私の好きな料理本

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縦書きの料理本が好きだ。
「作ってみたいな」と思ったレシピがどこにあったか探すのに苦労するような、検索性を著しく欠いた、淡々と文章が綴られているタイプのやつ。
写真いっぱい手順明快な料理本というのかレシピ本というのかも買うし見るのだけど、いま図らずも「見る」と打ったように、レシピ本はあくまでも見る感じのもので、僕は紙に印刷されたものを見るという行為がどうも不得手のためレシピ本を見ることはそう得意ではない。漫画や写真集やアートブックも得意ではないというか、どう情報を処理していいかわからないというのか、慣れていないだけのような気もするけれども、それらを見るのはなかなかに疲れるし何か心もとない感覚になる。
また、僕にとっての読書は、これは自分の貧しさ、けちくささ、そういったものだと思っているのだけど、基本的に読み切ることが目指される行為で、最初のページからおしまいのページに向けて、ページをめくっていく。読み終えたら書店のカバーを外して棚におさめる。その一連の儀式が僕の読書を駆動させている感があり、あっちを見たりこっちを見たりするレシピ本は永遠に終わりを告げてはくれない。すると自然と手が遠のく。
そういった点で、縦書きの、順繰りにテキストを追っていくことを許してくれる類の料理本は僕にとってとてもいい。レシピがアバウトだったりするのもとてもいい。作る際の考え方みたいなものだけがこちらに伝わってくる感じも心地いい。そういう組み合わせがありなんですねとか、それをそういうふうに調理してみるんですねとか、料理を作る際の思考の種みたいなものだけ知れれば満足というか。
それに「今回は縦書きでいきましょうか」と編集者とかに言われるだけあっていい文章が書かれることもきっと多い。とか言いながら多く読んでいるわけでは全然ないので例は少ないのだけど、いま読んでいる細川亜衣の『食記帖』や『長尾智子の料理1,2,3』(これは「料理エッセイ」という括りなのかもしれないけど、料理本は料理本というか)なんかはたたずまいが素晴らしく凛としていて、とにかくうっとりするし、時に息を呑む。
『食記帖』のP169、「トマトとうふ麺」とか、とてもいい。
作り方が書かれるかと思いきや、「ころころ変わる天気、けだるく重い体、何も作りたくないが、昼飯前に椿が寝てしまって外食もできない」と始まる。「いったいなんの話ですか!」と思いながら読んでいくと、料理本を開き、中国の記憶を思い出し、とうふを腐らせてしまったことに思いを馳せ、10行くらいしてやっと料理が始まる。突然の転調がとてもスリリングで面白かった。
また、昨日読んで「うわ…!」となったのが『長尾智子の〜』のP22「料理をはじめたばかりの君へ」。
これはほんとやばい。鳥肌が立つ。長尾智子feat.ILL-BOSSTINOという感じの怒涛具合というか、『演武』の最後の宮沢賢治の「告別」のときのあの畳み掛けられ方というか、「路上」のトラックでボスにラップしてほしいというか。全文引用したいくらい。とんでもなくおっかないというか、語りの視点がどんどん入れ替わっていく、景色がぐんぐん変わっていく、その様子は鬼気迫るというか、一瞬たりとも気を抜けないというか、飲み込まれるというか、とにかく、とんでもない異形の語りがここにはある。
以上、ほんとびっくりしましたわ、最高ですわほんと、という話でした。