本の読める店

死んだ言葉は傷つかない

Entry 320

富ヶ谷の交差点を曲がってゆるい下り坂を進んで交番のある交差点をまっすぐ行くと両サイドは代々木公園でその右サイドは一面まっしろに雪を残していた。きれいにまるく剪定されたあれなんていうんだろう灌木?植木?とにかくそういったものの頭だけ緑色でふだん芝生のところはすっかり雪で、白地に緑のあれなんていうんだっけ、そういう図柄、丸い図柄、カタカナの、丸いやつがポツポツあるやつ、図柄、そういうやつ、なんだっけ、カタカナの、出てこない。
ともあれ雪の日の翌日だかに下記のあれを読んだ。

首都圏を襲った雪から生まれた迷アナウンス : 市況かぶ全力2階建

たいへんたいへんとは聞いていたけれどもほんとうにたいへんだったんだな〜と思ったのですが、それはいいんですが、なんというか、「いいな」と思ったというかほっこりしたというか、いろいろ切羽詰まっているであろうなかで発せられる車掌さんであるとかのアナウンスを見るにつけ、ここには生きた言葉があるなあ、と思ったというか、っていう話なんですけど。あ思い出した水玉だ。水玉模様みたいでした代々木公園の右サイ、という話でした。カタカナじゃなかった。

で、生きた言葉がやっぱりいいっすよねーというか好きだなーという話なんですけど、電車の放送とかの定型句が繰り返されるのがデフォルトのようなものにおいてイレギュラーな、それを発している人間の何かがあらわれてしまうような、そういう言葉が聞けるというのはギャップもあってよりいっそう萌えるというかよろこばしい。と記事読んで思った的な。
ここで死んだ言葉と生きた言葉の区別をつけておきたいのだけど、暖簾に腕押しみたいな糠に釘みたいな感じの政治家の答弁とかは死んでいるのでたいへん寒々しい。たいていの謝罪会見みたいなものも言葉が死んでいる感じがしてむなしい。
身近なところでいうと僕がすごく忌避している店があってそこの店の人は入ってから出るまでのあいだに7回くらい「ありがとうございますー」と言う(入店時2回レジのとき5回とか)ので毎回それはもうものすごい嫌な気分になるのでできるだけ行かないようにしていて、必要に迫られて行くときも外からその「ありがとうございますー」さんがいるかいないかを確認していないことが確認されたときだけ入る。それくらい、ブックオフのあれとかもそうだけど、からっぽの「いらっしゃいませ」とか「ありがとうございます」は寒々しいことこのうえない。
あといつも行くスーパーの放送で店内での喫煙はご遠慮くださいとかあって「誠に恐れ入りますが」と言うのだけど現在の社会常識みたいなものに鑑みた時に誠に恐れ入る必要はないだろうそれはと思うのでわりと死んだ言葉3級くらい認定。

なんていうか、去年読んだ武田砂鉄の『紋切型社会』には大きな快哉を叫んだんですけど、それもこれも死んで凝り固まった言葉が恥ずかしげもなく流通というか跋扈している感じをなんか「どーーーん!」とやってくれたからで、これだけ気持ちいいということはよほど苛立っていたのだなと改めて思った。死んだ言葉を発する口には考えがないというか反省がないというか運動がないというか、とにかく貧しい。と感じる。
僕が接客の仕事をしているからよりそういうことに敏感なのかもしれないのだけど、死んだ言葉が使われる接客は僕はそれ自体たいへん死んでいると感じるし、そんなんで済ませてたらたちまち機械に機会奪われちゃうよ?せっかく人間なんだから人間っぽくあれしたら?というか、いや違うかな、せっかく働くんだからちょっとなんかまじめに働くというか自分にとって悪くない気分を作るように努めたらいいのにな、というか、いやなんというか、そういうのをコンビニの店員とかに求めるのも酷というか僕のこの感じってモンスターカスタマー的なあれに近かったりするのかなサービス求めすぎ的な、と思わないでもないのだけど、あんな死んだようなあれしていたらその時間自体みすみすすごいダメなものにしちゃいそう、もったいない気がする、というか。余計なお世話なんですが。

いや違うんですよね。なぜ死んだ言葉が発せられるかというか、死んだ言葉を発する大きな大きなメリットがあって、天秤に掛けた時にまあそりゃ死んだほう選ぶかなみたいな。
死んだ言葉のメリット。死んだ言葉は絶対に間違わない、間違いが起きようがない、と思っていて、違うかな、死んだ言葉は傷つかない、これかな、これかもな、死んだ言葉は傷つかないんですよ。例えば入ってきたお客さんに対して目を見て「こんにちは」と言ったときにまったく反応がないとダメージ的なものを受けたりというのがあるのだけど、ほとんど無差別みたいなセンサーに反応みたいな方法で「いらっしゃいませー」とやるのだったら、反応がなくても問題ない。むしろ「あ、こんにちは」と返されたら戸惑うくらいの。とか。
あそうか、死んだ言葉っていうのはコミュニケーションのための言葉ではないということか。「それを言った」という事実だけが求められている言葉というか。死んだ言葉は間違わない。傷つかない。すべらない。そこに他者はないというか、少なくとも目の前の他者は関係ないというか。

フヅクエはしゃべっちゃならぬという店ではあるのだけど、機械的な冷たい場所ではありたくなくて、僕はお客さんを人間とみなしているしお客さんにも僕を人間とみなしてほしいと思っている。
ので、ご注文を受けるときとかお帰りの際とかの限られた言葉数だけど、そのなかで自分が発する言葉が死んだものにならないように気をつけているつもりなのだけど、そうすると「さっきの言い方間違えたなー」とか「うんともすんともあれだったなー」とか「あれ言う必要なかったなー」とか、間違えたり傷ついたりすべったりするのだけど、それでいいというか。そのリスクは取ってしかるべきものというか。間違いうるからこそ豊かであたたかでプレシャスな瞬間になりうるというか。生きたい。

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