今日の一冊

2019.04.18
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####デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由』(井上里訳、柏書房)
2017年4月19日
あるときふと、本であふれたアパートで気づいたのだ。もはや自分の中に、本を読むために必要な静寂を見出だせないということに。(…)
本を読むにはある種の静けさと雑音を遮断する能力が必要だ。過剰にネットワークが張りめぐらされたこの社会では、それを得ることは次第に難しくなっているようだ。あらゆる噂がブログに書かれ、ツイッターでつぶやかれる。深く考える機会は少なくなり、注意力は散漫になっていき、ネットでは事情通の連中があらゆる情報を提供してくる。(…)
本離れの原因はいささか違っているものの——わたしの場合は、重大な事件ではなく、現在進行形のつまらないことが理由だ——結果はたいして変わらない。わたしの集中力はこま切れになり、カルチャーに関する世間の騒ぎや、だれかれのブログの更新や、新しいニュースや、とにかく、ネット上のあらゆる叫び声がつい気になってしまうようになった。大人になってからは、ロスの『ゴースト・ライター』に出てくるE・I・ロノフと同じく、読書をするのはもっぱら夜が多かった。レイと子どもたちが寝てから、百ページとかそこら読むのだ。ところが最近では、パソコンの前で数時間過ごしてからでないと本を手に取らなくなった。一段落ほど読むと、すぐに気がそれて心がさまよい始める。すると、わたしは本を置いてメールをチェックし、ネットサーフィンをし、家の中をうろついてからようやく本にもどるのだ。あるいは、そうしたい気持ちを抑え、無理にじっとして本を読むこともあるが、結局いつものパターンに身をまかせてしまう。 デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由 』p.45-47

せっかく本を読み出したのにこの箇所を読むと僕はiPhoneを取り出して消音のカメラアプリで1ページずつ3枚の写真を取って、それを写真アプリで開いてパソコンのディスプレイの隅——escからF2にかけての位置だ——に立てかけて、このように引用部分をタイピングする。そのあとで僕は4本指で左にスワイプしてChromeの画面に向かい、「プロ野球 - スポーツナビ」のアイコンをクリックする。野球の日本代表チームの監督人事に関する記事がトップに出ているがそれは読まない。プロ野球のニュースを読むことは安全地帯への逃避みたいなところがなくはない。うんざりする悪感情はそこにはなく、今日もまた、この世界のどこかで真剣に野球をやっている人たちがいる、というそれだけを僕は知りたく、それを知って安心かなにかを覚えたくて、頻繁に向かってしまうのかもしれない。読書においても同じことがいえるだろうか。
読書においても同じことがいえると思う。わたしたちは、テキストをひな形として与えられ、それを自分仕様に作り変えなければならない。そうして作り変えたものを、物語と呼ぼうが物語的真実と呼ぼうが、それは自由だ。なんとでも呼べる。だが、つまるところ、それはペインがほのめかしたものに劣らず説明しづらい創造の行為であり、わたしたちにとって、自分自身を理解するためのひとつの道なのだ。
デヴィッド・L・ユーリン『それでも、読書をやめない理由 』p.62
読書は僕にとって自分自身を理解するためのひとつの道なのだろうか。結果としてそういうことが起きることは(他のなんであれ起きるときは起きるであろうように)あるだろうけれどもそんなに立派なことではない、ただの大好きな趣味であり時間つぶしでありなによりも日常というか日々の基調みたいなものだった。ただ本を読みながら生きているだけだった。
ただ本を読みながら生きていたら読み終えた。途中でいろいろを憂いているような、テクノロジーに対して全然否定的な人ではないにもかかわらずそれでもいろいろを憂いているようなところがあり、憂いている人よりも喜んでいる人のほうがセクシーだなと思いながら読んでいたのだけど最後は明るく終わったのでよかった。読書は読書だ。それでいい。本を読んでいるだけだったのに疲れた。生きているだけで疲れるということだった。夜になると肌寒くなっていった。空調が難しかった。日中はドライで掛けていたが暖房に切り替えた。なにが正解なのかはわからない。
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