本の読める店

春の記憶

Entry blog fuzkue327

ほがらかな陽気を感じながらお菓子の材料を買いに行ったり、したあとにコーヒー屋さんにはいってドストエフスキーの『悪霊』を読んでいた。それはとてもほっこりする時間だった。600ページほどの上巻がやっと終わって続きをとリュックの中から下巻を取り出したものの、もっと厚いのかよ…みたいなところもあり、もはやそのとき読み続ける気は失せたため窓の外をぼーっと眺めていた。すると、たぶん梅の花が梅の花だとしたら梅の花らしい色合いで咲いており、「梅かな?桃かな?そのくらいわかるようになりたい」と思いながら、あっちの木は桜かな、楽しみだな、等々おもっていた。要はわりとほっこりとしていた。
店を出、緑道みたいなところと住宅みたいなところのあいだの道みたいなところを走っていると、住宅みたいなところの庭っぽいところでいくつも、さっき見たのと同じ色の花が咲いている。2月とは思えないほっこりした体感のなかで、「あ、春」と思う。あ、春、と思うとき、切なさのような喜ばしさのような、いつも僕のなかに染み入ってくるなんとも言われない淡い感情があり、それを今日もやはり感じる。

いつも思い出す。大学進学とともに親元を離れて遂行された一人暮らしのはじめての気分というか、あれら全体をいつもなんとなく思い出す。僕が住むことにした部屋は新築の3階建てとかのアパートとかで、薄いエメラルドグリーンとかで、1階2部屋とかのおとなしい作りの、階段がむき出しで外にあるので帰宅状況とか張っていたらすぐにわかる感じというか、「お、上がっているぞ」といった。と、記憶は正しいのか、と思いストリートビューで確認してみたところ、とても懐かしかった。
向かいが片側二車線の通りを挟んで公園で、休日は野球がいつもおこなわれていた。あとはバーベキューであるとか。工場の並ぶ通り。たくさんの電気を供給しなければいけないとかなのか、鉄塔みたいなところから何本も張り渡される電線。僕は2階に住んでいたのか3階だったのか。いずれにせよ通り側だったので、窓から公園が見えた。春になると桜がたいへん咲いた。大学2年の春先に別のところに越したのでその景色を見たのは2度だけか。え、1年しか住んでなかったのか?越したのは3年の春だったっけ。しかしなんというか。うわクソ懐かしい。どうしようクソ懐かしい。
でまあ、部屋は1ルームで、家賃は5万とかで安かったのだけどなんかずいぶん広々とした1ルームだった。12畳とかだったか。玄関の靴を脱ぐところがなくて、ドアを開けたらすぐに床で、きれいに長方形の、何も邪魔しない、収納とかたしかゼロの、そういう12畳とかだった。唯一で据え置かれている奥の左側にあるキッチンのあれはIHで、3口あったような気がする。そのわきに一段あがった感じでドアがあって、あけるとトイレで、洗濯機置くところがあって、そこの右側のドアあけると風呂だった。窓があって、あけると何かしらきもちよかった。洗濯物はどこで干したのか。ベランダはたしかなかった。

その部屋に、入学式のきっと数日前とかそういうあれで引っ越してきたのだろう。引っ越しは地元の友だちに手伝ってもらった記憶がある。その日夜ご飯はどうしたのか。翌日とかに一人になって、「あ、ひとり」とか思ったのか。思っただろう。自転車で、近くにある、それから何度も何度も何度も何度も行くことになるイトーヨーカドーに行っただろう。必要なものであるとかを買っただろうし、また、鶏肉と卵と玉ねぎも買っただろう。米も買ったのかもしれない。あと顆粒のだし。あれが初めてのそれだったのか、僕は鶏肉と玉ねぎを煮て卵とじみたいにするみたいな料理みたいなものを作ろうとしたのだろう。そのとき、顆粒だしを入れれば煮物の味付けになるものだと思い込んでいたらしく、味付けは顆粒だしのみ、それを夕食として食べようとして「まずっ!!!」となっただろう。そしてあまりのおいしくなさに食べ通すことができなくて、捨てただろう。作った食べ物を捨てることのおそろしい罪悪感にさいなまれながら、しかしそれでも捨てただろう。暮らしはそうやって始まっただろう。それがそれからさき何度も何度も思い出すことになる季節であることなど知るはずもなく、桜の花を眺めるだろう、電線を眺めるだろう、流れる車の音を聞くだろう、草野球の歓声と打球音を聞くだろう。
何かが変わってゆくような、そんな気がした、あと少しで、という、あの気分を、十年といくらかを経て、また今年も、と思いながら、今日、思い出すだろう。

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