本の読める店

不定休者の言い分とその先

Entry 354

たまには連休みたいにしてみよう、みたいなつもりで10日と11日を休みの予定にしていたのだけど、今晩10日の夜の予定がなくなって、何をしようかなと考えて、なんとなく僕は鎌倉かどこかに行きたくなっていたのだけど天気も悪いし、それならば平生通りに映画館と思えど見たい映画もすっかり見当たらないし、どうしたものか、と考えた結果、店を開けることにしちゃった。
webで休みの予定を確認せずに来ちゃう方であるとか、看板を見て「やってるのね」つって上がってこられる方であるとか、あるいは「やっぱり開けますよ」の知らせで「じゃあ」つって来てくださる方とか、いくらかはきっとおられるだろう、だといいな、でありますように、と思って開けたところ、暇だった昨日よりもむしろいいあれで、よかった。

なんというか不定休者の自由を行使した感じの行動なんですが、僕はなんか不定休が好きなので前の店もずっとそうだったけど今のところフヅクエも不定休以外は考えられない。
最近はなんか妙にずっと開けていてうまく休めていないのだけど(4月のクソ出費分を早く取り返したくてしかたないみたいなところがある)、わりと木、水、火、月、木、みたいな、週末はよほどの予定がないかぎりは外してだいたい中5日くらいの感覚で休んでいた。

不定休、こちらにとっていいことといえば、休みたければ休めばいいし営業したければ営業すればいいという労働のフレキシビリティが一つで、今日のような「休み予定→やっぱ営業」はどれだけギリギリでやってもいいと思うけどもちろん「営業予定→やっぱ休み」は基本的にはやっちゃまずいとは思っていて、そういうつもりではやっているけれど、まあなんというか、休みたければ休めばいいし働きたければ働けばいい、のはいい。というか不定休ならまあ遠くてもひと月後くらいまでのところで働き方を決めればいいけれど、これが定休になったらそうはいかなくなっちゃう、その固定された曜日にがんじがらめにされる感じはちょっと嫌だなと思っていて。

で、それは僕の都合で、建前っぽい気もするけどいや実際そうだしなと思っているお客さんを向いた説明もあって、それは「曜日が固定されてしまうと来ることがまずできない人が生まれてしまう」というもので。どの曜日にしたところで、「あーその曜日は無理なんすわーだからフヅクエには行く機会持てないっすわー」という人がきっと出てくるはずで、僕はなんかそれは嫌だなと思っていて、行ってみたいなとちらりとでも思った人全員に機会があるようにしたい。だから曜日をガタガタにずらしながら休みにすることで、今週は無理だけど来週その曜日なら行けるわ、みたいな状態にしたい、というのが、建前っぽい気もするけどいや実際そうだしなと思っている不定休の理由で。

本当を言えば、というか理想を言えば、完全に無休とまではいかなくていいけれど基本的に毎日開いている店にしたい。上で「不定休以外は考えられない」と言った矢先にあれですけど、本当はだいたい毎日開けていたい。
ぐらぐらの不定休か、無休か、というわりと振れ幅あるあれなんですけど、無休がいいなということを考えるときに思い出すのが『お望みなのは、コーヒーですか?』という岩波書店から出ている「岩波ってこんな装丁の本出すんだーふんわりしてるなーなんか意外ーしかもふんわり装丁のわりに値段はすごいしっかりしてるしなんかよくわからないー」という本があって、スターバックスのあれこれを考察しましたという本なのだけど、そこでよく出てきて初めて知った単語に「プレディクタブル(予期可能性)」というのがあって、それを思い出す。要は「いつどこの店舗に行っても待っているのはあのスタバ」みたいなその感じの、安心感の総体を指す言葉だと思うのだけど、無休感とプレディクタブル感ってとても密接に関係しているような気がして、なんか思い出す。
で、僕はフヅクエの「ひとりで超ゆっくりできる、酒とか飲み飲み気が済むまで本読める」という機能が常に誰かにとって開かれている世界のほうがよい世界だと思うので、プレディクタブル〜という感じでだいたい毎日営業されていたらよいなと思っている。(なお、プレディクタブル〜であるならばせめて定休では?と思われる向きもあろうけど、そのプレディクタビリティと曜日固定による機会抹殺では後者の方が僕は嫌なのでそうはならない。)

で、「無休くらいの感じでやる」という考えは「僕以外の人間が立っている日ができる」ということを当然だけど前提にしていて、それはどういうタイミングでどういうふうに起こるのだろうな、というのはこれはもう開店当初というか開店する前から考えていることではある。
僕は機能としてのフヅクエをすごく大事にしたいところがあり、僕が倒れようが死のうがフヅクエは、あるいはフヅクエらしきものは続いてほしい、と思っている。その考えを支えるのは「なぜならばこれはとてもいいものだからだ」というわりと無邪気なフヅクエというものに対しての肯定感なのだけど、だから必ずしも僕が立たないでもフヅクエが成立するようには早めにならないとなーとは思っていて、同じようなことは前にもどこかで書いている気がするのだけど、そう思っている。
ただそのとき問題になるのは当面は売上だけどその先にあるのがフヅクエ固有のプレディクタビリティ=安心感を僕の存在を前提とせずにどうやって作るか、というか現状どこまでそれに俺寄与しちゃってるかな、他の人でも同じ感覚をどこまで持たせられるものなのかな、というところで、それはやるとしたら相当うまいことやらないとなとかは思っていて、だからあまり僕の存在に依存した店にしてはいけないんだ、属人的な場所になってはいけないんだ、と思っている、その一方で、多少の属人感もほしいというか多少は「いやでもやっぱりあんたが立ってるからこそのこの空気でしょ」とか言われたい気持ちもあったりして、それがゼロだったらさすがにさみしいような気もしていて、でもそればっかりになったら単純によくないというか未来があまりにないよなというのがあって、あーでも愛されてー俺込みのフヅクエとしても愛されてーみたいな、いやいや俺のことはやっぱいいからただただフヅクエを愛してー等々、このトピックについてはいろいろと複雑な気分なのだけど、っていったいなんの話してたんだっけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!1!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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