで村上春樹を離れ、最後に読んだのは『アフターダーク』だったか、『アフターダーク』はすごく面白かった。でもあいきゅーはちよんは僕はとちゅうで飽きて2巻目とかでやめた、騎士団長殺し読むのか俺は。
お客さんで読まれている方はすでに何人か見かけた。僕はそのこれが発売され売られ買われ読まれることのひとつひとつがイベントになっている状態をとてもよいと思っている、よいと思いながらそこに自分が乗ることになるとは思わなかったけれど、どうせ読むならこの時流のなかで読んだほうが楽しい気がしている。しかしどうか。
メールの先頭に「〜〜さま」と書くので何度か書いている名前がある。それは変換されないから分割して変換して面倒な手順を踏んでいる。それをGoogle日本語入力の辞書に登録するかどうか、何度か迷っている。でもそれはまだ登録しないことにしている。なぜならたちまちに書く必要がなくなる局面が想像されるからだった。しばらくのあいだ名前を打ち続けることになるのかどうか、まだわからない、それがわかるまでにはまだ時間が掛かる。そうなったら登録しようと思っている、そういう名前がある。
と、今その変換されない名前にメールを送って相変わらず変換が面倒なので思い出して思い出した。これが色や恋の話だったら愉快なところだけどこれはもっとこう、実務的な話だ。色や恋が実務でないなんてしかしいったい誰が勝手に決めたんだ。と打ちながら思った。ぶっ殺すぞと思ったが、それは思っていなかった。
電車に乗ると息苦しくなったため一駅でおりて次の場面は新宿駅南口の広場のところだった、それを見下ろして階段をおりてとことこと歩いていくと薬局があって歌舞伎町だった、中国あるいは韓国のものとおぼしき名前の書かれた名札を胸につけた店員たちがとてもにぎやかに接客をしていた、薬局は祭りだった。金髪メガネのフロア係はとてもフレンドリーに観光と思しき客たちを先導し扇動していた、たくさん買って帰ろうと促していた、祭りだった、僕はタックスフリー用ではないほうの会計の列に並んで異国めいた薬局を堪能した結果、TOHOシネマズの広いところのソファというか腰掛けに腰を掛けていた!横にいた女たちはおそらく、その会話からして、これからロフトなのかロフト以外にもこのあたりにライブハウスがいろいろあるのか私は知らないがこれからライブかなにかを見に行く人たちでここはあたたかかったので暖を取っていた、彼女たちは映画を見る人たちではなかったが、たしかに暖を取る場所としては適切というかよくできていた、広々としていたしあたたかかったし無料だった私は映画を見るつもりだった。
『ラ・ラ・ランド』、ララランド。何度でも言いたくなるララランド。これまでいくつもの映画を見てきたはずだったけれど最初のシーンいや最初のカットで、最初のカットで呼吸をつまらせて泣くようなことはこれまでにしたことがあっただろうか、自由。縦横無尽に動き回る人々、止まった車列、車のボンネット、屋根、それらを軽やかに乗りこなす人々、歌い踊る人々、人々と同じくらい自由に縦横無尽に動き回るカメラ、それらの運動の連なりに私は大いなる歓喜みたいなものに食われてハラハラと喜びの涙を流しまくった、LA LA LANDとスクリーンに表示されたその瞬間、大喝采を送りたかった。送らなかったが。
それからも僕は人々が踊り出す、歌い出す、笑顔をはじけさす、そのたびに、ただただ喜びながら泣いていた。ハリウッドで活躍するべくしのぎを削る女の子たち、という役柄の、実際に同じようにハリウッドで活躍するべくしのぎを削ってきたこれからも削っていくのであろう華麗なゴージャスな女の子たちが今、この『ラ・ラ・ランド』というずいぶんいろいろな賞をかっさらっているという大きなバジェットの映画に出演して、笑顔で歌って踊っている、そのことに僕は苦しくなるくらいに感動した、それはだからつまりルームメイトの女の子たちが踊りだし家を飛び出してパーティーに繰り出すあの俯瞰する夜の道路だった。4色の女たちがすてきなステップを踏みながら闊歩した。もっと歩け!歩け!全部かっさらっていけ!今この瞬間世界は君たちのものだ!全部持っていけ!と思いながらわあわあと泣いていた、僕はうれしかった…それからもいくつもの歓喜と感動が強い大きな波のように打ち寄せて私はすっぽりと飲み込まれて退屈な特別な夜景をみおろしながらのけだるげなステップ。エマ・ストーンの広く開いた背中が躍動する、きれいな姿勢、背筋、けだるげなステップ、タップ、タップ。それから天文台での無防備なバカげた最高にうつくしい飛翔、夜空のなかで踊り続ける影。僕は喜び以外のなにものでもない存在になりながらおこなっていたことは目を開くことだけだった。 だから僕はこの映画では音楽が鳴りだし人が踊りだし歌いだし笑顔が咲き、それだけが僕を歓喜させるのだと思っていた、それが最後にひとつ覆って、オーディションの部屋に心細げに不安げに入って二人の今までよりはとても真摯そうな態度を見せる男性・女性の前に立った、力の抜けた肩がなめらかな曲線を描く、まっすぐの姿に、やわらかい顔つきに、僕はびっくりするくらいにそれは「!」となって喘ぎそう嗚咽しそうになったのを必死に飲み込んだほどだった、ただそれからの歌唱熱唱の場面は僕はむしろ鼻白んでしまうところがあって節々でどこかでこれが『セッション』の監督であるという先入観が働いているのかなんとなく不信みたいなものを抱えながら見ているところは拭えなくて最後のセブズでもセブズ!と大喜びしたりしながらもセブズへようこそ!と大喜びしながらも果たしてその映像そうあったかもしれない未来を映しだすその映像は、要るのか、等思いながら、これだけ歓喜にむせびながら、どこかで全面的に受け入れるようにはなっていない感じがあった。
映画後のアルコール等の摂取ののちに体と頭が喜びに湧き上がっているような心地で電車に乗り込んで本を開いてみると言葉が怒涛のように頭に流れ込んできた。それは私をよりいっそう愉快にさせたし何かクリアな状態でそれを流し込ませていた。
散歩。歩く人。歩く水。歩く大気。歩く武器。歩く草。草の上を歩く。水の上を。やったことのないことだけ試せ。見たことのない色だけ塗って、体に塗って、それで踊ろ踊ろ踊ろ。最期のダンス。それ以来の沈黙。七十四分。いつまでも笑いたい。本当に何もいりません。もうこれ以上に。空間は。時間は。持ち物は。金は。人々は。愛人は。宇宙は。草。葉っぱは。酒は。何もいりません。書かせてくれれば、あとは追い剥ぎにあっても、性器を切り落とされても、皮膚を剥いでも、なんでもかんでも、外にも出さずに、閉塞されても、してもされても、閉じ込められても、防空壕から逃げ、爆撃から逃げ、地震から逃げ、われわれは富豪。金はない。しかし、明らかに富豪、けもの、ばけもの。
坂口恭平『けものになること』(p.197)
##2月28日 結局一週間くらい前だったか一週間くらい前だった、新宿の喫茶店で買ってきたばかりで開いて上から覗き込むような姿勢で文字を目を開いて追い続けていたあの時間よりも『けものになること』に没入できていたというか『けものになること』の音楽が鳴っていた時間はなかった。この言葉の雨を正しく浴びるためにはある程度の正しく浴びるための臨戦態勢のようなものを作らないといけなかった、それができていたのはあの時間だけだった。電車で昨夜読み終えて、そう思った。
自分から近づく努力をしないと近づけないものがある、そうふみは、こずえの朗読のあとの打ち上げで言って、僕はそれをたまに思い出している。自分から聞きにいこうとしなければ聞こえない声がある、聞きにいこうとしなければ聞こえない音がある、響かせようとしなければ響かない言葉がある、そのことはとてもいいことだと思う。僕はそれをフヅクエをやりながらしばしば思う。すべてが与えられるわけじゃないんだぜ、と思うときがある。自分が欲して理解しようとしたときにはじめて理解できることがあってはじめて理解できたそれがこの場所での体験の質をぐっと驚くほどに高める、そういう性質のものがあるんだぜ、と思うときがある。だから僕はアルフォートを食べる。
夜、読書会だった、『ビリー・リンの永遠の一日』の日だった、今回は参加者が少なかった、8時になると僕は今日はいつもに比べて少数精鋭ですが、盛り上がっていきましょうみたいな、とヘラヘラと話して、始まったというか始まりという名の特になにものでもないものが告げられていつものように始まった、すぐにオーダーがおこなわれてすぐに行き渡った、そうすると僕はやることがなくなって、自分のコーヒーを淹れて、最寄りのソファが空いていたのでそこに腰を下ろして、ひとりの参加者のような格好になって本を読むことにした。『ビリー・リン』は僕はもう読んでいたので今日からはベン・ラーナーの『10:04』が読まれることになっていたので『10:04』が開かれた。静かな、本を読む人しかいない場所で読まれるその読書は久しぶりの、とてもとても充実したものだった。充実していて、静かで、濃密で、愛おしい、素晴らしい時間になって、それは本当にフヅクエは本当に素晴らしいなと思った。
彼女がその話を切り出したのはメトロポリタン美術館でだった。アレックスは失業中、僕は作家なので、二人はよく平日の午後にそこに出掛けていた。

僕たちが出会ったのは僕が大学一年生、彼女が四年生のときだ。偉大な小説を扱う退屈な授業を聴きながら、僕らはたちまち互いに共感を抱いた。でも、本格的に親しくなったのは、僕が大学を卒業して数年が経ち、ブルックリンに引っ越して、彼女がすぐそばに暮らしているのを知ってからだった。僕たちは二人で散歩するようになった。シナノキに日が沈むのを見ながらプロスペクトパークを歩いたり、ボアラムヒルの辺りからサンセットパークまで歩いて、夕暮れ時マジック・アワーに凧揚げしている人を眺めたり。日が落ちてから、黒い流れに映るマンハッタンのまばゆい明かりを見ながら遊歩道を歩いたり。温暖化する惑星で六年間、そんな散歩をするうちに——散歩しかしなかったわけではないが——街を移動する感覚とアレックスとが切り離せなくなって、彼女がいないときも隣りに存在しているみたいに感じた——たとえ実際の彼女がそのとき、州北部にある実家に帰っていようと、あるいは恋人(間違いなく僕の嫌いなタイプの男だ)と時間を過ごしていようと。
彼女がコーヒーを飲んでいるときとかではなく、美術館でその話題を切り出したのは、ひょっとするとそういう場所だと、互いに向き合うのではなく、目の前のキャンバスを一緒に見るせいで散歩のときみたいに視線が平行になる——それは最も親密なやりとりをするときの必要条件だ——からかもしれない。目の前にある文字通りの風景ビューを共同構築しながら、二人で見方ビューを話し合うのだ。 ベン・ラーナー『10:04』(p.11-12)
なんというか、なんというか、すごく好ましい小説を読んでいると思ったというか、こんなにしっくりくるチャーミングでラブリーな感覚は久しぶりになっている気がする。すごくすごくいい。マンハッタン。たぶんほとんど、ウディ・アレンの映画を見ている感覚になっている。ウディ・アレンとダイアン・キートン、あるいはウディ・アレンとマリエル・ヘミングウェイ。二人で並んで歩くこと。同じ景色を眺めること。同じベッドに入って同じ画面を見つめること。テイクアウトの中華料理を食べながら映画を見ること。おそろしい夜を二人でやり過ごすこと。
僕がディスクをセットする間にアレックスはパジャマに着替え、僕たちは二人でベッドに入った。とはいえ、僕は昼間と同じ服のままで、停電に備えて非常用ラジオと懐中電灯はサイドテーブルの上に用意していた。

窓の外で風は徐々に強くなり、まるでシタールが奏でる映画音楽に合わせたみたいに大きくしなる木の影が白い壁に投影された映像と重なり、映画の一部となった。2つの世界を横断するのは何て簡単なんだろうと僕は思い、アレックスにそう言うと、彼女は僕にシーッと言った。僕には、映画やテレビを観ている最中に口を挟む悪い癖がある。そうやって二人で映画を観ているうちに、アレックスは眠り、オーソン・ウェルズはウィーンで友人の手にかかって死んだ。小さな天窓に当たる雨音が強くなるのが聞こえ、どこかからゴミが飛んできてそのガラスが割れるのではないかと心配になった。映画が終わると、僕は別のディスクを探し、いつだったか4番通りで箱いっぱいに捨てられていたDVDの中で見つけた『バック・トゥ・ザ・フューチャー』を再生したが、彼女を起こさないよう、音は消した。 ベン・ラーナー『10:04』(p.28)
ミュートされた映画!なんだかこのシーンのすべての様子が愛おしい。とても親密な気分になって読んでいる。それをこの読書会のすばらしい充実した読書空間で味わうことができてその2時間、2時間ほどのあいだ僕はほとんどしっかり読書をしていた、たまにオーダーの声が掛かって、はいはーいと言いながらうかがってお出ししてまたソファに戻る感じはなんというか家という感じがあった、心地いい中断だったし心地いい舞い戻りだった。とにかくなんというかすばらしく気分がいい時間だった。
##3月1日 上の引用のところを打ち込みながら肩が疲れた。ウディ・アレン。『ラ・ラ・ランド』も何度かこの監督はウディ・アレンがきっと好きなんだろうと思ったというかそれはヒロインの名前がミアだったことからまず始まっていたのかもしれないしミア・ファローとウディ・アレンのことを考えたらウディ・アレンが好きだったらつけられない名前かもしれないからそんなことはないのかもしれなかった。『世界中がアイ・ラヴ・ユー』の夜のセーヌ川のところで踊るバカみたいで素晴らしい美しい感動的なダンスを、思い出したりも、していた。
紀伊國屋書店ウェブストアからメールが届いてタイトルが「『騎士団長殺し』他 おすすめの商品をご案内いたします。」。これまでは毎回『職業としての小説家』だったのが、今回から『騎士団長殺し』に変わったらしかった。何度か書いている気がするけれど毎回思うから何度も書くのだけど丸善ジュンク堂というかhontoは本当にパーソナライズされていて「お、それ出たの!」となってとてもいいしだからこそできるだけ丸善ジュンク堂で本を買いたいところもあるくらいなのだけど紀伊國屋書店は本当にだめで、バカらしくて悲しくすらなってくる。やる気のなさに。今回は5冊おすすめされた。『騎士団長殺し 第1部』、『騎士団長殺し 第2部』、『職業としての小説家』、村田沙耶香『コンビニ人間』、恩田陸『蜜蜂と遠雷』。
Mは、日中は頭を掻きたいという衝動をある程度抑えることができたが、寝ている間は激しく掻きむしった。ナイトキャップを被っても朝になれば脱げて、枕に血が付いていた。しだいに痒い場所の髪の毛は掻き取られ、そこはかさぶたになった。帯状疱疹が治ってから10ヶ月後のある朝、起きてみると顔を緑色がかった不快な液体が流れ落ち、Mは恐怖に震えた。

Mはマサチューセッツ総合病院の救急救命科に担ぎ込まれた。そこで分かったのは、Mが皮膚も頭蓋骨も掻き破り、傷は露出した脳にまで達しているということだった。緑色がかった液体は彼女自身の脳脊髄液だったのだ。 デイヴィッド・J・リンデン『触れることの科学』(p.220)
痒みは僕の人生につきまとう感覚なので痒みの章は読んでいるだけで痒さが起動するようなところがあって痒さは実際に伝染するということだった、誰かが痒がっているとき、人は痒がりやすいという。それは隣の痒がっている人と同じように虫や寄生生物に襲われる可能性があると体が反応しそれに対する防御行動ということなんじゃないのか、ということだった。僕は痒い。ではあなたはどうだ。アンドレ・ジッドはひたすらに痒かったらしかった。
何ヶ月も痒みに苦しんでいる。最近では耐えがたく、ここ数日はほとんど眠れていない。ヨブやフローベールのことを考える。ヨブは身体を掻くために陶器の破片を探し、フローベールは晩年の手紙の中でこのような痒みについて書いている。誰でもそれぞれの苦難を抱えているし自分の苦しみをほかのものに変えようと望むことは非常に愚かなことだと自分に言い聞かせている。だが、本物の痛みでもこれほど悩まないだろうし、これほど耐えがたくはないだろう。苦しみの格で言うなら、痛みはもっと高尚で荘厳なものだが、痒みはみじめで人にも言えない。滑稽な病だ。苦しんでいる人に憐れみを覚えることはできても、身体を掻きたくてたまらない人を見ても笑ってしまう。
デイヴィッド・J・リンデン『触れることの科学』(p.223−224)
とてもその通りだと思う。痒みは当人の苦しみと無関係にどうしても滑稽さを帯びてしまう。掻いている当人ですらとてもよくわかっている。掻くのはほんとうにみっともないと思っている、痒みは身体と同時に社会的な苦しみを人間に与える、困る。痛いということは人に僕はわりと言いやすい気がするけれど痒いということはある程度なにか信頼みたいなものがないと伝えづらい気がする。だから暇だったので読み終わってこの本と坂口恭平はともに河出書房の本だった。少し前は上間陽子、植本一子、それからともにいただきものだけど春日武彦と未来食堂の方のやつで妙に太田出版づいていたし、もう少し遡るとまったく並行して読んでいた保坂和志とロジェ・グルニエはどちらもみすずだった。
遡行。がらがらと背後で崩れて組み替えられる過去。『10:04』がすごくすごく面白い。いろいろと面白いけれど僕は人と人が親密である様子が見られたらそれでけっこう十分にうれしくてそれでうれしがっているのがいちばん結局強くなっている。たとえばこういう箇所で。
レストランの外、偽りの春のぬくもりが残る空気の中で、一緒に食事をしたのに全く口をきかなかった気まずさを覚えつつ、皆が互いの手を握った。著名な男性作家は僕たち二人に向かって、今取り組んでいらっしゃる作品——きっと素晴らしいものに違いない——の話を聞く機会がなかったのは本当に残念だと真顔で言った。僕がさらにその上を行く真剣な表情で「僕は以前から、あなたの作品を愛読しています」と返答すると、著名な女性作家はこらえきれない笑いを咳でごまかした。そして、彼女は僕とハグを交わした後、「とにかく全部やってみて」と言った。僕が「全部って?」と訊き返すと、彼女は「とにかく全部」と繰り返し、僕たちはまたハグし合った。僕はその後、イーストサイドに向かった。リンカーンセンターの前では、オペラハウスから続々と出てきた身なりのいい男女が、ライトアップされた噴水の周りにごった返していた。僕は59丁目でブルックリンに戻るDラインの地下鉄に乗り、列車のリズムに合わせて頭の中で繰り返した。とにかく全部、とにかく全部。
ベン・ラーナー『10:04』(p.144)
##3月2日 前夜はベン・ラーナーだったため夕飯はビール2杯とウイスキー2杯とポテチとミックスナッツという豪華なものだった、それを食べながら飲みながら読みながら過ごした、それで目を覚ますと雨がやんでいて曇りの空の向こう側でなにか暗く光る黄緑色の球体が螺旋を描きながら動いているのが目に入った。願い事を唱えようとしたが、特に願いたいことがなかった、と思って諦めたあとに商売繁盛を祈念すればよかったと思ったがもう遅かった。雨は予報だと一日中だったが昼はまだ降っていなかったので傘は持たないで新宿に出るとテアトル新宿に吸い込まれるようにして入っていった。そこでは『バンコクナイツ』が上映されていた、僕は通路寄りのわりと前のほうの席で少し見上げるような角度で182分の映画を見通した。
なんというか、たくさんのことがありすぎて見終えての感想は「見た!」というものだった。見たことのない画面を聞いたことのない音楽や言葉が彩ってずっと続いていった。「すごいものを見た!」という感想だった。「なんかわからないけどすごい熱量のものを見た!」というところだった。出家する若者を祝う行事というのか、うしろでバンドが音楽を鳴らしながら、行列の人々が好きに踊る、それら全部が水面に映っている、その場面がすごく印象に残った。サイケデリックなギターかなにかの弦楽器のエフェクトの掛かった音色が音楽がすごかった。それから語りと歌いが自在に行き来するようなおばちゃんの語りというか歌いがすごかった。それを見ながら先日見た『ラ・ラ・ランド』のエマ・ストーンの独唱の場面を思い出していたのだけどエマ・ストーンが語るべきあるいは歌うべき語りあるいは歌いはむしろこんなふうなのこそがあるべきものだったように思った。なんかとにかくすごかった。濃密で散漫で森は深くて夜は暗くてギラギラ明るくてエネルギーが放射され続けていて、そのなかで片言の日本語片言のタイ語片言の英語が発されつづけている、どこまでも見たことのない180分だった。エンドロールの横でのオフショットというのかメイキング映像というのかリラックスした演者やスタッフたちの姿号泣する無邪気な顔で大笑いするジョイというのかラックというのかインというのかの姿、それらがとにかく何かうれしいものだった。バンコクから実家に戻ったラックの、それまでとは違う顔つきがそういえばとてもよかった、開放された表情をしていた、それを見たとき僕はよかった。
地下の映画館から階段をあがって外が明るく傘が差されていた、空は、雨を落とす空はしかしそれにしても明るくて、晴れだと思ったためリュックに入っていて一度も開いたことのない小さい傘はやはり取り出されなくて、新宿駅のアルタであるとかの近くの喫煙所で煙草を吸うと体が全体が濡れたりもしなかった。それで電車に乗り込んで吉祥寺に向かったがやっぱりずっと空は窓から見えるものも吉祥寺の町の上にあるものも明るいままだったしきれいなグラスを一つ買って、それからコーヒー屋さんに入ってコーヒーを飲んだら気がついたときに夜がやってきていた。
##3月3日 そういえば『ラ・ラ・ランド』でミアが一人芝居の戯曲を書いて朗読して朗読し終えた場面から始まるシーン、素晴らしかったよとかなんとかと男が言ったわけだけどものすごくあれはウディ・アレンの『ハンナとその姉妹』だった。だからやっぱりウディ・アレンが好きだった。あれはミア・ファローではなくダイアン・ウィーストだった。聞いていたウディ・アレンが両手をひろげて目をパチクリさせて「信じられないよ」とかなんとか言って感激を表す、そういう場面だった。思い出すだけで、うれしくなる。わたしは、泣きそうになる。
なんだか暇な金曜になったのだけど体が妙に疲れていてバカみたいな気分になって生きているだけで本当に疲れるなと思いながら生きていた。とてもあたたかいものを食べたいと思いながら生きていた。
夕飯をたらふく食べたら満腹になったので『10:04』を読んだ。この小説の温度というかが本当にどこまでもすごい好みでホクホクした気分になりつづけている。そろそろ終わってしまう。
僕はその夜見えなかった光を、砂漠の空気に反射する焚き火やヘッドライトであるばかりでなく、他のさまざまな光として思い浮かべた。10番街のヘッドライト、ボアラムヒルの公園で子供たちが振り回す花火の白くまばゆいマグネシウムの炎色、イーストビレッジの非常階段に降る小さなシャワーのような火の粉、あるいは1912年か1883年のブルックリンハイツのガス灯、あるいは暗闇の中で近づいてくる動物の目の光、スペインを舞台にした小説の中で山道のカーブに消える赤いテールランプ。レジデンス生活の間、僕はホイットマンと彼が思い描いた不可能な夢に入れ込んでいたが、長い一日と馬鹿げた一夜の締めくくりにクリーリーと肩を並べて立ち、怪光の幽霊を見ていると、僕たち二人の間に、一体感とまでは行かないものの、一種の了解のようなものが生まれた。そうしてその場所に立っていたとき、僕は予定していた本の内容を、あなたが今読んでいるものに変えることに決めたのかもしれない。詩のように、虚構フィクションでも非虚構ノンフィクションでもなく、両者の間で微妙に揺らめく作品。僕は短編を膨らませるが、過去をでっち上げるような文学的詐欺行為を扱う長編に変えるのではなく、複数の未来をはらんだ本物の現在へと変えることにした。数週間後、この本を書き始める直前に、詩は完成することになった。
ベン・ラーナー『10:04』(p.221)
一体感とまではいかなくても一種の了解のようなもの。たぶん僕が「プレシャスな瞬間」とかそういうことを思うときに思うものがそういうものだと思っていて、そういうプレシャスな瞬間がこの小説にはたくさん、いくつもある。それが僕をとてもうれしい親しい気持ちにさせる。そういう状態がずっと続いている。