本の読める店

読書日記(7)

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11月12日

鶏ハムは少なくとも丸一日はマリネして火にかけるのはものの数分で鍋の中で冷めながら中までゆっくり火を通していく、みたいな感じで、だからというか、このやり方だと仕込んでから完成するまでに少なくとも36時間は掛かる。妙に鶏ハム関連のメニューがオーダーされて意想外のペースで減ったため仕込まないと2日くらい出せないことになってしまうので、それはいけないと思って、だけど鶏胸肉を買っていなかったので、鶏胸肉を買いに行かなければならない。24時間のスーパーはいくつか見当があるけれど、夜中はお肉とかはないんじゃないかという、よく知らないながらにそんな気がして、それで肉のハナマサにいくことにして、自転車に乗ろうとしたら後輪がパンクしていた。肉のハナマサまでは片道1.5kmで、バカらしいととても思いながら、歩くことにした。2時、コンビニでビール買って飲み飲み、久しぶりの友だちからLINEが来たのでどうでもない会話をしながら、歩いた。国産の鶏胸肉があってなんとなくブラジル産よりは嬉しいと思って、ついでにビールを買って、帰りもとことこと飲み飲み歩いた。山手通りが相変わらず好きだった。

11月13日
自転車のパンクの修理に行ったらチューブがもうダメになっているからパンクだけの修理はできません、タイヤとチューブの取り替えが必要になります、とのことで、早晩そうなることは以前よそでパンク修理をしたときに教わって知っていたので、ついでに前輪も取り替えてもらうことにした。すると11,000円が掛かって、「11,000円が掛かった」と思った。20分ほどで終わるとのことだったのでガードレールに腰かけて最果タヒを読んでいた。どんどんいい。詩も読んでみようかな。

いろいろ、いろいろだけれど、でも、なんていうかそもそもお化粧とはその人自身にあるものをさらっと照らしてあげることであって、なんにも隠してないし、フタしてないし、むしろさらけ出していっているし!っていう、それって、なんだかお化粧と暮らしていく人としては、とてもうれしい発見だよね。なんてすてきなことなんだろう。きれいなものを身につけることも、お化粧品を買うことも、なんにも悪いことじゃなくて、なんにも後ろめたいことじゃなくて、もっともっと素敵になることだったなんて!知らないのと知っているのでは、全然違う魔法みたいなこと。お化粧をするだけで、現実がすこしだけ、輝いて見える。日常がすこしだけ、みずみずしくなっていく。そういうのって、知らなくてもいいんだけれど、知っていたらなんだかすごくきもちよくなりますね。生きていくことが。 最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』(P129,130)

11月14日
なにもすることがない休日、雨も降り出すみたいで、見たい映画も見当たらない。困る。とても困る。どこかでジョン・ファンテの『満ちみてる生』を買って読もう、そう思う。しかしどこで読もう。どうせ雨で電車に乗るなら渋谷や新宿ではなく普段あまり行かない土地の方が楽しい。神保町の東京堂書店で『満ちみてる生』の刊行記念の移民をめぐるフェアみたいなのをやっているとのことだったので、そこに行くことにした、それから喫茶店に入って、読んで、前に人から教わった餃子屋さんがあったのでそこで夕飯食べて、またどこか喫茶店入って、読んで、ということに決定したら気が楽しくなった。

電車に乗り込んだところ本を読んでいる女性と本を読んでいる男性がいてそのあいだの席が空いていたのでそこに座って最果タヒを読んだ、すると読み終えた。
雨が少し落ちつつあった。東京堂書店に行って『満ちみてる生』と、ヘミングウェイの『移動祝祭日』がすごくいい装丁で出ていて買った。『移動祝祭日』はここのところ「読みたい本」リストに入っていた本だった、何かでその一節に触れて読んでみたいと思ったのだけどなんだったろう、と思ったら『プリズン・ブック・クラブ』だった。

それでほくほくしながら喫茶店に入った、すると落ち着かなかった、イライラしてきた。30分かそこらいて、多分1時間もいなくて、違和を感じながらも『満ちみてる生』のたしか一章だけ読んで、その読書はとてもよくて、ずっと読みたいと思って、この「ずっと読みたい」から察するに今日中に読み終えてしまいそうだと思って、餃子屋に行ってまた別のところに行こうかと思って、喫茶店を出て、東京堂書店に戻って、パトリシア・ハイスミスの『アメリカの友人』を買って、餃子屋に行きたいけれどさっき食べたケーキがお腹で重くて満腹感があって、だからまたいつかにしようと思って店の前を通ったら店休日で安心というか「何も損をしなかった」と思えて、雨がさっきより強く降っていて、電車に乗って、『移動祝祭日』を開いた。いい。

一人の女がカフェに入ってきて、窓近くのテーブルにひとりで腰をおろした。とてもきれいな女で、新しく鋳造した貨幣みたいに新鮮な顔をしていた。雨ですがすがしく洗われた皮膚で、なめらかな肌の貨幣を鋳造できればの話だが。それに彼女の髪は黒く、カラスのぬれ羽色で、ほおのところで鋭く、ななめにカットしてあった。
私は彼女の顔を見ると、心が乱れ、とても興奮した。私の物語の中か、どこかへ、彼女のことを入れたいと思った。 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(P10)

私の物語の中か、どこかへ、彼女のことを入れたい。HUBに入って、ビールとフィッシュ&チップスとピザを頼んで、1時間くらい、『満ちみてる生』を読んで、どんどんよくて、一人で飲むと変に酔いやすいみたいなところが僕はあるような気が最近していて3/4パイントのビール一杯でほろ酔いな感じになって、もう一杯飲んだら本を読むような感じでなくなりそうな気がして、フヅクエに行った。フヅクエは暇そうだった。暇そうだったのでメニューにはないウインナーコーヒーをオーダーした。おいしかったが改善点があった。それで読んだ。読んだ。読んだ。とてもとてもとてもよい。ウインナーコーヒーの改善点を伝えてもう一杯作ってもらった。今度はばっちりだった。それで読んだ。読んだ。読み終えた。とてもとてもよかった。

それで夜が更けたら、金麦を飲みながら『アメリカの友人』を読み始めた。

11月15日
『アメリカの友人』を買うとき、他にも同じ調子の表紙の作品がいくつか置かれていて、どうもリプリーという人物のシリーズという話らしく、この作品から読んで差し支えはないのか、そう思ってパトリシア・ハイスミスの著作を調べるべくWikipediaを見てみたところ、出てきたおばあちゃんに見覚えがあるような気がした、誰だったろうと考えてみるとアルノー・デプレシャンの『キングス&クイーン』に出てくるマチュー・アマルリックの家族のおばあちゃんだった。あごをシャクシャクさせながら話した。

今『太陽がいっぱい』のAmazonのページを見たら1つレビューが書かれていて、見たら、1行目でラストがどうなるかを書いていて笑った。

11月16日
『アメリカの友人』の主な登場人物の一人は額縁屋の店主で、日曜と月曜は店を開けない、週6日営業するとフランスの法律に抵触するから、ということが書かれていた。だから月曜は閉めた店内で事務作業をする、ということだった。労働に関する法律はどこの国のどの時代でもなにかしらの形でないがしろにされていくものなんだな、と思った。

ずっと暇ばかりだった昼の仕事が今週の3日間は妙に忙しく、いいことなのだが、驚きと不慣れさで疲れ、夕方40分時間が取れたので10分をヘミングウェイに、30分をハイスミスに充てた。ヘミングウェイがとてもいい。『ミッドナイト・イン・パリ』を思い出しながら、読んでいる。ウディ・アレンといえば『満ちみてる生』はウディアレンをずっと思い出すようで、それはとても心地のいい思い出しだった。『満ちみてる生』を読み始めて、それで『アメリカの友人』をすぐに買って、今はヘミングウェイとかよりもストーリーのなかにどんどん沈潜していくような、もっと、もっと、もっと、みたいな感じで小説を読みたいんじゃないかと思って『アメリカの友人』を買って、読んでいるが、面白いが、もしかしたら今はヘミングウェイな気分なのかもしれない。

そういうときには、暖炉の前に坐り、小さなオレンジの皮をしぼって、焔の先にたらし、それが青い光をパチパチ立てるのを見つめているのだった。また、立上って、外のパリの屋根を見渡し、こう思うのだった。——「くよくよするな。お前は前にもいつもちゃんと書いているんだから、今も書けるだろう。しなくちゃならぬことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ。」そこで、けっきょく、私は一つの本当の文章を書き、そして、そこから先へ進んでいくのだった。 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(P16)

なんだか悲しい虚しい暗い気持ちになってきた。甘いものを食べたい。
僕がいつか立ち会ってみたいのは『ストーナー』の読書会をやってほうぼうからすすり泣く音が聞こえるそんな状況だ。甘いものを食べたい。

それにしても甘いものを食べたいな。

11月17日
昨夜は甘いものを食べてから『アメリカの友人』を読み進めた。朝、コーヒーを飲みながらヘミングウェイを開くと心地がよかった。

得てきた新知識を妻にひろうしたとき、私は少しも悲しくなかった。夜には私たちは、すでに持っている知識や、山で得た他の新知識のことを思って、楽しかった。 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(P29)

雨宮まみの訃報に接して、エッセイをまた読みたいので雨宮まみの何かを読もうと昨日考えていたところだったので、ので、ではなく、悲しかった。エッセイ一冊と対談本一冊、それからwebでのほんのいくつかでしか彼女の言葉に触れたことはなかったけれど、それも先月初めて触れたところだったのだけど、どういうふうに繊細にたくましく年を重ねて、それを文章にしていくのだろう、読みたい、と思っていた。

11月18日
メールを打ちながら「ひょっとこひょっとこひょっとこ太郎」と口ずさんでいて、そのことに2分後くらいに気がついた。朝からヘミングウェイ習慣は気持ちがいい。

当時、私には本を買う金がどこにもなかった。で、シェイクスピア書店の貸本文庫から本を借りてきた。それはオデオン街十二番地にあるシルヴィア・ビーチの貸本屋兼書店であった。冷たい風の吹きさらす通りにあったが、ここは、あたたかくて、陽気な場所であった。冬には大きなストーヴがあり、また本を置いたテーブルや棚があり、ウィンドウには新しい本が置かれ、壁には、現存の、あるいは故人となった有名な作家の写真が掛けてあった。写真はすべてスナップのようで、もう死んでしまった作家でも、まるで現実に生きているように見えた。 アーネスト・ヘミングウェイ『移動祝祭日』(P39)

夕方、『アメリカの友人』を読み終えた。ネタバレをするけれど白血病かなにかであまり先のない30代の実直な男が殺人の依頼を受けて、殺害対象はイタリアのマフィアで道徳的にはまあ可かな、あと大金を妻子に残せるのでじゃあやろう、というので殺人をして、ああだこうだ、困った、という話だったのだけど、計画から何から何まで杜撰にしか見えなくて、サスペンスのようなもので、に限らず、杜撰さによって駆動する話が多分、得意ではない。僕は杜撰で愚かな人間に対して寛容ではないということなのか、と思うのだが、わからない。
「こんな理由で人を殺すわけがない」とか、そういうことを思うわけではない。杜撰な人間がいる。とてもいいと思う、そんな人間もいくらもいると思う。でも登場人物が杜撰であることと、作者がその杜撰さを説明しないことのあいだには大きな隔たりがある気がしていて、なんだろう、うまく書ける気がしないのだけど、作者の手抜きのようにしかどうしても思えない、作者に都合のいいように杜撰であるようにしか思えない。この殺人者は大金が入る理由を妻に知らせないといけなくて、でも彼はまるでそれを考えない。ほんのちょっと考えて適当に取り繕ってみて信じてもらえなくて、最終的に本当に信じてもらえないことになるのだけど、登場人物に与えられた時間は小説内で描写に費やされる時間以外にもいくらでもあるはずで、でも描写に費やされる時間以外にちょっとでも理由を考えようとしている気配がまるで見えない。そんなことってあるのだろうか。「そんなことってあるのだろうか」。あっていいと思う、そういう人間がいてもいいと思う、でもどうしてまったく考えていないかを、考えられないかを、作者は書き込むべきなのではないだろうか。べきというか、そうでない以上、本当に薄っぺらいものに見えてしまう。見えてしまった。「冷静に、また丹念に、ごく自然な人間の心理をひとつひとつ積みかさねていく」と訳者あとがきにあるけれど、僕にはひとつたりとも積みかさなっているように思えなかった。だからずっと鼻白んでいた。
そう思ったのだけど、でも高名な作家だろうし、僕が正しいわけがないんだ、とは思っていたところ、町山智浩の解説を読んだら、そもそもサスペンスとして企図されているわけではないのかもしれない、そもそもの読み間違いなのかもしれない、と思った。どちらでもいいが。

夜、岡真理の『アラブ、祈りとしての文学』を一章読んだ。この本の帯には「小説を読むとは、他者の生を自らの経験として生きること。それは世界を変えるささやかな、しかし大切な一歩となる。」とある。僕もそう思っているふしがとてもある。『アメリカの友人』はすくなくとも僕にとっては他者の生を自らの経験として生きることができない小説だった、ということだった。

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