欲望すること

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「自分なりに幸せでありたい思うとき、しかし自分にとって幸せな状態とはどんなものなのか、意外にわからないものだ。幸せは絶対的なものであって相対的なものではないのだから、人と比べたりしなくていいのに、と言う人もいる。それもそうだとわかる。でもそれも自分にとっての幸せがいい具合に定義されればこそであり、そうでない場合、やはり周囲の人々がどのような状態で幸せと感じているのか、自分のなかに根を下ろしている通念であるとか規範であるとかはどのような状態を幸せと措定しているのか、そこから現在の自分はどのていど離れているのか、近いのか、目安があるとありがたい。やりやすい。ゼロからそれを感じるのは意外にむずかしく負担の掛かる作業だったりすると思う。何かを感じたり何かの状態にあったりするとき、いったんそれを頭上に浮かぶ幸せ判定装置にあずけて、照合して、なるほど、こういうのが幸せということか、それでは安心して幸せを感じます、というのは、労力との兼ね合いを考えたとき、そう後ろ向きのものではないように思う。
絶対的なもの、自分固有のものとしての幸せを信じられる人はある種の強さを持った人だと思う。あるいはある種の宿命みたいなものを背負ってしまった人だとも思う。曖昧な感覚でしかないけれど、絶対的な幸せに至るためには、相対的な幸せ、幸せ一般のようなものを横にどける、あるいは正面から破壊する、そういった大変な作業が必要とされるのではないか。まだ名前のつけられていない道をゆくそれは孤独な歩みだと思う。よほどの強さを持たないと簡単に揺らいでしまうと思う。支えは自分しかないのだから、血の滲んだ足に気を取られた途端に、向こうから呼びかけてくる退屈な声に気を取られた途端に、横から吹く風に怯えを感じた途端に、自分を信じる力を少しでも弱めた途端に、あっけなく足を滑らせ落下してしまう、そんな苛烈な歩みだと思う。
映画『ザ・ウォーク』』は、一人の欲望する男がひたすら欲望に忠実に生きる姿を描いた映画だった。こんなに強烈に何かを欲望する人間を見るのは久しくなかったように思えるほどに、男は強く欲望していた。男が欲望するのは地上400メートルだかの2つのビルの屋上をワイヤーで繋いで、命綱なしにその上を歩くことだった。共犯者を集め、実行に移すために彼は全力を傾けた。それは当然法律に反し、当然一つの間違いで死ぬことだった。なんて自己中心的なやつなんだ、人のことも少しは考えなさい、さすがに、と常識的な人間である僕は苛立ちを何度も覚えた。逮捕されるリスクを負いながら協力している仲間たちへの感謝がないし、自分が死んだときに悲しむ人がいるという頭がない。彼には他者がない。いい加減にしなさい、そろそろやめなさい、僕は「何かに浸してたっけな?」という程度に汗で濡れた手を握りしめながらハラハラと、イライラとしていた。これは決して信頼の映画なんかではなかった。そのとき彼にとってワイヤーの張られ具合など関係なかった。ただただ、彼は欲望していた。繰り返し「これはクーデターだ」と、「アートだ」と彼は言うが、そんなのはどぎつい欲望を都合のいい言葉で飾りつけているだけだった。「こうと決めたら譲れない男だ」というようなことを女を口説くとき口にしたように、彼はどうしても譲ることができない、抑制することができない男だった。欲望の奴隷になることでしか人生の主人になれないたぐいの人間だった。
その男を一定の苛立ちと感嘆とハラハラとドキドキの中で見つめているうちに、それらの感情群のなかに畏れのようなものと羨望のようものが混ざりこんできた。絶対的な幸せの極限の形を見ている気になったらしかった。
極大化した欲望にドライブさせられることこそが、獰猛な欲望に支配される存在になることこそが絶対的な幸せを得るということではないか。法にも倫理にも常識にも何にも相対化されない、恐ろしい、扱いづらい、手に負えない、飼い慣らすことのできない、湧き上がる欲望こそが、剥き出しになった幸せの姿なんじゃないか。彼が幸せだったとするならば、それはただただ、何をおいても実現したい強靭な欲望を持ち得たからではないか。
自分なりに幸せでありたい。だから、欲望を持ち続けていたいと、ここまで激しいものでなくていいから、欲望を持ち続けていたいと、ほとんど祈るような切実さで、とても思った。」という感想文が書かれた、という話でした。書けば書くほど、「『ハッピーアワー』のこと書いてるんだっけな?」という感覚になった。欲望。欲望と幸せ。