本の読める店

読書日記(4)

Entry blog fuzkue397

10月22日

ある図像が性的に見えるか見えないか問題の記事を読んでいたらovalを久しぶりに聞きたくさせられたのでovalを聞きながら仕込み等をおこなっていた。それは公的な場所ではなしでしょ、だってやっぱエロいよ、ということで片が付く簡単な話なのかと思っていたら、どうやらそうでもないみたいで難しいものだなと思った。商店街のスピーカーからovalのグリッチノイズが流れてきたときに「どうしてwww」とちょっとうれしくなりながらもそれを不快に感じる人がいるということは想像しやすく、ダメでしょ、と指摘が出たときに「やっぱそうだよね」とてへぺろな顔をする、くらいのつもりは持とう、そういうことではないのか、と思ったのだけど、そういうことでもきっとないのだろう、あまり文脈がわかっていないから見当外れなことを考えているのかもしれないけれど。そしてたしかに、ovalがダメなら、じゃあ、みたいなこともまた想像しやすく、そう考えるとたしかにとても難しいような気がどんどんしてくる。リアーナやカニエ・ウェストは町で平気で流れているけれど、あれらはそんなに穏当なものなのか、とも思うし、リアーナが何を歌っているのか知らないから知らないけど「sex with me」とかずいぶんなタイトルの曲もあるし、くらいのところなのだけど、とも思うし、それこそ漱石がかつて千円札に刷られていたわけだけど、あんなに不穏当なものを書いた人が、とも先日思ったわけだったし、だからリアーナもカニエ・ウェストも夏目漱石も公共の場所からは締め出しましょう、誰かが不快に感じるかもしれないから、と、なりうると思うと、どんどん難しい気がしてくる。不快に感じる誰かがいないもので埋め尽くされた公共空間が面白いものになるとは思えない。
ただ、ovalが「ただの汚い騒音」と言われたときに「まあそう聞く人はそりゃいるよな」と思うのが正しい態度だと僕は思っていて、その認識から始まるのが相互理解のための正しい話し合いだと僕は思っていて、性的だと言われたときに「あれを性的と見るお前の見方こそが性的だわwww」みたいな反応を取るのは単純に格好が悪いとは思う。

などと打っているうちに、プレイボールの時間が近づいてきた。開店から18時までにそこそこ来られたので「これはいい日になる可能性が90%」と思ったら18時半に来られた方を最後に誰一人としてこの店の扉を開こうとする者がいないので陰惨な土曜日になった。仕事が終わったら自転車に乗ってどこか遠くに行きたい。と思っていた。

すべての見えない光』がそろそろ終わるのでドビュッシーを聞きながら読むということをおこなった。あと数ページっぽい、というところで睡魔に襲われて諦めた。終わりが見えてきたときに往々にしてそうなるように、すごく読み方が雑になっていった。「どうなるの?」が先に立ってしまって、注意がすごく雑になる。「どうなるの?」に直接関係のない描写とかをしっかり読めなくなる。本当に悪癖だと思う。

10月23日

読み終わり。読み終わりたいのだけど、読み終わるというのはつまらないことだなともやはり思う。こういうときによく思い出すのは保坂和志の『この人の閾』の表題作で、主婦の友人が午後とかにずっとドストエフスキーとかの分厚い小説をだらだら開いている、終わらないのがいい、みたいなことを話すところで、これを今思い出したのは昨夜保坂和志のwebで「『地鳴き、小鳥みたいな』のこと」というテキストを読んだ影響もとても大きいだろうけど。

話が起承転結でまとまっていれば読者は居心地がいいのはわかっている。しかし思いというのは、起承転結でなく、凝縮と拡散、あるいは跳躍と立ち止まり、という運動の不連続な繰り返しだ。

日本シリーズまっただなかとはいえ、ドラフト直後とはいえ、野球のニュースが面白くなくなってきた。チームや話題が限られてつまらなくなってきた。その影響をわかりやすく受けてはてブを見ている時間が増えた。どうでもいい記事をいくつも読んだ。
開店まで20分くらい時間が空いたので『東京どこに住む? 住所格差と人生格差』を読む。そのあと幸いなことに忙しい一日を過ごし11時前から閉店までぽっかりやることがなくなったのでまた読んだら読み終わった。郊外から都心部へ人が流れつつあるという。郊外の静かな暮らしから、都心部での賑やかな暮らしが再発見されつつあるという。都心部に住む最大の効用は他人の近くにいることつまり近接性で、人と人が接触することによって仲間が生まれる、アイディアが生まれる、富が生まれる、みたいなことが書かれていたのかな。初台。新宿の真横。僕の暮らしにはそんなものはないような気がする。八百屋さんとしか接触していない。飲み仲間なんていない。僕の暮らしはなんなんだろうか。

テレビを見ていた。ちょうどよく日本シリーズが映った。みんながんばっていた。そのあとドラフトの日のあるドラフト候補選手の家族の一日を追うみたいなやつが流れた。指名されてよかった。みんなうれしそうでよかった。そのあと駅伝が流れた。みんながんばっていた。悔しい思いをする人も嬉しい思いをする人もいた。それらを見ている間に2回泣きそうになった。「スポーツがやっぱり好き…」と素朴に思った。

フォークナーの『死の床に横たわりて』を開く。途切れ、途切れの朴訥とした、鋭利な言葉。

立派な大工さ。お袋にゃあ、これ以上の大工、これ以上の棺桶なんて、ありっこなしだ。安心して楽々と休めるというもんさ。俺は家のほうへすすみ、その後から、手斧の、
 こつっ、こつっ、こつっ
という音。(P8)

10月24日

昼、暇だったので『マーケティング基礎』を開いた。この読み方をしていると「マーケティング=暇つぶし」というふうに記憶に残りそう。
考えごとでもしようとドトールに行ったところ向かいの席の女性が電話を掛けていて、氏名、住所、電話番号を電話の向こうの人に伝えていた。それを僕の耳はすべて聞いた。メモをしようと思えばすることもできた。「誰が聞いているか、わからないですよ?」とニンマリとした笑みを浮かべて僕は言わなかった。

暇すぎて、デレク・ベイリーになった気分で輪ゴムをベンベン言わせる時間を設けた。

一通のメールを作るのに5時間くらい掛かった。

で、わしには千里眼同然に判っとるんじゃ、雨が邪魔をしにくるのが、まるで、世界じゅうはほかには降る場所がないみたいに、選りに選ってこの道路めに降りくさるにきまっとる。
自分の不運を呪い立てる人間はよくあるが、これは罪深い人間どもだから、止むを得ん。だがわしは、呪いを受けたなんといいはせん。呪いを受けるような悪いことした覚えがないんじゃから。俺は信心深い人間とはいえんじゃろう。が、わしの心は平和じゃ、はっきり判っとる。たしかにいろんなこともやったが、知らんふりしてけつかる連中だって、同じことじゃ。主は、落ちる雀同様、わしを御心にかけてくださる。が、困っとる人間が道路なんかにしてやられるとは、つらい話じゃ。(P43)

ふいに現れた一人称「俺」がとてもいい。

母ちゃんとは違うんだ。母ちゃんは、向こうの泥の中に、入ってたもの。もう今じゃ切られちまった。おれが切っちまったんだ。台所の鍋の中で血を流して、料理して食われるのを待ってる。あん時は、魚じゃなくって、母ちゃんだった、今じゃ魚で、母ちゃんじゃない。明日になると、料理して食われて、母ちゃんは、お医者とお父とキャッシュと姉ちゃんになっちまって、箱の中には何もなくて、母ちゃんも息ができるんだ。あいつ、向こうの地面に転がってた。ヴァーノンにきいてもいい。あそこにいて、見てたんだから。おいらたち二人がいて、あいつがいて、それから、いなくなるんだ。(P74)

一つのセンテンスの中にいくつもの時間が流れている、いくつもの変化がある、のがとてもいい。いつだっていい読点はとてもいい。

10月25日

雨は降らないだろう、たとえ降ったとしても。と自転車を漕ぎながら僕は考えていて、山手通りをまっすぐ行って、246ではなく淡島通りを行きたかったので右に折れてまっすぐ、左手に学校やらマンションやらがあるところを、もうすっかり暗くなった道を、道路は濡れている道を、進みながら考えていた、雨は降らないだろう、たとえ降ったとしても。そうやって三軒茶屋のコーヒー屋さんの焙煎所に寄って今日焙煎された豆を受け取って、ほんのわずかな時間、スタッフの方に質問、それに対する回答、を経て出ると、雨がさーさーと降り出して、降り出していて、雨は降らないだろう、たとえ降ったとしても、と思いながら目を細めながら滑らないように気を配りながら、雨は降らないだろう、たとえ降ったとしても、と思いながらどんどんと濡れていった。下北沢の駐輪場に自転車をとめて、雨に濡れた体が冷たくて、それでB&Bに行った。
特に何を探すでなく並べられた本を眺めたい、と思ってB&Bに行った、B&Bへの行き方はいつもだいたいそういうふうで、だからそうやって行った。ただ一冊読みたく、そしてB&Bに置いていそうな気がする本があってそれは『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』だった、それは最近出た本だった。だが見当たらなかったのでうかがったところ黄色い表紙でよく認識していたのだが、見当たらないところから察するに売れちゃったっぽいですねということだった、それで平和な落ち着いた気持ちになったためうろうろと棚を見ていた、日記、と思って『富士日記』をめくったり、シモーヌ・ヴェイユのやつをめくらなかったり、何かをめくったりした、面白い読書日記を読んでみたいような気がしている、僕が今書いている読書日記のベースになっているのは細川亜衣の『食記帖』のはずだったのに、まったくあんなふうにはなっていない。いつの日か凛とかしてみたい。
最果タヒの『きみの言い訳は最高の芸術』を買った。どんな言葉が紡がれるのか触れてみたい人の一人だったのだけど触れないまま生きてきたところ、エッセイ集ということで、エッセイを読みたい気分もあったため買った。

それでトロワシャンブルに行った。B&Bで本を物色して、できたら何か買って、それでトロワシャンブルで読む、をしたい、と思って下北沢に行ったということだった。それでトロワシャンブルに行ってフォークナーを読んだ。雨に濡れたセーターが冷たかったため脱いで半袖になって読んだ。

アンスは坐ったまんま、橋を見ていた。橋は河の中へずる下がって、両端だけが見えてた。橋を見とる奴の顔付きときたら、橋が無くなったという話なんか今までてんで嘘だと思いこんできて、しかも一方じゃほんとうに無くなっていてくれればと望んでいたような具合だ。うれしそうな、びっくりしたような顔付きで、晴れ着のズボンをはいて、口をもぐもぐさせて坐ってる。何というか、くしもかけない馬が、とりすましてるみたいじゃった。(P128)

橋が落ちた河を、棺を運ぶ家族たちがどうにかしようとしている、ところが描かれる。が、何が起こっているのかさっぱりわからなくて、読んでも読んでも、何が起こっているのかさっぱりわからなくて、このわからなさは尋常でないと思いながら読んでいる。不正確な描写が、あるいは相矛盾した描写が、何度も何度も繰り返されながらぼんやりとした輪郭を描くような、そんな感触がある。消さないで何度も描き足すスケッチみたいな、そんな感触というか。もしかしたらただの読解力不足というか集中していないだけなのかもしれないけれど。

ときおり煙草を吸いながら、カウンター席で、カフェオレをすすりながら、チーズケーキをかじりながら、本を読んだ。一人客はカウンターに通されるらしく、カウンターにいる人たちは一人の人だけだった。僕の隣の男性はパソコンを開いて、静かに何かをしていた、煙草をひっきりなしに吸っていた。途中で右隣に座った女性は本を読んだりスマホをいじったりしていた。その女性は非喫煙者らしかったので僕も煙草を吸うのを自粛した。 しっかりした音量の音楽と、静かなすごし方の人々のなかにいるととても心地がよくて、一人ずつが一人ずつの19時半を過ごしている具合がとてもよくて、こんな店が生活の中にあることはとてもうらやましいことだと思った。二人連れの人たちもあまりしゃべっていなかったが、この静けさは偶然のものなのか、それとも割合こういう具合なのか。以前人と言ったときは僕らは喋り通していたのだけど、あるいはカウンターにいるとテーブル席の声はあまり通ってこないのか。とにかくとてもよかった。コーヒーのおかわりをして、フォークナーに疲れると最果タヒを開いた。

「さみしい」という感情に、だれかがそばにいるかいないか、なんていうのはたぶん、まったく関係がない。自分が楽なリズムで、孤独になったり、孤独をやめたりできるのかっていうことのほうがずっとずっと重大だと思う。自分の都合の良さみたいなものを、どれぐらい保てているかっていうこと。(P8)

変な話だけれど、友達だろうが家族だろうが、他人という存在を、自分の人生の一部分としてしか人は把握することができない。自分と対等の存在に見ることは、本当の意味ではできるわけがない。だから、利己的で身勝手な消費に彼らを晒し続けるしかなく、せめて、彼らが喜ばない形で消費することのないよう、気を配らなければならなかった。彼らが望まない限り、彼らの何かを知りたいと望むことは愛があろうが優しさがあろうが傲慢でしかない。ともに映画を見ることや、食事をすることや、そこで自分が話したいこと、相手が話したいことを、交換していく、それだけでよかったし、それが最上でなければならなかった。それ以上を望んだ瞬間、簡単に相手の尊厳を踏み潰してしまうのだということ。そんな危うさ。(P13-14)

ここから見ると、水面はちっとも乱されていないように見える。まるで二人の胴から下を一撃で断ち切ってしまい、上半身だけ無闇と滑稽なほど、しずしずと動いているといった具合だ。まるで長いこと、見慣れ、耳に慣れてしまった後の機械みたいに、穏やかに見える。まるで、人間のからだという塊が、とけて無数の運動そのものと化し、見る力、聞く力までが、無力になって、怒りそのものも澱んで静かになってしまったみたいだった。しゃがんでる、おれたち三人の空ろになった眼には、デューイ・デルの濡れた着物が、大地の水平線や谷間を思わせる、あの哺乳類の滑稽な形をえがき出していた。(P175)

10月26日

昼と夜のはざま、30分の時間が取れたのでフォークナーを読もうと開いたところ眠気を察知したため20分ほどの仮眠の時間になった。死者が話しだした。たぶん夢だったので夢を見たということはたぶん仮眠が取れた。すると空腹を感じたため、開店した瞬間に閉店後の夕食の時間を楽しみなものとして感じた。昼が軽かったせいだと思う。

10月27日

トーマス・ルフ展に行ってそのあと銀座で働く友達と銀座のスポーツバーか何かに行って日本シリーズを見る←☓(仕事が遅くなる)
じゃあ日本シリーズはいいや
六本木に行って東京国際映画祭のインドネシアかどこかの映画を見る←☓(昨日までは残席あったけど今日見たら売り切れ)
途方に暮れる
岡山時代の友だちから連絡あり、トーマス・ルフに行ったあと東京駅あたりで飲む
になる。

九段下までの電車のなかで最果タヒを開く。

こうして暇つぶしだけのためにひねり出した悪意、本心でもなんでもない、2秒で忘れてしまうような悪意には、その人の人間性すら宿っていない。歩いている蟻を指先ではじいて時間をやりすごしているだけの、それだけの感覚。ただの惰性だ。そこまで嫌いでもないけど、自分とも友達とも関係がないから、見かけたから、すれ違ったから、そんな感覚で適当に悪意をぶつけていく。自分が悪者にならない範囲で悪意をエンタメとして消費するのは、なんだか不気味だなと思ってしまった。そこまでする理由が、友だちと楽しく時間を過ごしたいから、それだけだというのは不思議でもあった。他人との会話に娯楽性なんて必要だろうか。(…)
友達と過ごすのは、「退屈な時間」ぐらいでちょうどいいとか思ってしまう。私はエンタメじゃない、ってずっとずっと思っていたし、会話しているけど、この会話におもしろさなんて求めるのはおかしい、だったら映画館にでも行けばいいって、どこか本気で考えていた。(…)
悪意だって、「悪者」ぶっているほうがずっとずっと濃い味がした。その人とやりとりしている、実感があった。だから私は、だらしなくテレビ見てジュース飲んでケーキ食べて、それぞれ内側にある、その人だけのどうしようもない最低な部分を見せ合って、呆れて、ただそれだけで、時間を過ごしていたい。「楽しませる」とかそういうのは、友達なんかの仕事ではない。(P23-25)

トーマス・ルフ、なんの人かも知らずに見に行ったら写真の人だった。なんの人かも知らないはさすがにそれは嘘だ。なんせメインビジュアルというのかあれが写真だから、写真の人だとは知って見に行った。写真の人だと思って見に行ったら写真の人なんだろうけれど写真というかなんかイメージ全般みたいな人なのかな、と思った。初期のポートレイトや建築物や家具の写真から、どんどこ突き進む感じがすごみがあった。暗視装置を経由して撮られたシリーズがとてもよかった、のは多分、ハリ・クンズルの『民のいない神』のそういう場面がとても好きだったことも影響している気がする。それからjpegシリーズもすごかった。それから指名手配犯のモンタージュ写真を作るやつで作られたやつの一枚がマチュー・アマルリックそっくりな人があってパシャリした。美術館で岡山時代の知り合いに会って、笑った。

それから東京駅のほうに行き八重洲ブックセンターに寄り『誰が音楽をタダにした?』を買った。そんなに読みたいのだろうかと自問するが、きっと読みたいのだろう。印刷して探したがうまく見当たらず探してくれた店員の方がやさしかったので人のやさしさに触れた。八重洲ブックセンター2階はビジネス書とかのフロアで、たくさんのスーツ姿の男性がいた。土地柄、一番盛り上がるフロアだと思っても間違いないのかもしれないと思った。7冊分厚い本を買っている初老の男性がいて、土曜日着で買っていた、なんの本かと思って見たら「windows10」であるとか「excel」であるとか「word」であるとか「outlook」であるとかと書かれていた。学ぶのか。
その足で父親が通う絵画教室のグループ展があるというのでちょうどいいタイミングというかこれ以上ないタイミングだったのでそのギャラリーに行った。父親は週末の教室の後に店に来ることがしばしばあり、今日はこういうのを描いた、どうだ、というふうに広げられ、僕なりに感想を言う、ということを繰り返しおこなっていたため、展示に選んだ絵も見たことがあり、つまり「これにしたんだね」という見方で見て、出た。すると母親からLINEがあり、「展示は行きましたか?」というふうな連絡だった。「ちょうどさっき行った」と答えた。「今年で参加するのは多分最後になりそうですこしさみしそうです」とあった。だから見に行っておいてよかったと思った。
喫茶店に行き、そこはいい喫茶店だと思った。フォークナーを読んだ。死者が起きて語りだす。

月の光が眠ってる長いお棺の横腹にりんごの木の影をまだらに落としてる中で、時折りお袋は、ぽつりぽつり、ふっふっと秘密の呟きみたいにしゃべり出す。(P227)

死者は起きて語りださない。そのため「いったい何が進行しているんだよ勘弁してくれよwww」と思った。そのまま喫茶店で読み終えた。

時には、人のことをどうやって狂人じゃと言い切れるもんなのか、判らんような気になる。時には、人間にはほんとうの狂人も、ほんとうの正気も一人もおらんので、ただほかの連中がそういうんできまるような気がする。何をやるかというより、ほかの大部分の連中がそれをどう見るかできまるようなもんじゃ。(P249)

が、人のことをどうやって狂人じゃと言い切れるもんか、判らんような気がするんじゃ。どんな人間の中にも、もう一人別のもんが住んどって、こいつは狂気じゃとか正気じゃとかを通りこしてもうて、自分の狂気の振舞いも正気の振舞いもただじっと見ておって、どれもこれもおんなじ恐怖と驚きで見とる、そんな気がするんじゃ。(P256)

最後まで個々の描写で何が起こっているのか何がおこなわれているのか、まるでわからない場面ばかりだった。先日も書いた通り、読めば読むほど間違ったことが書き継がれ続けている気がしてならない。間違ったことが書き継がれ続けながら、なにかしらの、それは流線型となんとなく思うのだけど、流れというか、グルーヴではなく、ヴィジョンでもなく、流れ、フロウ、だろうか、なにか前に前にぐいぐいと進む、押し進む、なにかが立ち現われる、輪郭というにはもっともっと太い、方向性のようなものが立ち上がる、それだけで小説を推進させているように思えてならなかった。それはなにか、よそでは見た記憶のない異形のなにかだと感じた。あそうか、トーマス・ルフにあったモンタージュ写真みたいなものなのかもしれない。間違った図像4つが折り重ねられて一つの顔らしきものが生まれる、そういうことが小説でおこなわれているのかもしれない。であるとすると、異形だしとんでもなくアヴァンギャルドなことがおこなわれているような気がする。先日も書いた通りこれは僕の読み方の雑さに起因するだけなのかもしれないのだけど、仮にそれが雑さに起因するただの誤読だったとして、この誤読の愉悦は味わって楽しいものだと思う。楽しいものだと思うし、僕だけの誤読であるならば、それはそれでひとつとても豊かな、誇らしいというか「いいでしょ?」という体験と言って問題がないように思う。だからその前に買った本は開かれずに喫茶店を出た。

ダールはジャクソンへ行った。奴らがダールを汽車に乗せて、笑いながら、長い客車を笑いつづけて、ダールが通ると、人の顔がふくろうの頭みたいに振り向いた。「お前、何を笑っとるんじゃ」おれはいった。
「そうそうそうじゃそうじゃそうじゃ」(P272)

この日はとても歩いた気がした。ここ1,2週間、自転車がいいと思っていたのだけど、歩くのもまたいいことだった。九段下から国立近代美術館、を経て竹橋から電車で日本橋、八重洲を経て東銀座まで行き喫茶店で本を読み有楽町、そこから新橋、電車で恵比寿、電車で新宿、そこからトコトコと歩いて、歩いて。

日ハムがスコアを見るだけで感動する勝ち方をした。アホほどのプルヒッターである西川が、その真価というか、化けの皮というか、正体をあらわした、そんな打球だった。というのをYouTubeに落ちていた動画を見て確認した。肌がぞくぞくと粟立ち続けるのをおさえるすべはなかった。そのあとの監督インタビューとヒーローインタビュー。やはりずっとぞくぞくさせていた。プルっぷりを我慢してチームのために一年間打席に立ち続けた西川への、たぶん親心みたいなもの、お前は素晴らしいと、よくやったと、それを言った直後に監督の目に涙が浮かんで、それはすばらしいシーンだった、それから西川の受け答えを見ながら僕は数年前の、あれはどれくらい前のことだったんだろうな、稲葉や金子が抜けて、中田や西川が引っ張っていかないといけないチームになって、頼りないというか、頼りはあるんだけど無駄にチャラいんだよな、稲葉や金子のあの空気じゃないんだよな、稲葉や金子やそれから新庄やひちょりが作っていた、とても好ましい楽しい素朴さみたいなそういうものではない、無駄なチャラさがあるんだよな、新しいチームには、と思っていた、それが、あんなふうにコーチや、裏方や監督や、もちろんチームメイトやファンに、ああいう場所でああいう形で感謝を伝えられる選手になった、もともとそういうことを言っていたのかもしれなくてもともとのやんちゃなのは僕のイメージだけかもしれないのだけど、伝えている姿を見た、その感慨はわりあいに、とても大きなものだった。そしてメンドーサ。CSのバースに続いての素晴らしい救援だった模様で投げっぷりは見ていないけれど称賛したい。一つだけ、本当にひとつだけ心配があるとしたら来季の加藤で、加藤がこれで自信を失わなければいいと、2試合連続のふがいない投球で何かを失わなければいいのと、それだけはとても思う。さっきチャラ中田のことを書いたけれど言わずもがなだけど書いておきたいのは中田は僕から見たら完璧に素晴らしい4番打者でチームの支柱で、中田以外に4番を張れる選手はいない、大谷やレアードや陽岱鋼や西川が彼らの成績を出せたのも4番に中田が座っているからだと僕は思っていて、全員が思っていて、だからほんとうに感謝したい。そもそも打点王に文句を付ける隙なんてないのだけど、改めて感謝と称賛の意を伝えたい。広島の中田の実家でおこなわれた中田会の写真はほんとうに、見れば見るほど笑いがこみ上げてくるすばらしいものだった。ほんとうに素晴らしいチームだと思う。このシリーズ、知らないけど、日ハムファンは広島を、広島ファンは日ハムを、試合を重ねれば重ねるほどに相手に対する好意と敬意を大きくしていくような、なんというか素晴らしいシリーズになっているんじゃないかと思う。野球はすばらしい。

寝る前にほんのすこしだけ今日買った本を開いた。mp3の開発の話が書かれていた。面白そうだった。

10月28日

そんなつもりはないのだけど読書日記が週を追うごとに長くなっていく。4,000字、5,000字、7,000字、そして今回は10,000字を超えた。

『誰が音楽をタダにした?』のイントロダクションの終わりはこんなふうで。

そして、やっとノースカロライナの西にある田舎町にたどり着いた。一見、グローバルなテクノロジーや音楽の中心地からは遠く離れた、思いがけない場所だった。そこは、ぼろいバプティスト教会と無名企業しかないような、シェルビーという町で、ある男がほとんどだれとも関わりを持たずに、8年もの年月をかけて海賊音楽界で最強の男としての評判を揺るぎないものにしていた。僕が入手したファイルの多くは、というかおそらくほとんどは、もともと彼から出たものだった。彼はインターネットの違法ファイルの「第一感染源」だったのに、彼の名前はほとんどだれにも知られていなかった。
僕は3年以上かけて彼に信頼してもらおうと必死で努力した。彼のお姉さんの農家の居間にお邪魔して、何時間も話し込んだ。彼が教えてくれたことは、ありえないことだった。信じられないと思うこともあった。でも、すべての細かい事実に裏付けが取れ、僕はインタビューの最後にこう聞かずにいられなかった。
「なんでこのことを今まで誰にも話さなかったんだ?」
「あぁ、だって聞かれなかったから」(P13−14)

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